16
迷える子羊には神の救いを。苦しむ衆生には仏の慈悲を。
そして悩める妹には、姉のお言葉を。
「私も行けば、エメは王都に行く気になる?」
隣を見るとリル姉が微笑みすら浮かべていたのだ。不意に言われた私は面喰らってしまった。
「行く、って? え、リル姉も魔法学校に入るの?」
「違うわ。私には難しい勉強なんてわからないもの。そうじゃなくて、王都で働きながらエメと暮らすってことよ」
「・・・ほんとに?」
この時の私はかなり間抜けな顔をしていたと思う。まさかそんなことは考えてもみなかったのだ。
「ほんとうよ」
リル姉はそっと、私の頭に手を置いた。
「不安な時怖い時、私たちはいつも一緒だったじゃない」
うん・・・そうだね、私たちは二人だったから、何があっても大丈夫だったんだよね。
なんだそうか、私はただ怖かっただけか。リル姉たちのことでじゃなくて、一人で知らない場所に生きることがだ。だってリル姉が行くと言ってくれただけで、嘘みたいに不安が消えてくんだもの。こんな子供じゃなかったはずなんだけどなあ。
「でも、王都で仕事が見つかるかわかんないよ? ここだってようやく見つけた場所なのに」
「うーん・・・あ、ねえジル姉、お店を王都に移すってどう?」
なかなか大胆な案だ。ジル姉たちが苦笑してる。でもけっこう良い考えだなと私はわりと本気で思った。王都のほうが人は多いだろうし、うまく宣伝を打てば今より儲かるんじゃないだろうか。うちの薬は評判がいいからね。店を移すのにかかる費用はまたレナード宰相あたりに借りるとしてさ。
「できたらいいが」
私のほうは頭の中で勝手に計画を練り始めていたのだが、ジル姉は考える余地もない様子ですぐに首を横に振った。
「だめ?」
「悪いが私は事情があって王都に行くことができない」
「・・・それって兵士時代のことで?」
「ああ」
マジで何があったんだよ。やっぱ後ろ暗い理由があるんだろこれ。
「リディルは薬を作れるのかい?」
話を逸らすようなタイミングで、レナード宰相が尋ねた。完全に教えてくれる気がないとみた。
「例えば傷薬を調合したり、手当てなんかも?」
「そのくらいならいつもやっています」
「ちょうどよかった」
レナード宰相はなぜかにっこり笑ってジル姉を見た。
「君の妹たちは本当に優秀だね。君は教育者にも向いているんじゃないかな」
「私は何もしていません。すべてこの子らが努力して得た成果です」
それから宰相は、きょとんとしているリル姉に向き直った。
「実は王宮の医療部が人手不足でね」
・・・王宮? まさか。
「久しく戦はないが、厳しい訓練を受けている兵士たちがしょっちゅう担ぎ込まれる場所だ。ついこの間、そこで医師の補佐をしていた女性が一人、結婚を機に退職してしまってね。ちょうど後任を探していたところだったんだ。もしよければ取り次ぐけれど、どうかな?」
「わ、私が宮仕えできるんですか?」
リル姉、びっくりして声を詰まらせてしまっている。
なるほど、仕事は負傷兵の看護を担当するいわば軍医か。患者はジル姉みたいなたくましい相手ばかりなんだろうな。そこが若干不安な気もするが、リル姉の能力が存分に活かせる場ではあると思う。ところでどうでもいいが、一部署の人事をなんで宰相が知ってんだろ。これって普通なの?
「もちろん採用になるかどうかは医療部で決めることだが、ジゼルのもとで学んだ君なら大丈夫だろう」
「は、はい、ありがとうございます!」
なんだかんだで出世はリル姉に先を越されてしまった。だって絶対受かるだろうし。
レナード宰相の粋な計らいのおかげで、私たちは離ればなれにならなくて済んだ。あとは・・・
私もリル姉も、ジル姉をそろって見つめた。
「ねえ、本当にいいの? 私たち、ジル姉にはほとんど恩返しできてないんだけど。あ、いや、これからするつもりではあるんだけど」
「お店もジル姉一人じゃ大変よね?」
「余計な心配はするな」
そうしてジル姉は私たちを引き寄せ、頭をわしゃわしゃした。
「妹たちが立派になってくれるのは嬉しいことだ。いいから何もお前たちは気にするな。私は十分助けられたし、毎日が楽しかった」
相変わらずこの人の過去は謎に満ちたままであるが、そんなことを言われて、優しく抱きしめられたらもう、全部がどうでもよく思えた。
「・・・ジル姉」
「なんだ?」
「王都に行っちゃいけないのは一生の話?」
「・・・そうだな。エメが一人前になる頃には、行けるようになってるかもな」
なんだ、だったら意外と遠くないではないか。
「じゃあその日が来たら王都にお店を出そうよ。私とリル姉がそれまでにいっぱい稼いで資金溜めとくからさ。で、また三人で暮らすの」
抱きついているので顔は見えないが、笑う声だけは聞こえた。
「楽しみにしてるよ」
――――よし、がんばろう。
まずは試験に合格することだ。愛すべき家族の未来のため、出世街道、乗ってやるぜ!