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紺青から紫へ、空の色が変わっていく。
朝日が隠れている地平の際は白っぽい。きれいなことはきれいだが、薄暗いのに変に明るい景色が少し不気味だ。あと寒い。
「次は馬車を飛ばしてみません?」
片手でローブの襟を手繰り寄せ、運転手に提案してみる。夏まっさかりの時期とはいえ、朝晩の風は冷たい。その中を長時間、生身で飛んでいれば鼻の一つも啜りたくなるものだ。
「いいねえ、それ」
私を後ろから抱えるようにして、杖を操作しているルクスさんも鼻を啜る。《荒れ地》でさらわれ、まあ落とされても嫌なので、杖の出っ張り部分に一緒に片足を乗せ、自分でもバランスを取りながら飛ぶこと半日くらい。夜も休まず飛び続け、朝を迎えた。
「二人で飛ぶなら、杖一本ではよくなかったね」
「だから何度も降ろしてくださいって言ってるじゃないですか」
「でもほら、もう着いたから」
ルクスさんの指す先、尖った屋根が三本立ってる城がある。
不気味な紫色を背景に、黒く浮かぶ姿はまるで魔王城さながら。もし、多くの家屋が周囲になく、崖の際にでも単独でそびえていたなら、もっと雰囲気が出ていたろう。
なんて、くだらないことを考えてる場合じゃない。
《荒れ地》で見たガレシュ王国の大軍、絶対に幻なんかじゃなかった。彼らは明確に不可侵条約を破り、トラウィスに迫っていたはずだ。
冷静に冗談を交わしてる場合でないのはわかってる。大人しくガレシュの王都までさらわれてきてる場合でないのも。
空中で押しても引いてもなんにも教えてくれなかった分、地上に降りたら洗いざらい、ルクスさんには語ってもらわねばならない。
橙色の光が地平に這い出し、王都の街並みを端から順に染めていく。それが城まで届く前に、私たちはバルコニーに降りた。
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トラウィスから見て西に位置するガレシュ王国は、大陸にある三国のうちで最も長い歴史を持つ大国だ。広がったり狭まったりを繰り返しながら、ざっと百八十年は存在している。魔法の力も柔軟に取り入れ、戦時中は特に魔道具を多く製造し、領土を勝ち取っていた。今のトラウィスの領土の大半も、かつてはガレシュのものだったのだ。
そんな長い歴史を積み重ねてきた王城と、存在自体がふわふわ浮いてる流れの魔技師はかなりミスマッチ。
「こっちだよ」
ルクスさんは勝手知ったる様子で、私の手を引っ張り早足に廊下を行く。
すれ違う人に声をかけられれば、二言三言のガレシュ語で応じる。私は文章を読むことなら自習していたのである程度できるのだが、ヒアリングとなると慣れていなくて、会話の内容はよくわからなかった。ただ、誰もルクスさんを不審がっていないことは確か。
「・・・ガレシュの魔技師になったんですか?」
問いかけても、ルクスさんは歩調を緩めない。
「ん? んー、そんなつもりはないけど、実験の材料と場所を提供してくれるかわりに、いくつかおもちゃは作ってあげた」
「おもちゃ?」
「ちゃちな魔道具だよ。君も《荒れ地》で見たろ? いや、見えなかったろって訊くべきかな」
見えなかった、そうだ、その通り。
どこまでも遮るもののない荒野をあんな大人数が行軍していたのに、影すら見つけられなかったのはおかしい。あの時にはすでに砦の間近まで迫っていた。
「・・・姿を消す魔道具ですか」
「前だけね。しかも《荒れ地》のような景色がずっと変わらない場所でしか使えない。ごちゃごちゃしてるところでは物影が映り込んでうまくいかないんだ。要は鏡の壁を作って、その陰に隠れてるみたいなものだから」
だとしても、一番見つかりやすい場所をその「おもちゃ」で突破してしまえるわけだ。
いきなりガレシュ軍が目の前に現れて、砦はどうなっているだろう。いや、そもそも、
「ガレシュの目的はなんですか?」
三国は和平条約を結んだ。長く待望された真の平和が訪れたはずなのだ。
なのに、なぜガレシュは国境を侵すのか。
「それは僕にも、おそらく君にもあまり理解できないことだろう。彼は、彼の国を昔に戻したいと言ってた」
ルクスさんは行く手に視線を固定したまま話す。
「トラウィスが興る以前、周辺の小国を吸収し、当時最強と謳われていたティルニを南へ追い払った頃。つまりは大陸で最もガレシュが強勢を誇っていた時代だ。そしてそのまま大陸全土を支配しようとしていた、かつての王たちの夢を、彼は義理堅く追い続けているらしい」
《彼》とは、今のガレシュ王のことなんだろう。まだ三十代くらいだったと思う。トラウィスやティルニに比べて格段に若い王だ。戦時中には生まれてすらいない。
《彼》は先人たちに、一体何を語り聞かせられてきたのか。
「ガレシュは、はじめから和平条約に不服だったということですか?」
「当然そうだろう。条約を結べば、かつて確かに彼らのものだった土地を正式に明け渡すことになる。だけどすべてが悪い話でもなかった。先に同盟を結んだ二国が、ガレシュの強硬をなだめるために、二種の血を持つ王女をくれると言ったから」
二種の血――トラウィスとティルニ王家の血か?
