表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

あれから

「タケル。タケル」

 我が六畳間の中でも特に日当りの良い窓際へと設置された勉強机。大学入試前には随分お世話になったものだが、近頃はすっかりご無沙汰気味だ。俺が扉を空け入室した時、そんな机に向かっていた一人の少女が、こちらへと向き直りつつ淡白な声音で俺の名を呼んだ。

 小学生と見間違わんばかりの小柄な身体。健康的な白い肌をカーキブラウンのタンクトップワンピースに包んでいる。くすんだ桃色の髪は若干乱雑なボブカット。怜悧な知性を宿した透明な鳶色の瞳が、俺の顔を下からまっすぐに見つめている。


 机上には開かれたノートと、その奥に積まれた数冊の書籍。それらの背には『複素解析学概論』だとか、『偏微分方程式の数値解法』だとか、何やら小難しそうな文字列が踊っている。彼女と出会った当初、小中学生レベルの数学や物理を得意げに講釈していた自分を思い出すと、少し気恥ずかしい。

 浅学菲才な主人に買われた哀れな机にとっては、彼女の特等席と成り得たことはまさしく僥倖としか言えないだろう。


「窓に人影が見えたと思ったら、やっぱりもうこっちに来てたのか」

 そう返しつつ、右手に掴んでいた段ボール箱を「ほら」と差し出す。昼上がりの仕事を終えてようようと帰宅したところ、玄関先で出くわしたサカナ急便のお兄さんから受け取ったものだ。差出人はジャングルドットコム。世界最大のインターネット通信販売業者である。

 彼女がこの時間から待ち構えているなど、先週注文し今日ようやく届いたこの商品が理由だとしか考えられない。


 小さな両の手で段ボール箱を受け取った彼女の瞳が、露骨に爛々と輝き出す。

 表情筋にこそ大きな変化は見られないが、その小さな身体中から浮かれた雰囲気が隠せずに滲み出している。


 彼女は椅子から降りると、床に正座して段ボール箱の蓋を開く。中からビニールでシュリンクされた一冊の本が姿を現す。タイトルは『現代流体力学概説』か。これまた俺には縁が無さそうだ。本のサイズに比べ段ボール箱の容積が大き過ぎる気がするが、これは梱包材を標準化することによって配送作業の効率を上げているからだろう。


 ビニールが破られ、本が取り出される。彼女はそれを顔の前に掲げながら、「ありがとう」と呟いた。

 感謝を示すなら俺の顔を見ながら言ってくれれば良いのに。もしかするとこの本の壁の向こうでは、喜びで表情が崩れていたりするのだろうか。それなりに長くなった付き合いの中でも、彼女の明確な笑顔は見たことが無いので、そこにはとても興味が湧く。


 僅かな静寂の時間を挟んだ後、彼女は手に持った本を胸元へと戻し、表紙と数枚の(ページ)をめくる。ずっとそのままだったのか、書籍の影で戻したのか、その顔は当初と変わらない無表情。


 そして彼女はふとその手を止めると、その目線を細かく左右に動かし始めた。前書きでも読んでいるのだろうか。俺にはとても真似できない読書速度だ。


 いつもの彼女ならこのまま勉強机へと移動し、外部からの一切の刺激を遮断しながら数理の世界へ没入することだろう。だが、今日に限って俺のそんな予測は完全に裏切られた。

 彼女の目の動きがピタリと止まり、開いていた本がパタリと閉じられる。


 そして彼女は本に向けて俯いていた顔を上げ、再び俺へと視線を合わせると、たどたどしくも強い意志を感じさせる口調で言った。

「今日は、今から、うちに来て」


 新書の読書を中断することはもちろん、彼女が他人を自発的に自宅へと招待することも非常に珍しい。俺は思わず「え、良いの?」と零してしまった。まあ、俺の側から押し掛けることはしょっちゅうなのだが。


 彼女はそれには答えず、無言のまま読みかけた本を右手で大事そうに抱え込むと、空いた左手で俺の腕を握って引っ張り始めた。華奢な外見からは全く想像がつかない、とんでもない力だ。


「っとっと」

 よろめきながら、引きずられるように彼女の後へと続く。彼女の向かう先、それは俺の部屋に設置されたごく普通の押し入れだ。だが決して、奇行に走ろうとしているわけではない。


 彼女は器用に本を脇に挟むと、備え付けられた襖を滑らかに引き開ける。それと同時に溢れだす、暖かく幻想的な淡い白色光。まるで空間が、そこだけ矩形に切り取られたような印象を受ける。

 軽々と俺を引っ張りながら、彼女はそこへと躊躇無く足を踏み入れる。


 俺の部屋の押し入れの襖。それは確かに押し入れの襖でありながら、同時に全く異なる機能を有した扉でもある。その先に広がるのは、彼女が生まれ育った神秘の世界。すなわちそれは、異世界への(ゲート)

