101
女性の手のひらの上で、ぼんやりと緑の魔石が光る。
「ゆっくり、深く呼吸を繰り返してください」
息を吸うのに合わせ、赤い光が皮膚の上を伝い、その道筋を示しながら、心臓から下半身へ向かって広がってゆく。
椅子に座ってもらっているこの女性は足が不自由だ。下肢に痺れが付きまとい、歩くと痛みがあり、皮膚の一部が黄変している。
慢性ヒ素中毒ではこのような症状が現れることを、私は前世で写真などを見て知っていたわけだが、なぜそうなるのかということに関しては詳しい知識が抜けていた。
本来は植物が専門であるため正直、人体のことにはあまり自信がない。それでも、以前エールアリーにいた時、ルクスさんも含めて皆で知恵を突き合わせ、帰ってからもジェドさんら医療部に協力してもらい、動物実験なども行った結果、どうやらヒ素中毒というのは血管閉塞を起こすもののようだということがわかった。
つまり、足の血管が詰まって血の巡りが悪くなり、細胞が死んで腐るのだ。同じくヒ素を吸い、管が詰まってそれより先の部分が枯れてしまった畑の作物と少し似ている。
日本の現代医療なら、例えばカテーテルを入れて細くなった血管を押し広げる、単純かつ手っ取り早い方法があるが、この世界ではあいにく外科の技術が発達していない。
よって、この世界独自の、魔法の力を試してみる。
女性の体を這う赤い光は、動脈を上から辿っている。魔力そのものに色を付け、大きな血の流れを追うようプログラミングし、どの位置で血管が閉塞しているのかを探り出す。
すると途中で何か所か、流れが細くなる場所がある。そこへ別の魔法陣を刻んだ魔石をあてがい、真下にある血管を少しずつ広げるよう働きかける。
大抵ここで患者に痛みが生じるが、じっくり根気強く続け、やがて血流量が増えてくると、痛みは収まってくる。血液不足で黄化した組織はすぐには元に戻らないものの、治療を続けていけば改善される事例をすでに得ている。
「これならまだ治りそうだな」
「ええ」
汗を拭い、ジェドさんに頷く。
かつて大勢の患者を収容していたキクス村に到着してから、およそ半月と少し。治療というより治験に近いこの行為は何度やっても緊張する。事前にいくら鼠などで試してみても、結局人体に有効かどうかは人体をもって確かめるしか方法はない。
患者の状態に照らし合わせ、魔法陣の微調整を繰り返す。投薬治療も併用し、今のところ、目立って悪化している人はいない。結果として痛みなく歩けるようになる人も増えてきた。
また血管閉塞についての治療法は、魔法と薬剤に限らず、リハビリをかねて歩行訓練も行ってもらう。
「つらくならない程度に、足を動かしてください。無理はしなくていいですよ」
歩行も動くことで血の巡りをよくする、立派な治療法である。
村の人に作ってもらった簡易な手すりに掴まり、患者は医師に付き添われながら、各々のペースで治療に励んでいた。
「エメちゃん、エメちゃん」
処置室として借りた民家の床に座り込み、患者の経過を見つつ一息ついていると、ふくよかなおばさんが寄ってくる。
「どう?」
腕をまくって、彼女はふっくらとハリのある肌を示した。私が来た時には、肘の辺りに厚い角質ができていたのが跡形もない。
「きれいになりましたねえ」
「でしょう? この際、全身艶々の美女になれる魔法をかけてよ」
「魔石の無駄だ。油でも塗ってろ」
余計な口を挟んだ医師は、容赦なくおばちゃんパワーに引っぱたかれた。なんで言わずにいられないのかな。
「それ以上きれいになったら、旦那さんが心配して仕事に行けなくなっちゃいますよ」
「あらー、エメちゃんはまたうまいこと言って」
おばちゃんは上機嫌に、桃色へ戻った頬に両手を当てる。
中毒症状で角質に覆われ、色素が沈着した皮膚は、魔法で新陳代謝を活性化し、再生させることに成功した。
この症状、要は死んだ細胞がいつまでも新しいものに置き換わらず、張り付いてるようなものなので、比較的若いと自然治癒できてしまうのだが、やはり代謝活動が落ちてきている年頃の人はいまだ症状が残っていたため、それに効く魔法を作ってみたのだ。
