出会い
まだ春だと言うのに少し汗ばむ陽気。昨夜の嵐が嘘のような、雲一つ無い快晴だ。草色のドレスシャツから露出した肌を、日光がポカポカと照らしてくれる。この分なら、今日は半袖でも良かったかもしれない。
無節操に開発された都市部近郊の住宅地。清涼飲料水とスナック菓子、それに本日発売の週刊漫画雑誌が入ったコンビニのレジ袋を右手に下げ、少し幅の広い一車線道路を歩き進む。
車道に面したガレージの隣。周囲に風景に溶け込んだごく普通の一軒家。石畳が敷かれたその小庭へと続く、胸の高さ程の金属門の前で立ち止まる。
門塀に取り付けられた表札には、ここが我が家であることを示す佐藤の二文字。埋め込まれている郵便受け上部に取り付けられたそれを何の気なしに見やった後、二階にある自室へと視線を移す。
明るい灰色の煉瓦を模した窯業系サイディング材。その特に珍しくも無い材質の外壁に備え付けられた側窓には、黒いシャッターが降ろされている。面倒臭さにかまけて、開きもせずに出かけてしまったのだ。
……これ片付けたら、家の中の空気入れ替えないとな。
手荷物を一度チラリと眺め、門扉に手を掛け押し開く。
黒い扉が備え付けられた玄関の手前には、三本の傘が入った傘立てと、黄色いパンジーの植えられた小鉢。
狭い小庭を数歩で渡り、扉へと鍵を差し込み錠前を外す。
扉を引き開け、滑り込むように足を踏み入れる。
日光が遮断された屋内は、夕暮れか夜明け前のように薄暗い。家族、特に騒がしい姉がしばらく帰宅していないこともあって、まるでこの中だけ時でも止められたかのようにしんと静まり返っている。
靴を脱ぎ捨てた後、壁に据え付けられたスイッチを押すことで人工の光を灯す。そのまま階段を上り、自室へと向かう。
ワックスがかけられた木製の階段は、電灯の明かりを反射してピカピカと照っている。数ヶ月前にビニールクロスを張り替えた白い壁も相まって、内装だけなら新築に見えないこともない。
二階に上がり右に折れたすぐその場所が、十数年間寝起きの場であり続けている俺の部屋だ。木製の扉のレバーを掴みそれをおもむろに下げる。
そして扉を開いた先の暗室に、廊下から差し込んだ光に照らされ浮かび上がった小さな影を認めると同時、俺は驚きに目を見開いた。そこには小学生くらいの女の子が一人、フローリングの床に這いつくばりながら、無表情な顔でこちらを見上げていたのだ。
俺と少女の視線がぶつかる。俺たちは静止したまま、言葉も無くただ見つめ合う。
それにしても、なんとも奇妙な格好をした少女である。完全施錠されていた我が家への、不可思議な侵入者に対する最初の感想がそれだった。何かのアニメかゲームキャラクターの、コスプレというやつなのだろうか。
その小さな身体を包むのは、どこか西洋の匂いがする鎧のような衣装。掌サイズの長方形に加工された金属板を、何枚も縫い合わせることによって作られているようだ。頭にも金属製の兜を冠っており、そこから覗いている髪の毛は染めているのかくすんだ桃色。顔立ちから察するに、日本民族ではなさそうだ。
背中には装飾の入った斧のような器物、隣に置かれた大きな革袋の口からは鶴嘴のようなものが飛び出している。
両腕には厚皮の上から金属板を貼り付けたような手甲をつけており、その右手にボールペンが握られている。よく見ると床に広げられたノートも含めて、俺が机の上に放置しておいたはずのものじゃないか。
呆気にとられながら観察を続けていると、沈黙を守っていた少女がふいに立ち上がった。それに合わせて俺の視線も少し上向く。身長差から見下ろしていることに変わりはないが。
「……あなたが、この隠れ家の主?」
透明な鳶色の瞳で俺の目を見つめたまま問いかけてくる少女。抑揚の無い静かな声だ。
彼女が日本語話者であることに、とりあえずの安堵を覚える。
「いや、隠れ家っていうか、ここが俺の自宅なんだけど……」
それに家主は俺の親父だ。言いつつ、視線を彼女の足下に向ける。