 視界の全てが白一色に染まり、意識が少しだけ遠くなる。異界の少女に手を引かれながら、すっかり慣れてしまった転移の感覚に、俺は俺の全てを委ねた。






 世界が色を取り戻し、薄れていた意識も回復する。だが眼前に広がるのは、先ほどまでの没個性的な小部屋とは一切合切が異なる光景だ。

 視界を覆うのは、立ち並んだ巨木の数々。その一本一本が、両腕を限界まで伸ばした大人数人でなければ囲めない程に太く、同時に自らが小人になってしまったのかと錯覚を起こす程背が高い。しかし遥か上空、まるで雲のように広がる木の葉の隙間からは穏やかな日光が差し込んでおり、幻想的ではあるものの陰鬱な雰囲気は漂っていない。

 そう、俺と少女は、どこまでも広がる深い森の中にいた。


 背後を振り返ると、そこは低い崖となっている。その岩壁に存在する人間の身長より少し大きな窪みが俺の部屋と通じている門だ。何度見ても不思議なものである。

 ちなみにこちら側からは秘密の呪文を唱えなければ使えないので、彼女以外の存在が俺の部屋に来訪する心配はあまりない。まあ、そもそも彼女以外にこの門のことを知るもの自体が数える程しか存在しないのだが。


 再び前方へと視線を戻す。

 鼻腔をくすぐる爽やかな植物と土の香り。耳に聞こえる小鳥の囀りと虫の鳴き声。そこに時折植物の葉が擦れ合うような音が混じる。


 深く息を吸い込み、そして吐き出す。それだけで心が落ち着き、清々しい気分に変わる。何度訪れてみても、やっぱり俺はこの場所が大好きだ。


 地球の、しかも近代都市育ちの俺が、この情景にノスタルジーを感じるのは何故だろう。


 そんなことを考えていると、気付かぬうちに俺から手を離していた彼女が無言で歩き始めていた。いつの間にか、厚皮のブーツまで履いている。


「おーっと、待って待って!」

 俺は背後の岩壁に埋め込まれた金属製の下駄箱から外履き用のスニーカーを取り出し、慌ててそれに足を通す。


 そして彼女の後を追い、柔らかな腐葉土の道へと足を踏み出した。






 数分も歩いた所で、俺たちは少し開けた草地に出た。周辺を巨木に囲まれ、森の中の秘密の広場と言った印象を受ける。上空には晴れ渡った青空が覗き、陽光に照らされた緑の絨毯のような大地が目に鮮やかだ。

 そんな草地の真ん中に立つ(いびつ)な石の建築物。それが彼女が住まう一軒家にして研究工房である。

 この建物を歪だと言ったことにはもちろん理由がある。それを解するためにはまず、この世界の文明レベルがおそらく地球の歴史で言う所の中世ヨーロッパ程度だということを念頭に置いて欲しい。


 この建築物は一階建てであるが、その十数メートル程度上部には巨大な高架水槽が、黒光りする太い金属で出来た頑強なトラス構造の足に支えられながら設置されている。地下水を手押しポンプによって汲み上げて貯水する仕組みだ。ちなみに手押しポンプというものは理論上最大一気圧分、すなわち十メートルまでしか水をくみ上げることが出来ない。実用上の話なら七から八メートル程度が限界だろう。しかし彼女の家に設置されているポンプは水中にまでピストンを下ろして水を持ち上げることによって、三十メートル程の高さにまで対応している。すなわち深井戸ポンプの構造である。いずれにせよ、明らかにこの世界の文明レベルを超えた技術だ。

 彼女が自宅に高架水槽を設置した理由は一つ。屋内に張り巡らされた水道へと加圧する為である。特に風呂場のシャワーで十分な水圧を得るにはこの高さがどうしても必要だったと言う。日本の風呂文化にすっかり魅せられた彼女は、こちらの世界でも出来る限りそれを再現していた。そういえばある日この家を訪れた際に、水洗便所まで設置されていたことには本当に驚いた。


 彼女の家の隣には、同じく石製の大きな倉庫が設置されている。その中には雑多な鍛冶道具等が納められているが、何より興味深いのは金属製の柵状門から見えている一台の車両だろう。一見四輪の荷馬車に思えるそれの先頭には、馬ではなく大きなボイラーや復水器、そして特徴的な煙突が取り付けられている。そう、いわゆる蒸気トラックである。燃料として火の精霊(サラマンダー)が宿った魔石を用いている為——この世界には魔法があるのだ!——補給は水だけで済み、外部へと排出するのも水蒸気だけと、なかなかクリーンな乗り物である。最も彼女は自身の作品に魔力を用いることを好まないので、これは森の生き物達、特に木の巨人(トレント)に対する配慮から来た妥協なのだが。


