プロローグ
灰色の部屋で男が一人、無心に石を彫り続けていた。
床に座り込む彼の膝元には、いくつもの図案を書き殴った紙が散らばっている。それを時折、横目に確認しながら、後はひたすらに手を動かし続けていれば、やがて辿り着く。
「――ん」
しかし終わりの間際に、不意に手が止まった。
石にはほとんど隙間なく文字がびっしり彫り込まれているが、その下方のスペースが今、わずかに余っている。
彼は頭を再起動し、なぜそうなったのかを考える。
「・・・あぁ、必要ないからだった」
程なく結論は出た。
「ってことは、これで完成か」
独りごち、彫刻刀を床に置く。
彫り始めてしまえば、あっけなかった。疲労と共に盛大に息を吐き出し、彼はその出来栄えに満足した。
そうして一度は安堵したものの、完成品を眺めているうち、刻一刻と鼓動が高鳴ってゆく。
(・・・ようやく、作れた)
実感が募るにつれて、体が静かに、身震いをし始める。同時に、耳の奥で声がけたたましく鳴った。
歓喜の声。
悲嘆の声。
それぞれに彼を囃し、制止し、非難し、称える。
「うるさい」
頭を振って、不愉快な音を払おうとした。だが脳髄にしがみつき、決して離れない。
彼は両手で耳を塞ぎ、膝の間にうずくまった。
(これがなくなると思えば、それだけでも作った甲斐がある)
『声』は彼に恩恵をもたらし続けたものであるが、年を重ねるごとに音量が上がっていき、そのせいで近頃はいつも、こめかみの辺りがぎりぎり痛む。もはや害悪以外の何物でもなかった。
彼が聞きたいのは、すでにこの声ではないのだ。
「まだかな・・・」
重い頭をやっと持ち上げ、窓を見やると陽光が目を刺す。
作業を始めてから外で何度日が昇り、落ち、月が満ち、欠けたか、よく覚えてはいない。長い時間が経過していることだけは確かだった。
逸る心は、待ちきれない。
「早くおいでよ、エメ」
胸元に付けた半分の魔石を握り締め、彼は窓辺に囁く。
「ミンフェアレだ」
赤い魔石が淡く妖しく、光を放ち始めた。