そうか、わかった。
「フィリア姫を得れば、三つの王家の血を引く子供ができる。三国の王位継承権を持つガレシュが、大陸支配の正当性を得るとでも?」
「らしいよ。彼が言うには」
「・・・馬鹿馬鹿しい」
奥歯を強く噛み締める。ルクスさんが少しだけこっちを見た。
「でも、理屈ではその通りなんだ」
「継承権の有無と侵略の正当性は別の話です」
「うん、道理だ」
ルクスさんは私にも同意して続けた。
「彼らはまずエールアリーを手に入れるつもりだ。あそこは魔石がたくさん出るからね。そこを拠点に魔道具を量産して、侵略しながらトラウィスとティルニに降伏勧告する予定みたいだよ」
「・・・なぜ、今なんですか?」
計画はまるで無謀だ。ティルニもトラウィスも決して小さな国じゃない。不意打ちで鉱山を一つ押さえたって、魔道具をいくら量産したって、そう簡単に征服できるわけがない。だからこそガレシュは大陸を支配したいと思いながらも五十年間、不戦協定を破らずにいた。そうせざるを得なかったはずなのだ。
継承権を得たって急に強くなれるわけじゃない。
なれるとすれば――例えば百年前に魔法の力を見つけたように、イレギュラーなものを手に入れた時ではないだろうか。
私は、すでに前方へ視線を戻してしまった人の頭を見つめた。
「・・・あなたが、ガレシュに味方したからですか? ルクスさん」
落ち着こうと思っている。まだ辛うじて信じている。
姿を消せる魔道具程度じゃ、ガレシュも攻めていこうとは思えないはず。いつも一歩下がった場所から世間を俯瞰している賢者が、ガレシュのためにそれ以上の何かを作ってあげているわけがない。
仮に、もしも、他にも何か作っていたとしても、それは脅されてやむなくだったに違いない。老師がそうであったように。
ほとんど、願いみたいなものだった。
「別に、ガレシュの味方になったわけじゃない」
もうすぐ行き止まりに差し掛かる。石壁に取り付けられたドアがある。
「すべては真理に辿り着くため。僕は必要なことをするだけだ」
ドアを開け、ルクスさんは私を先に中へ招いた。
暗い石造りの部屋。一つだけの窓から朝日が差し込み、奥にある物をきらやかに照らしている。
美しく巨大な、青い石を。
晴れの日の海を閉じ込めているよう。滑らかな表面は白波のような線に埋め尽くされている。
「・・・魔法陣?」
近づいて、石の前に立つと大きさは私の背丈ほどもあった。おびただしい数のミトア文字がいくつもの魔法陣を成し、その一つ一つが繋がって難解な魔法を作り上げている。
「これ・・・魔石なんですか?」
指先を触れさせれば開封の呪文が聞こえる。
私が知っている魔石は緑と黄と赤と黒。それぞれの中間色にも青はない。
こんな魔石も、魔法陣も、見たことがない。
「これは、なんですか?」
その問いを待っていたとばかりに、ルクスさんは嬉しそうな声を上げた。
「《滅びの日》さ!」