考え方としては、足を治す魔法と大して変わらない。肌の血行を良くしただけ。薬剤でも同様の効果を得られるものはあるが、実験の結果、魔法が著しい即効性を示した。
ほんとは細胞の分裂スピードを上げて、あっという間に傷なども治せる治癒魔法を開発しようかなんて考えたりもしたが、遺伝子操作とか癌とか懸念が多過ぎたので諦めた。やるなら、みっちり十年はほしいかな。
こんな感じで、診療は午前中から夕方にかけて行い、夜はデータをまとめ、医療部の人たちとミーティングし治療方針を再検討、必要なところは変えていく。
調整が終わり次第、就寝。床に雑魚寝だ。
そんな中、私は大抵、一人で遅くまで起きている。
「ん~・・・」
他に休んでいる人に迷惑がかからないよう、衝立の陰でランプを灯し、ある魔法陣の設計を今夜も苦悩する。
「やっぱり、完全に壊死した足を治すのは難しい・・・」
薄い布団に寝そべりながら心の内を吐き出せば、枕元に置いている魔石が応える。
『ジェドさんはなんて言ってるの?』
リル姉の声だ。通信機はエールアリーまでちゃんと通じ、こうして相談相手になってもらっている。
「死んだものは蘇らない、切り離す以外にないだろうって」
最も高齢で、最も深刻にヒ素害を被ったキクス村の村長は、腐敗した足からの感染症を防ぐため、右足首の下を切る結果となった。その処置は私が王都に一度帰った時点ですでに済まされている。
重症患者にはほとんどそういった処置が施されたか、もしくは自然に腐り落ちた。よって現在、患部を残している人はいない。だから、それを治す魔法陣を考えているのは、私の悪足掻きでしかない。でも、どうしても悔しくて。
「もし次に同じようなことがあった時、切る前に治せるようにしたいんだけど・・・」
『完全に壊死する前なら治せるんでしょ? それだけでも大きな進歩よ』
「うん。それは私も思ってる」
『失ったものを取り戻せたら何より素晴らしいわ。でも、まずは目の前のことからやってみない? ほら、ギートの義眼じゃないけど、思い通りに動かせる魔法の義足なんて、エメなら作れないかしら』
「義足かあ、いいねそれ。確かに、今はそっちを先に考えるべきなのかも」
十年二十年先のことを考えるのも、明日や明後日の生活をどうにかするのも、きっと同じくらい大事だろう。頭が二つあったらいいのにな。ついでに体ももう一つあれば最高。
『――ところで、ギートには出発の三日前に義眼を渡したのよね?』
何か思い出したみたいに、リル姉が魔石の向こうで話を変えた。
その質問は、船の中にいた時にもされたものだ。なんで二度も同じことを訊くんだろ。
「うん、そうだよ」
『その後は一度も会ってないのね?』
「そうだけど、それがどうかした?」
『あ、ううん、特にどうってわけじゃないの。ただ、出発の日に見送りに来てなかったでしょ? その前に何かなかったのかなー、なんて?』
いささか唐突な話題振り。深夜の恋バナ的なノリなのか?
「義眼を渡した時に餞別をくれたよ。ほら、私イヤリング付けてたでしょ?」
『あれがそうだったの? この間たまたまカルロさんに会ったんだけど、せっかくの休みを弟のプレゼント選びに潰されたってぼやいてたのよ』
「あー、なるほどね。ギートにしてはいいセンスだと思ったけど、カルロさんの入れ知恵があったわけか」
『それだけ必死なのよ、きっと』
「エールアリーまで追って来る程ではないけどね」
『そっ、れは・・・』
急に矛先が自分へ向いて、きっとリル姉は慌てて顔を赤くしている。想像するだけで楽しい。
「あの人の大概な性格もあるだろうけど、あそこまでやる気にさせるリル姉の魅力が、ね。さすがだよね。いやほんとあの時は――」
『昔の話はいいから! もっ、もう寝なさい!』
「はーい」
私がくすくす笑う声も、あちらに届いているだろうか。
通信機は忙しい合間に作ったせいで、スイッチを組み込んでない。なのでリル姉のほうからは通話を切れず、私のほうで封緘の呪文を唱えて切る。もう少しからかって遊んでもよかったけど。リラックスタイムの夜更かしはこのくらいにしておこう。
患者が快復に向かうのを概ね見届けられたから、明日は少し変わったことをする。義足の製作に取りかかる前に一日だけ、十年二十年、あるいは百年二百年先のための研究の、下準備となることを。
