ガルムの村の捨て子 その2
ユーリが目を覚ますと、ガーシャはいなくなっていた。
水桶を水で満たして、家へ帰る。村長の家に。
村長の家はほかの村民と同じく、木で出来た質素なつくりをしていた。
「ただいま」
ユーリの声は家の中に寂しくこだました。カラコスはまた会議だろうか。
カラコスの奥さんであるカムランは、いまごろは畑だろう。
ユーリは水桶を置くと、家を出た。村の魔導師ルクスンの元へ向かった。
ガーシャに出会いたくないユーリは、村の中を通らずに、外縁を回ってルクスンの家に行く。やがて見えてきたのは、他と変わらない質素な木造家屋だった。ルクスンの家だ。けれどもひとつだけ異様なところがあった。ルクスンの家は、半分以上を山に埋もれるようにして経っている。幾度かの土砂崩れで、ルクスンの家の大半は土砂に隠れてしまった。それでも、ルクスンの家は倒壊しない。
ユーリは走った。さらに家が近づく。
ルクスンの家は、よく見ると、僅かに土砂が避けている。土砂と家とのあいだに、まるで見えない壁があるようだった。不思議に思ったユーリは以前、そのことについて訊いたことがあった。ルクスンは答えてくれた。
「この家には《紫の色》の魔法をちょこっとかけておるんじゃ。《黄の色》の魔法はこの地の《緑の色》とは《補色》の関係にある。ちょこっとでも、大きな力をもたらしてくれる」
ルクスンの言っていることを、ユーリはなんとなくで理解した。どういった魔法なのか、魔法の構造を示す《幾何式》については、ユーリには理解できなかった。
けれど、理解できないからといって、ユーリは魔法が嫌いになったりはしない。むしろ、理解できないからこそ、さらに知りたいという思いが強くなり、暇を見つけてはルクスンの元に通うようになった。
ルクスンは師であり友人だった。彼は優しかった。村人がユーリを《忌むべき者》と嫌う中、ルクスンだけが変わらない友情を、愛をユーリに与えた。
当然かもしれない。ユーリは思う。魔導師は《黒の色》に心を喰われないように、精神を健全に保たなければいけないという。ルクスンの教えだった。
だから。
本当はユーリはガーシャと喧嘩をしたくない。それはガーシャを『赦す』ということではなく、魔導師になるためにはルクスンのような「心の広さ」がなければいけないからだ。ユーリは少なくともそう思っていた。ユーリは魔導師になりたかった。
魔導師は自由だ。
この世の《色》の流れを読み取り、《幾何式》を編み出して、事象を産み出す。
ユーリは自分が魔導師になったら、とよく想像した。炎を操り、水を生み出し、緑を育み、大地を味方にする。それをとても心を踊ることだった。
すっかり魔導師になった自分を頭に思い描き、ユーリはルクスンの家の戸を叩いた。
「こんにちは。ルクスンいる?」
中から嗄れた声が返って来た。
「おお、ユーリか。開いとるよ。入っておいで。悪いがちっとワシは手が離せんでな」
玄関を抜けると、ユーリは、何やら《幾何式》を黒板に書き連ねるルクスンを見た。茶色のローブを身にまとい、白髪を腰まで伸ばした老人が、黒板を前にうんうんと唸っている。
黒板には、四角や三角、円に波線、よくわからない模様などが、様々な色で書き連ねられていた。まるでデタラメのように見える。だが見苦しいということはなく、不思議と秩序だっているようにユーリは感じた。
ルクスンは《筆》を持つ手を一旦休め、《幾何式》を眺める。
「ルクスン、なんの魔法を描いているの?」
「これか? これはの、今度の《影追い》のための《幾何式》じゃ。《影》を子どもから分離する式。世界で最も古く、巧緻な《幾何式》じゃな」
ユーリは心が沈むのを感じだ。けれども、それじゃいけない、と無理に明るく振舞う。
「それ、ガーシャの?」
「なんじゃ。知っておるのか」
そこでルクスンは振り返った。ルクスンの表情に険が宿るのをユーリは見た。ユーリは自分の格好を見た。泥だらけだった。
「喧嘩か?」
「ううん」ユーリは努力して、なんでもないよ、といった声を出す。「転んだんだ。水桶をこぼしちゃって大変だったよ」