先ほどまでは身体に隠れていて分からなかったのだが、彼女の両足は手甲と同じような金属板が貼り付けられた、分厚い革製のブーツに包まれていた。
よく見ると少女の周辺には、細かな土塊が散乱している。
「とりあえず、土足は勘弁してくれないかな」
聞きたいことは山ほどあるが、まずはそれを口にした。
しかし彼女はこちらを見つめたまま僅かに小首を傾げただけで、それ以上の反応は示さない。
場に、静寂が訪れた。
停滞した空気の中で、次なる行動を考える。
ここで強硬手段に出て、事態がややこしくなっても面倒だ。詳しく話を聞く為に、とりあえず飲み物で釣ってみるか。閉め切った室内は少し温度が高くなっているし、彼女の格好は見るからに暑そうだ。
そう判断し、コンビニのレジ袋から清涼飲料水——さわやかマンゴーと名付けられた商品を取り出す。
少女を怖がらせない為にしゃがみ込む。小さな子と会話するときは、威圧感を与えないよう目線の高さを合わせることが重要だ。
「飲む?」
アルミ缶を差し出しながら、出来るだけ優しく見えるよう心がけて、笑みを浮かべつつ問いかける。作り笑顔にはそれなりに自信があるのだ。
しかし目の前にアルミ缶をかざしたところで、少女の首の傾きが少しばかり大きくなっただけ。
まさかとは思うが、これが飲み物だと分かっていないのだろうか。
念のため、アルミ缶を手元に戻してタブを起こす。それと同時に生じるプシュッという音。柔らかな缶の内圧を保持する為に封入されていた窒素が抜けたのだ。
そして飲み口が開いたそれを、もう一度彼女の胸元へと近づける。
今度はアルミ缶の開口部を覗き込む少女。無表情なことに変わりはないが、心なしか瞳の輝きが増している気がする。どうやら興味を引くことには成功したようだ。
彼女は右手に持っていたままだったボールペンを床に降ろす。
そしてアルミ缶の下部へとゆっくり両手を近づけるとそれを掴み、
「……つめたい」
僅かに驚いたような声を漏らした。
彼女は再びアルミ缶へと顔をよせ、一度内部の匂いをかぐような仕草を見せる。
続いて飲み口へと小さな唇を触れた彼女は、僅かにアルミ缶を倒してついにその内容液を口に含んだようだ。
瞬間、彼女の双眸が僅かに見開かれる。
両手で掴んだアルミ缶の傾斜を一気に大きくし、コクコクと中身を飲み干して行く少女。
それは俺もお気に入りの商品なので、気に入ってくれたのなら喜ばしい。マンゴー果汁の濃厚な甘さと、後に残らない爽やかな酸味が絶品なのである。
しかしこのシーンだけを切り取って客観的に見てみると、『コスプレした外人の女の子を部屋に連れ込んで餌付けする怪しいお兄さんの図』みたいでちょっとアレだな。
眼前で顔の角度を少しずつ上向ける少女を眺めがなら、そんなことを考える。
やがて彼女は清涼飲料水をすっかり飲み干したらしく、アルミ缶を口から離すと、再び俺の顔へと目を向けた。相変わらず表情に変化は無いが、その瞳に微かばかり友好的な色が混じった気がするのは俺の思い込みだろうか。
少しの静寂の後、俺より先に少女が口を開く。
「おいしかった」
彼女はそう言いながら、あくまでも無表情なまま、両手で掴んだ空き缶を差し出してきた。
その小動物のような姿に、俺は少し和んでしまう。
いかんいかん。お気に入り飲料を褒められたことで心が緩んでしまったか。可愛らしい見た目に惑わされている場合じゃない。彼女にはこれからいろいろ問いたださなければならないのだ。
頭を軽く左右に振って気を取り直す。
そして俺は彼女の斜め後方に置かれたゴミ箱を指差し、状況を進める為の言葉を発した。
「その缶はそこに捨てといてくれれば良いよ」
だがそれを聞いた彼女の反応は、俺が思いもよらなかったものだった。
「いらないのなら、貰っても良い?」
空き缶を胸元に翳したまま、少女は再び小首を傾げる。
それは別に構わないけれど。
「空き缶収集でもしてるの?」
さっきはそれが何かも分からないような態度だったのに。
そんな俺の疑問に少女は、再びアルミ缶の開口部を覗き込みながら答える。
「この開口機構は、とても興味深い」