ランプを消して、目を閉じて、段取りを頭の中で考えながら、明日を楽しみにして眠りに落ちた。
**
乾いた風が、頬の横を抜けていく。
馬車から降りて、踏んだ地面は脆く崩れた。風に掬われた微塵が、髪に絡んでカサカサ鳴る。
灰茶色の大地が果てなく続いている。見渡す限りに何もない。本当に、何一つ。
やっと、ここに来た。
あらゆる生命を拒み、人々に畏れられながら泰然と広がる《荒れ地》。エールアリーから南へ馬車を数時間走らせた場所にある。
かつてミトアの民が住んでいた森の痕跡は、欠片も残っていない。彼らは魔法を求めた侵略者たちに憤怒したのか、あるいは自分たちの運命に絶望したのかわからないが、一部の人を除いて住処ごと自滅してしまった。
すでに百年前のこと。もちろんその土地の条件にも依るのだろうが、例えば人の手で緑を消してしまった場合でも、一切の立ち入りをなくせば十年ほどで緑が戻ってくると言われるのに、《荒れ地》には、少なくとも私の視界に映る範囲には、雑草の一本すら見つからない。
「それ以上は行かないように」
馬上から兵士が二人、釘を刺してきた。
「わかってます」
わずかに緊張を滲ませる兵士の後ろには、物々しい砦がそびえている。
砦の後ろがトラウィス王国で、私は国境をほんのちょぴっとだけ踏み越えた場所にいる。
平和な世でも、国境線の見張り砦には立派な人数の王国兵士が配備されていて、不定期に交代しながらその辺をうろついている。彼らは内外かかわらず、決して誰にも境を越えさせない。
三国は《荒れ地》に関して不可侵条約を結んでいる。つまり全国民への立ち入り禁止令だ。
本来であれば、三国に跨っている平たい土地は便利な交易路になりそうに思うが、百年経っても枯れっぱなしの不吉な大地を、人々はとことん忌避したいらしい。あとは軍事的な問題など色々あるんだろう。
私は調査研究を理由に、砦の前までという条件で特別に立ち入りの許可を得た。
なぜ《荒れ地》はいつまでも再生されないのか、一体どんな魔法の影響がそこにあるのか、研究者としてはぜひとも解明したい。
さっそく地面に膝をつき、土壌採取から始める。ツナギを着てきたので汚れは気にしない。ローブも作業用の小汚いやつなので平気。
「魔法使いというのは、おかしな仕事だな」
シャベルを地面に突き立てる私を後ろで見張りつつ、兵士二人はそのうち談笑を始めた。ま、気楽に待ってておくれ。
表土はクッキーみたいに脆く乾燥している。そして金属のシャベルでも数センチ程度しか掘ることができない。すぐに先が岩のような硬い層にぶち当たった。上を払ってよく見てみれば、岩のようなというか、岩そのものだ。
母岩、だろうか。土のもとにあるのは岩だ。岩が風化すると隙間ができて、そこに水を蓄えられるようになると、植物が生える。やがて枯れた植物が溜まっていき、豊かな土壌ができ上がるのだ。
ミトアの民が作った魔道具はとんでもない破壊力を発揮した。たとえば、その力が土壌を吹き飛ばし、下層にあった母岩が剥き出しになっていたとする。岩の上に植物は生えない。よってこの地は荒野となった、のだろうか。
百年経った今、上には砂状の層ができてきている。岩が風化して土になりつつあるのだ。この視界の内にまだ植物の姿がなくとも、もしかしたら、どこかに小さな芽が出始めている可能性はある。
《荒れ地》中をくまなく探して確かめてみたいところだが、国際問題になるので我慢する。
とりあえず土として取れる部分を持って帰って、普通に植物を育ててみれば、土に問題がないかどうかの確認はできるだろう。
もし私の仮説が合っているなら、もう百年もすればこの場所に森が戻ってくるのかもしれない。
「・・・ふー」
数か所でシャベルを突き立て続け、そろそろ手が痛くなってきた。あぐらをかいて少し休憩。
《荒れ地》には絶え間なく風が吹いている。たまに発作のように強くなったり、弱くなったり。そのおかげか、頭上に雨雲の姿は見えない。
夏の抜けるような青空と、遮るもののない視界。不毛で不吉な荒野、だけど、案外気持ちのいい場所だ。と、思ってしまうのは不謹慎だろうか。