「そうか」とだけ言って、ルクスンはそれ以上を聞いてこなかった。
居心地の悪さを感じたユーリは話を続ける。
「それよりも! ルクスンは《影追い》の《幾何式》を全部覚えてるの? その《幾何式》って、てんで全然難しくて、僕にはわからないや」
ルクスンもそんなユーリの心情を察してか、笑顔で応える。
「いいや。全てではない。ほんの基本的な部分だけじゃ。それに《影追い》の《幾何式》は土地によっても異なる。これは、このガルムの村に合わせた、《緑の色》に即した《幾何式》じゃよ」
「へぇ……。すごいや……。僕もいつかこんな《幾何式》を作れるようになるかな?」
「《色》が見えるようになれば、じゃがな」
ルクスンは茶目っ気たっぷりにウィンクをした。しわしわの顔に、さらにシワが増えて、それが少しユーリには可笑しかった。無理をしていた心が、すこし和らぐようだった。
「さて。《幾何式》は無事に完成した。あとはこれをタペストリーにするだけじゃ。魔術はあまり得意じゃないんじゃが。まあ、がんばるかいの。ところでユーリ。この老いぼれを手伝ってはくれんかの?」
「もちろん!」
それから日が暮れるまで、ユーリはルクスンを手伝った。大人の背丈の何倍もある三メルリース四方の綿の布に、黒板の図画を色も正確に描いた。
その間中、ユーリはたくさんの話をした。
山の木の実がそろそろ収穫時期であること。家の羊が子どもを二匹生んだこと。川がいつもより冷たくて、今年の夏は寒くなるかもしれないこと。きょう思ったことを、滔々(とうとう)とルクスンに話した。
ルクスンは興味深そうにユーリの話を聞いていた。
ユーリはとても幸せに感じた。
村での生活は正直つらい。だが、ルクスンがいるから、ユーリはがんばれているのだと思った。
《影追い》の《幾何式》を施したタペストリーが完成すると、ユーリはそれをしげしげと眺めた。自分が学べることは何か、貪欲にこのタペストリーから飲み込もうという気概だった。
「ルクスン。《幾何式》はこれで完成なんだよね?」
「そうじゃな」
「じゃあ、どうして今、《幾何式》は発動しないの? 僕はまだ」
そこまで言って、ユーリは一瞬言葉につまる。しかし相手はルクスンだ。自分の劣等感を隠しておくのは、とても失礼な気がした。
「僕はまだ、《影追い》を終えてないよ。なのにこの《幾何式》は発動しない」
「うむ、そうじゃな」
ルクスンは深く頷くと、よく気がついた、と褒めるようにユーリに説明した。
「これは《影追い》の《幾何式》ではあるが、魔法を発動させる《幾何式》はまだ記述しておらん。《影追い》当日に書き込むんじゃな」
「へぇ。どんな《幾何式》なの?」
「簡単じゃよ。ほれ、あそこの隅に三日月と円があるじゃろ?」
ユーリはルクスンの指し示すところを見た。確かに、赤い三日月が緑の二重丸に向かって口を開いていた。
「その二つをつないでやるんじゃ。一本の線でな。ここは《緑の色》の土地じゃから、線は《紫の色》じゃ。なぜだかわかるか?」
「《補色》だから」
「そうじゃ。賢いの。よく覚えておった」
「簡単だよ、こんなの。《補色》だから《色感》が増強されるんだ」
ルクスンの、枯れ枝のような手で、ユーリは頭を撫でられた。
とても温かいとユーリは思った。
「さて、そろそろ夕飯の時間じゃ。カラコスたちも心配しようぞ。お帰りなさい」
出し抜けに、そんなことを言われた。確かに、窓の外(まだ土砂に埋まっていない窓)からは夕日が差し込んでいた。
とても寂しいとユーリは思った。頭を撫でる手の温かさが、逆にその寂しさを増強させるようでもあった。できれば帰りたくない。それがユーリの偽ざる本音だった。
けれども、だからといってこのままルクスンの家にいても、彼を困らせるだけだ。
ユーリは渋々と「うん……」と返事をした。
「また、明日も来ていい?」
唐突に。
ユーリ自身も不思議に思うほど突然、ユーリの口からそのような言葉が出た。
なぜだろうと思ったが、
「ああ。いつでもおいで」
ルクスンの微笑みに、ユーリは疑問を脇に追いやった。
そのまま、ユーリは家に帰る。
早く明日になればいい。そう念じながら。