そう言う彼女の透明な瞳には、底知れない好奇の光が宿っているように見えた。
タブが缶に固定された非分離型の缶蓋。かかる力にわざと偏りを持たせて集中させることにより、開閉を楽にする非対称な切り口。詳しく観察すれば興味深い工夫がたくさんつまっているものの、それがどこででも手に入るただの空き缶であることに変わりはない。
けれど今ここでそんな突っ込みを入れるのも無粋だろう。とりあえず「なるほど」と納得を示す。
俺から了承を得たと判断したのだろう少女は、しゃがみ込むと隣に置かれた革袋の口を緩め、いそいそと空き缶を突っ込む。
一応「持って帰るなら洗った方が良いんじゃない?」と尋てみたのだが、「問題無い」と返されてしまったので、そろそろ本題に入ることにしよう。
「聞——」「聞きたいことがある」
だが俺の口から出かけた言葉は、タイミング等しく彼女の口から発された同一の言葉によって、あっけなく上書きされてしまった。
俺の前に突き出されたのは、一本の黒色ボールペン。コンビニに出かける前、新学期に備えた昨年度の復習に使っていたものだ。
「このペンは、何? インクをつけなくても、文字がいくらでも書ける。なのに、魔力を全く感じない。 材質も全く分からない、けれど。 まさかこれは、魔法の道具ではない?」
右手にボールペンを掲げたまま、少女が抑揚の無い声でまくしたてる。彼女の左手に掴まれた俺の計算ノートは開かれたままであり、そこには彼女の試し書きらしき渦巻き模様や、何処の国のものなのかすら判別出来ない文字らしき不思議な記号がいくつも踊っている。
しかし彼女くらいの年齢にもなって、ボールペンを知らないなんてことが、本当にあるのだろうか。
土足で室内に上がり込んでいること。アルミ缶を知らなさそうだったこと。諸々の素振りから推察するに、もしかすると彼女は日本に来たばかりの留学生か何かなのだろうか。
まあ、彼女の出自はともかく。
俺はもともと人に頼られることが好きだ。それを抜きにしても、彼女の曇りのない瞳を見ているだけで、その知的好奇心を満たしてあげたくなってしまう。別に時間が無いわけでもなし、これくらいの質問には答えてあげても構わないだろう。
「それは、ボールペンって言うんだ」
正確にはボールポイント・ペンなのだが、こと日本においてその名称はあまり使われていない。
「ぼーるぺん……?」
少女は小首を傾げながら、手にした筆記用具へと目線を向ける。
それにしても、ボールペンの仕組みか。少なくとも魔法ではないことは確かだ。あまり詳しく聞かれても困るけれど、確か。
「ペンの先端に、凄く小さな金属のボールが埋め込まれてるんだ。文字とかを書こうとすると、それが転がって粘度が高い——粘り気の大きいインクが、ボールとその台座の隙間から出てくる。ほら、中にインクが見えてるだろ」
彼女の手中にあるボールペンの透明な軸を指差しながら、記憶の奥底に眠っていた知識を掘り起こす。こんな説明で伝わっているのだろうか。
俺の解説に従うように、彼女は視線をボールペンの先端へと集中している。
「……信じられない加工技術」
その声には驚愕の色が混じっているように感じられる。
確かにボールペンの先端部——チップは、インクの流出量や書き味などがペンの性能を決定づけることもあって、特に高度な加工技術を要する部分だろう。
少女はボールペンを握った手を下ろすと、その眼差しを俺の顔へと向ける。無表情の中に、どこか真剣なものが含まれているような気がする。
再び、少女の口が開く。
「机上には、異国の文字で書かれた、極めて難解な書物の数々。散乱した数多の道具は、どれもが恐ろしい程に高精度の造形。やっぱり私の、推測通り。ここは、極めて高度な研究室」
この子はいきなり何を言い出すのか。
それとなく勉強机の上に目を移すと、『数学A』や『物理I』などの教科書の配置が、出かける前とは異なっていた。間違いなく彼女の仕業だろう。
少女は続けて、抑揚の無い語調を明確に一段強め、問いかけて来た。
「貴方はいったい、何者?」
それは、こっちの台詞である。