 それらの他にも日に日によくわからない構造物が増えて行く家屋を観察しながら彼女の後ろを歩いていると、あっという間に玄関先にまで辿り着いた。


 彼女は黒い鉄扉に取り付けられたレバータイプのドアノブに手をかけると、いかにも重たそうなそれを軽々と引き開ける。


 そして彼女の入室と同時に手を離された鉄扉が、今度は自動的にゆっくりと閉まり始める。現代日本の家屋ではほとんど誰も気に留めない程に普及している装置、ドアクローザの働きによるものだ。扉が開かれた際の力を内部のバネに蓄積し、油圧によって扉の開閉速度を調整するその機構も、当然この世界にはあるはずのないオーバーテクノロジーである。


 閉まり行く扉を右手で掴む。掌に生じるズシリとした感覚。時折、もしかするとこの重厚な作りの扉は俺に対する軽い嫌がらせなのではないかと勘繰ってしまうことがある。


 玄関から足を踏み入れると、そこはそのまま石畳の部屋となっている。床も壁もその全ての材質として岩石が用いられているせいか、落ち着いてはいるが少しばかり冷たい印象も受ける。しかし硝子の嵌められていない窓からは日光が入っており、室内は十分な明るさが保たれていた。

 部屋の中央には大きめの一枚岩を使ったテーブルが設置され、その周りを四台の金属フレームチェアが囲っている。それが二台以上使われた記憶はほとんど無いが。


 室内には驚くべきことにいくつかの電球までもが吊り下げられている。しかしその電源には、風の精霊(シルフ)が宿った魔石と土の精霊(ノーム)が宿った魔石から高度な魔法理論によって錬成された雷の魔石を用いており、彼女はこの点が大変ご不満なようだ。魔力を用いない効率的な発電機を作りあげることが、彼女の大きな目標の一つでもある。

 それらの電球の根元をたどり天井へと目をやると、そこには電気ケーブルと共に、あの高架水槽から続く配水管が幾何学構成的絵画のように張り巡らされている。


 そこに前回と異なる雰囲気を感じ、天井を眺めつつ尋ねる。

「前来たときと配水管のレイアウト変えた?」


 彼女は足を止め、俺の方へと向き直り答えた。

「水道の、改良に、取り組んでいる。

 今日届いた本も、きっと役に立つ」


 なるほど、あの難しそうな書籍の数々はそこに繋がっているのか。腕を組み、思わず「へえ」と感心してしまう。


「座って、待ってて」

 そんな俺の態度は気に留めた様子もなく、彼女は一言そう告げると奥の部屋へと立ち去ろうとした。


「ん、今日は何の用事?」

 首を傾げながら尋ねると、彼女は石机の上へと視線を落とした。


 少しの間の後、彼女は若干俯いたまま、しかしあくまでも淡々と言葉を紡ぐ。

「今日は、パーティ。

 食べ物の下ごしらえは、してある」


 今日は何か祝うようなことがあったっけ? しかも、彼女が俺に手料理を振る舞ってくれるなんて。

 まるで心当たりが無い俺は、不思議に思いながら彼女の視線の先を見やり、そこに置かれた小さな写真立てに気付く。


 俺は机に歩み寄り、その写真立てを覗き込む。


 そしてそこに入れられた一枚の写真を目にし、ハッと目を見開いた。


 そこに写っていたのは、まだ高校生だった頃の俺の姿。今でも学生と見間違われることはあるけれど、さすがに改めてこうして見ると重ねた年齢を感じずにはいられない。

 その俺の隣には、この瞬間も眼前に佇み続けている少女の姿。けれどもその容姿はまるで今と変化していない。まるで彼女だけが時の流れから取り残されているようにも思える。


 ……そっか。今日は俺たちが出会った日だったか。


 優しい思い出の数々が想起され、心に暖かなものが満ちる。

 彼女と今もこうして一緒にいられる喜びに、思わず笑みがこぼれてしまう。

 俯いたまま沈黙を守る彼女を見つめ、俺は自然と湧き出た感情をそのまま言葉に変えた。

「——、—————————?」






 彼女、シオン=アドミラは人間ではない。

 冒険者が地を駈け、ドラゴンが空を飛ぶ。そんなファンタジー世界の住人。採掘と鍛冶技術に長け、工芸をこよなく愛するドワーフと呼ばれる小柄な種族。それがこの静かでありながらも好奇心の塊のような少女の正体だ。


 違う世界、違う時を生きる、本来決して交わることが無いはずの俺たち。

 これはそんな俺たちの、ささやかな出会いの物語。

 俺と彼女の邂逅は、今から丁度七年前、高校二年の春まで遡る——。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