03
「―――そこのおにいちゃん!」
なるべく可愛く、ついでにぴょんと跳ねたりなんかして、昼間の通りを行く男の注意を引く。まず警戒されるが、明るく笑顔で回り込み足を止めさせるのだ。
「くつがどろどろよ? きれいにしてあげるよ、かくやすで!」
「は、靴?」
男がきょとんとしているのは、路上の靴磨きという商売がこの街に不思議となかったせいだ。地面が剥き出しの道路で多くの人が革靴を履いているために、よく手入れをしていないと土埃でくすんでしまう。どことなくめかしこんでいる男の靴も同様だった。
「おしゃれはあしもとから! そんなきったないくつじゃ、フられちゃうよ?」
「・・・そ、そうかなあ」
素直に自分の足元を見つめる男はどうやら人が良さそうだ。これはいける。
「とくべつなひは、ぴっかぴかのくつで! すぐおわるよ! ためしにかたほう、どう?」
何度も繰り返した商売文句は、舌っ足らずでも噛まずに言えるようになっていた。特別な日というフレーズが男に引っかかったらしく、値段を聞いて全然安いと思うとじゃあやってもらおうかなということになった。男の手を取って通りの端に寄ると、すかさずお姉ちゃんが足を置く用の木箱と道具を持って現れる。私は手早く、まずはゴミ捨て場で拾ったブラシでさっと靴の泥を払い、指に巻いた布切れで念入りに表面を磨く。そして最後に光沢を出すため、うすーく蝋を塗る。するとみすぼらしかった革靴がてかてかと新品のような艶を出すのだ。
片方終えると男はびっくりして感嘆の声を上げていた。
「どう? きれいになったでしょ?」
試しに片方やってみせれば当然もう片方もやらざるを得なくなる。じゃなきゃ変だもんね。このタイミングで客に金を貰い、残りを仕上げると、すかさず姉がバスケット(これも拾った)の中から、小さな花のブーケを差し出す。
「恋人さんにどうですか? 100ベレですよ~」
ベレがこの世界というか国の通貨単位。1ベレ1円と思って問題ない。ちなみに靴磨きは500ベレ。
ブーケの中身は元手ゼロの野花でラッピングも布の端切れだが、うまく誤魔化しているのでそれなりに見える。人の良さげな男はまんまと騙され、ブーケも買って意気揚々とデート場所へ向かって行った。もしくは今日、告白する気なのかもね。
「やったね!」
男がいなくなってからお姉ちゃんとハイタッチ。ちょろいぜ。
みなしごになって一年、姉妹ともども、なんとか生きております。
いやほんとどうなることかと思ったけどね。特に冬が来た時はもう終わったかと。路上にいたら確実に死ねると思い、夜な夜な商家の馬小屋を渡り歩いたものだ。幸いと以前の生で乗馬の経験があり、多少は馬の扱いに慣れていたため、家の者が見回りに来た時には馬をなだめつつ馬房の中へ隠れてやり過ごした。ただしうまくいったのは数度だけで、馬の様子がおかしいことに気づかれ追い出されることのほうが多かったが。
物乞いしてもほぼ収入が見込めないことを悟り、商売を始めたのがみなしごになって一週間が経った頃。他の子供がやっていたように、はじめは摘んだだけの花を売っていたが、日常的に花が必要な人間はいない上に、何よりシェア争いが激しかった。他の路上商売をと考え、思いついたのが靴磨き。戦後の日本じゃよくあったものと祖父に聞いていたが、この街の人間にはそういう発想がなかったらしく、店には革靴しか売っていないようなのに、手入れをしている人間は見たところほぼいないのだ。前の世界で父がしていた手入れの仕方を思い出し、ブラシなどの道具を拾い物から揃え、艶出しクリームのかわりに近くの礼拝堂(どんな神を祭っているのかは不明)から、ちびた蜜蝋を貰って使うことにした。蜜蝋というのは橙色をした最も原始的な蝋燭で、蜂の巣から精製される。少ししか取れないものでそこそこ貴重だったはずだ。ちなみに、実はこれ自体が食べられるので非常食も兼ねている。たまたま大学時代の知り合いに養蜂家がおり、まさか雑談の中で聞いた知識が転生してから役に立つとは思わなんだ。
デートの前や身だしなみをわりと気にしている男性が主なターゲットとなるため、ついでに花を売るといいんでない? と思い、いっそのことブーケにしようと、仕立て屋を探して端切れを貰い、パッチワークにしたら斬新でありつつ美しいブーケができたのだ。五歳の私の手に裁縫は難しかったので、これは姉の担当となる。器用なお姉ちゃんで助かった。
売り手の私たちもできる限り身綺麗にするよう心がけ、虱が湧かないよう髪を短く切って売り払い(カツラなどに使うのだと思われる)、川でこまめに服を洗って体を拭くようにしていた。きったない格好で、きれいにするよ! とは言えないものな。
日暮れまで働いて稼ぎは平均2000ベレ前後。ほとんどが食費に消えてしまうものの、残った分は貯金している。そうそう、初めて収入を得た時には例のパン屋に買いに行ってやった。店主が豆鉄砲食らった鳩みたいな顔をしていた。ざまあみろ。
だがやっぱりムカついたので二度と行っていない。今日も別の店から食糧を調達し、人目に付きにくい礼拝堂の影で、姉と少ない夕飯を摂った。
「エメ、それで足りる?」
「へーき。リルねえこそ」
リディル略してリル姉だ。たった一人の家族を、いつからか親しみを込めてそう呼ぶようになった。
優しい優しいリル姉は、私が足りないんじゃないかって、毎度自分の分を寄越してこようとする。まあ足りないことに違いはないし、一度も満腹になった経験がなく常に飢餓感がまとわりついているが、私より体の大きいリル姉のほうが明らかに栄養が必要なのだ。だが私が明るく断ると、リル姉は申し訳なさそうに眉根を寄せる。
「わたしのほうが多く食べてるわ」
「リルねえおっきいから、たくさんたべなきゃなの」
「でもエメが稼いでくれるおかげなのに」
「ふたりでかせいだよ」
「エメのほうが多いじゃない」
「ブーケ、ねあげする?」
「そういうことじゃなくて」
だめか。姉としてのプライドがあるのかなあ。とはいえこっちの精神年齢はすでに三十路過ぎなんですよねえ。
一応、リル姉にも靴磨きのやり方を教えてみたのだが、蝋を塗る量を本人が掴めず、あんまり練習するともったいないので役割分担する方向になったのだ。ブーケ一束100ベレ、靴磨き一回500ベレでは仕方がない。でも、私が一日にせいぜい二人か三人をようやく捕まえている間、リル姉はブーケを売り歩いて私よりずっとがんばってくれているのだ。
「リルねえのおかげだよ? わたしひとりじゃ、いきられないもの。わたしもリルねえの、やくにたちたいの」
だから機嫌直して? と首を傾げて姉を窺う。実際、私一人だけだったらここまで強く心を保っていられたかわからないのだ。私たちは支え合って生きているはず。するとリル姉は鼻から息を吐き、
「あなたって、いい子ね」
あと賢い子だわ、と頭をなでてくれた。恥ずかしながら、それだけのことが私にはすごく・・・すごく嬉しくて、心がまるでご褒美を貰えた犬みたいにはしゃぎ回り、ついはにかんでしまった。
いい子はリル姉のほうだよ。たった十二歳で妹の面倒をみてんだもの。優しいし、可愛いし、自慢のお姉ちゃんだよ。もう大好きだ。