12
レナード宰相が店を訪れてしばらくの後、街が騒然となる出来事が起きた。
学校ができたのだ。
とはいえ大それた規模ではなく、教室が一つのささやかな学び舎ができただけなのだが、街の子供が無償で通えるということに皆が驚いていた。
学校と言えば貴族の子息が通うもので、これまで庶民向けの公立学校は皆無であったのだとか。字を書けない大人が普通にいるんだものなあ。商売人はさすがに伝票などを書くため文字をある程度は知っているようだが、例えば長文の本を読んだりできる人間はなかなかいないそうだ。かくいう私とリル姉も。身近にそもそも本がない。活字飢餓が半端ない。
ジル姉によれば、レナード宰相は常々この国の教育水準の低さを憂いていたそうだ。知識を一部の人間が独占することで格差が生まれ、下はいつまでも下のまま、上にいる者は悠々と胡坐をかいて努力を怠る。それでは国力が低下する、と。しかし、なまじ下層の人間に知恵をつけられると王制国家の絶対的ヒエラルキーが脅かされると反対する人もいるそうな。レナード宰相はその辺も含めて教育すればいいと主張し、まず試験的に(自腹で)自分の領地に学校を作ってみたんだって。この間、勉強が好きかと聞かれたのはこのためだったのね。
本が読めるのなら、ぜひにでも行ってみたかった。この世界のことをもっとよく知りたかった。教育水準の低さは生活水準の低さ。レナード宰相の考えには賛成だ。しかし、店のことがある。残念ながら勉強は労働に含まれない。やっている最中はお金にならないという意味で遊んでいるのと同じこと。利益の損失がはなはだしい。
ので、いよいよ開校しても行くことができなかった。ジル姉は行きたければ行っていいよと言ってくれたんだけどね。やっぱさ、さすがに山ほどある仕事を放り出す気にはならないわけで。元をただせば無理やり居ついて散々世話になってる分際でさ。学習欲求は日増しに強くなる一方だったが、なんとか責任感と理性で抑えていた。ところがそんなある日、ジル姉に頼みごとをされた。
「学校に行ってくれ」
行って『いい』、ではなく、行って『くれ』である。私もリル姉もきょとんだった。
「生徒がまったくいないんだそうだ」
開校から半年が過ぎた今、結果はレナード宰相の期待を大きく裏切っていた。
私たちのようにがっつり働いている子供はさることながら、そうじゃない子供も顔を見せたのは最初だけで、すぐに来なくなったらしい。そもそも勉強する習慣がないんだろうな。
現状を知った王都にいるレナード宰相から、ジル姉への救援要請があったそうだ。
「店のほうは心配するな。学校に行っている間くらいはなんとかなる」
「でも・・」
「エメは行ってきたら? ずっと行きたそうにしてたじゃない」
「それはそうだけどさ・・・」
「私は店にいるから大丈夫よ。もともと特に行きたいと思ってなかったし」
リル姉、それ宰相が聞いたら泣くかもしれないよ。
「いや、リルも行ってくれ。なるべく多く寄越してほしいと言われてるんだ」
ジル姉としてはレナード宰相の頼みを断るわけにいかないんだろう。結局、私たちは後ろ髪を引かれる思いでひとまず学校へ行くことになったのだった。
賑やかな中心街の片隅に、学校はひっそりと立っており、誰も座っていない椅子と机を臨む正面の教卓では若い男性教師がさめざめと泣いていた。
大きく開け放たれた入り口でそれを見つけてしまい、私もリル姉も言葉なく立ち竦んだ。なんか・・・すごく面倒な予感。
「あの、授業を受けに来たんですが・・・」
リル姉が先に意を決して男におずおずと近づいていき、私も後に続く。そこでようやく私たちに気づき、教師はぽかんとした顔にみるみる喜色を浮かべていった。
「ようこそ! さあ待ってましたよ早く席に着いて!」
あれよあれよの間に手近な席に押し込められた。上等な服の袖で教師は涙を拭う。
「私はフェビアン・ウジェーヌ。皆さんに貴族と同じ教養を身に付けてもらうために王都からやって来ました。私のことはフェビアン先生と呼ぶのですよ。さ、次はあなた方の番です。名乗りなさい」