まあ気にすることないか。頭の中にまで誰かが怒鳴り込んでくるわけでなし。
そう、思った途端、
「――っ!」
また、耳鳴りがした。警報みたいにこだまし、こめかみの辺りに刺すような痛みが走る。
あーもー、採取に薬なんか持って来てないのに。不意打ち勘弁してほしい。
両手で頭を押さえ、うつむく。声と痛みが去るまでひたすらに耐え忍ぶための体勢だ。
「――エメ?」
けど、限界を試される間もなく、苦痛は即時に終了した。
よりはっきりとした肉声に、頭中の声は痛みと共にどこかへ押しやられた。
顔を、上げれば、赤い瞳に見下ろされている。
「っ、やっぱり君だっ!!」
フードの下は満面の笑み。その人は叫んだ勢いのまま、覆いかぶさるようにして抱きついてきた。
「うぷっ、ル、クスさん!?」
緑白色の長髪が頬にさらさら当たる。押し倒される寸前で、私は手を地面に突っ張って耐えた。
すぐ体を離し、お座りするルクスさんは、にこにこが止まらない。
「やっと会えた! 待てど暮らせど来ないから迎えに行こうとしてたんだよ!? そしたら《声》が聞こえて、どうせ君はまだ王都にいるんだろうと思ったのに、こんなところにいたとはね! 危うく見過ごすところだった!」
いきなり再会して、いきなり何をまくし立ててるんだろう。私に会いに行こうとしていたらしいのはわかったが。
こちらには何も言わせないまま、彼は私の手を取った。
「君に見てほしいものがある」
そうして引っ張っていくのは砦の逆方向。おい待て、すべてが急過ぎないか? 頭が追いつかない。
「いや、あの、ルクスさん?」
「何者だ!」
抜き身の剣が、ルクスさんの首元に差し出された。
駆け付けた兵士二人が素早く前後を挟み、不審者の進退を奪う。これは、いささかまずい。
「っ、待ってください、彼は私の友人です。怪しい人じゃ、ない、です。ないんです、一応」
後半にかけてちょっと自信がなくなってしまった。だって怪しいもんなあ。
いきなり現れたのは、例の長い杖を持っているからたぶん、空を飛んで来たんだろうが、いずれにせよ不法入国、その前に不法出国・・・不正に得たのであろう魔石を所持しているし・・・庇いきれないかもしれない。
ルクスさん本人はといえば、つまらなそうに馬上の兵士を見上げる。
「トラウィスの国境警備兵か。そんな目くじら立てなくても、僕は君たちの国には行かないよ」
向けられる切っ先を物ともせず、ルクスさんは私の腰に腕を回した。
「彼女を連れて行くだけだ」
何を、問う暇もなかった。
強く抱き寄せられて踵が浮く。ルクスさんが杖で地面を突き、つま先が離れた。
「ちょっ・・・!」
咄嗟に伸ばした手を、唖然とする兵士たちが引っ張ってくれることはなく。
地上は遠くなり、耳元で風が唸る。
「ルクスさん!?」
「細かい説明は実物の前でするよ。早く君に見てほしい」
「っ、なんだか知りませんけど私は勝手に国を出られないんですよっ!」
っていうか、どんな緊急の用があるにしても、再会早々に拉致はあり得ないから!
しかし、ルクスさんは私を抱え直してのほほんと言う。
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないです!」
「大丈夫。君に罰を与えられる人間なんかいない」
「? 何を――」
自信のこもった言い様に、違和感を覚えた時。
不意に変な音が聞こえた気がして、足下に目を向ける。と、何もないはずの荒野に、おびただしい数の生き物がいた。
「え・・・?」
黒い鎧をまとう集団。先頭に翻る旗は空の青より濃い群青色。風になびいて一瞬だけ見えた模様は、太陽を模した形を、堅固な盾を思わせる白線で囲ったもの。
「ガレシュ王国・・・?」
その、国章だった。
「国境がなくなってしまえば、罪を犯したことにはならないだろう?」
ルクスさんの口ぶりは、ごく単純な真理を話しているかのようだ。足下の異常事態を常の自然現象とでも思っているかのようだ。
「・・・あなたは、一体」
何をしているのか。
何をしようというのか。
「君には全部話すよ」
着いてからのお楽しみ、と彼は楽しそうに人差し指を立てた。