言葉丁寧だけどものっそ上からくる人だな。まあこの人も貴族なんだろうしな。レナード宰相もそうだったが貴族って肌の色素が薄いみたい。白くてきれいだが、なんかお上品で鼻につく。微妙に発音やアクセントの違う話し方も。
「私はリディル、こっちは妹のエメです」
「二人とも字は読めますか?」
「簡単なものなら」
「それはすばらしい」
するとフェビアン先生は、どん、と私たちの前に分厚い本を一冊ずつ置いた。
「ではまずこの本を読んでみましょう。まず1ページ目から声に出して読んでください。リディル」
ちょ、待った早い早い。いきなり教材が分厚すぎる。簡単なのしか読めないって言ってんじゃん。案の定、リル姉が困ってしまっていたのですかさず反抗の挙手。
「知らない単語や文法があります。まずはそういうのから教えてくれるんじゃないんですか? あと」
私はさっきからずっと気になっていたものを指した。
「先生が持ってるものはなんですか?」
「これですか? これは鞭ですよ。間違えた生徒の手のひらを叩くものです」
やっぱりな! 教鞭ってやつだろう。ご鞭撻よろしくとは言うが実物初めて見たぞ。モンスター・ペアレントが見たら激怒して三段階変形するぞ。
「そんなことやってるから生徒がいなくなるんですよ!」
「ええ!?」
確かに痛いのが嫌で必死に勉強するかもしれない。でもそれは寄宿舎学校や家庭教師など逃げ場のない状況での話じゃないのか? ここみたいに出入り自由な場所だったらまず逃げるって。そもそも勉強意欲があまりなく、ほとんどが興味本位で覗きに来た子供ばかりだったろうに、わけわからんまま授業進められてだから間違えるのに鞭で叩かれたら二度と来たくなくなるわ!
フェビアン先生は愕然とし、よろめいて教壇に両手をついた。
「そんな・・・生徒が集まらないのは私のせいだったと言うのですか?」
「他に原因ないでしょう」
この人自身は別に悪気があってやったのではないだろう。自分がそういうやり方で教わったから、同じようにしただけなんだ。だが決してどこでも通じるやり方ではないんだと、まず彼のほうこそ勉強してもらわなければ。『教える』というのはもっとずっと難しい仕事なんだってことをさ。
「フェビアン先生、私たちの話を少しだけ聞いてもらえますか?」
私が少しばかり厳しく責め立てた後で、リル姉が優しい口調で申し出た。今にも膝から崩れ落ちそうだった先生が顔を上げる。
リル姉は滔々と私たち姉妹のこれまでを話した。なんの庇護もなく、常に何かに怯えながら、明日も無事に生きていられるかわからない不安を抱えていた路上生活のことを。
先生は泣くのをやめて耳を傾けていた。
「先生にその気がなくても、鞭を振り上げられたら、ああ私は嫌われてるんだって、あっち行けってことなんだって、思ってしまうんです。この街にいる多くの子供は私たちと同じだと思います。―――私たちは、貴族様みたいに頭がよくないかもしれません。教えられたことをすぐには理解できないかもしれません。覚えられないかもしれません。でも一生懸命、先生の話を聞こうとする子のことは、どうか叩かないでもらえませんか?」
・・・リル姉ぇぇ! なんとわが姉は良いことを言ってくれる! そうだよ、そうなんだよ、間違うことは悪じゃないのだ。間違えるから学ぶんだもの。甘い顔をしろって話じゃなくて、必要なのは、そう、
「つまり愛なんですよ先生!」
叱るのも愛、褒めるのも愛、愛があれば相手を想ってわかりやすい指導もできるはず!
「愛・・・」
妙に興奮してしまった私のテンションにあてられたのか、先生まで熱に浮かされたような顔で、ぷるぷる肩を震わせ始めた。
「・・そうでした、私は虐げられている子供たちを救いたくてこの仕事を受けたのに、忘れていました」
さすがにこんな下町に来るだけあって、彼も彼なりの志を持っていたようだ。
ぐ、っと先生は拳を握り固めて叫んだ。
「作りましょう愛の学校を!」
うーんおかしな宗教施設みたいな響きだがその意気だ!
「まずもっと簡単な言い回しの本から用意してください! あと例文挙げて教えてくれるとなおいいです! 黒板も使え!」
熱血先生が燃えている隙に、色々と注文をつけておく。勢い余って最後が命令口調になってしまったことは、後でリル姉にやんわり叱られた。