二十歳
暖かい風が、開いた窓から心地よく入り込んで来た。
少女は、窓の外を眺めながら朝を迎える事が多かった。母親が夜勤明けで帰って来る日は、必ず玄関で出迎えていたのだ。
しかし、その習慣は少女が15歳の時、パタリとなくなった。
鷲尾ルカ20歳。15歳の時、母親の浮気が原因で両親が離婚。夜勤明けには必ず出迎えるほど、母親が大好きだったルカにとって、心の打撃は大き過ぎた。裏切られた喪失感は、ルカの心に大きな傷となって残っていた。
そして、父親の壮介とふたり暮らしになって、5年が経過し、ルカは成人を迎えた。
「とうとうお前も大人の仲間入りか。ルカにはいろいろ不自由な思いをさせてしまって、ほんとにすまないと思ってる……」
「何言ってるの? 悪いのはママの方じゃない! パパはルカの為に我慢してきたんだし、謝る事なんかなんもないよ? それに、とうとうじゃなくて、やっとだよ。やっとハタチ。だから、パパ? 好きなひと出来たら、ルカに遠慮なんかしないで、再婚していいんだからね」
「そう上手くはいかないもんだよ。パパの事よりルカはどうなんだ? まだ彼氏紹介されてないけど?」
「パパに紹介出来るようなひとにはまだ出逢えてないもん。彼氏いないと心配?」
「そんな事ないさ。むしろ出来た方が心配だよ」
「なにそれー。言ってること矛盾してるよー」
「ハハハ。親なんてそんなもんだよ。男が出来ても出来なくても、心配なもんさ」
パパ……。ルカね、ほんとは好きなひとがいるの。だけど、片思いなんだ。
「ねぇ、パパ? ほんとはいるんでしょ? ルカに遠慮しなくていいよ。もう大人なんだから。もしそのひとと暮らしたいなら、ルカは春から一人暮らししたっていいんだし」
「なっ! 何言ってるんだ? ルカに一人暮らしなんかさせられないよ。それに、パパには一緒に暮らしたいと思えるひとなんかいないよ?」
うそつき!
「パパ? ルカ知ってるよ。たまに女の匂いをプンプンさせて帰ってくるじゃない! 別に隠す必要なんかないでしょ?」
「女の……匂い?」
「香水の事よ! ルカが気付かないと思った?」
まずい……。
「あぁ……。あれは……、多分会社の人間に相談事されてた時かな? こう見えて、結構頼られててね。無視するわけにも行かないだろ?」
「そんな鉄板ネタを信じると思う? どうして? 何でほんとの事言ってくれないの? それとも言えない事情でもあるわけ?」
「ほんとだよ! ほんとに相談受けてただけだって! それに二人きりってわけじゃないんだよ。だから、そんな色恋ざたにはなんないさ」
言えるわけない。相手は前妻の厚子なのだ。厚子と浮気相手とは2年で破局し、結局壮介に頼って来た。浮気されても厚子をずっと想っていた壮介は、躊躇いもなく許してしまった。離婚後に香水は変えたから、ルカが母親の匂いだとは気づくはずもなかった。
父親と自分を裏切った汚らわしい女と罵り、二度と自分の前に現れるな、と怒り心頭したルカに、ママと寄りを戻したとは、とてもじゃないが言い出せない。
今は話せる状態ではないのだ。
「ほんとに? ――わかった。とりあえず信じてあげる!」
ルカも自分の事を告げていない手前、強く追及するのは気が引けた。
ルカが鳴川と出会ったのは16歳の夏休み。
父親のお得意様で、家に連れて来た事が始まりだった。紳士的な大人の男性の優しさに、ルカは一瞬で恋に落ちた。いや、まだ恋だとは気付いていなかったのかも知れない。
ルカは父親に相談出来ない事を相談したいからと、父親には内緒で連絡先を交換した。それからふたりの妙な関係が始まる。
鳴川は、ルカには母親がいないのだから、本来なら妻に協力してもらうところだが、それはやめた方がいいのではないか、と感じていた。もちろん、この時、鳴川には下心なんてものはなかった。
図書館で勉強したり、ルカの父親が遅い時は一緒に料理したり、たまにドライブ行ったり、親子のような、兄妹のような、もしかしたら恋人同士にも見えたかも知れない。そんな関係が4年間続いていた。
ルカは母親の事でやけになっていた時期に鳴川に出会った。だから気持ちを鳴川に向ける事が出来た。そのお陰でルカは、横道に逸れずに済んだのかも知れない。
ルカが20歳になったからと、鳴川はカクテルバーに連れて来てくれた。
「うわ~、なんか急に大人になった気分。素敵」
「やっとお酒飲める年齢になったからね。せっかくなら、最初からハードル上げておいた方が良いかと思って」
「何それ。意味わかんない」
「わからなくて結構。じゃ、まずはルカちゃん、成人おめでとう。やっとアルコールで乾杯できるよ」
「ありがとう。でも乾杯だけだよ。まだお酒の美味しさなんてわかんないんだから」
「そんなの、これから僕がゆっくり仕込んであげるさ」
「えー。大丈夫かな〜。違うもの仕込まれたりして」
「違うものって? 他に仕込んで欲しいものでもあるのかな?」
鳴川は意地悪な目付きでルカを除き込む。
「う〜ん。やっと大人になったから、大人の遊びを覚えたいな〜」
今度はルカが上目遣いで鳴川を除き込む。
「大人の遊びか……。僕もあんまり遊んでないからなぁ」
「うそつきぃー!」
「ほんとだよ。僕は真面目なのが取り柄だからね。そう言えばルカちゃん、この間、告白されたって言ってたけど、その後の進展はどうなったのかな?」
「えっ……。あ、うん……。まだ返事してなくて……」
「どうして? その彼の事、好みじゃないの?」
「好みじゃないわけでもないんだけど……。優しいし、ちょっと照れ屋さんみたいでかわいいとこあるし……。でも、何となく気乗りしないってゆうか、ときめかないってゆうか……。こんなあやふやな気持ちで付き合っちゃっていいのかなーって思って」
「ときめきって、ズキュンって来る時と、ジワジワゆっくり来る時があるんじゃないかな? もしかしたらその彼はジワジワタイプかもよ?」
「ジワジワタイプ? なんか、ねちっこい言い方だね」と笑った。
「最初から好きになるよりも、ゆっくり相手を知って行く方が、長く付き合えるんじゃないのかな〜? まあ、いろんな形があるから一概には言えないけど」
ルカは今までも数人から告白されて来た。だが、全く付き合う気持ちになれず、全て断って来た。理由は“好きなひとがいるから”だった。実は告白された事を鳴川に話したのは、今回が初めてだった。
「鳴川さん……、あのね……。実はルカには好きなひとがいるの」
「えっ! そうなの? 早く言ってよー。だったら迷ってないで、告白しちゃえばいいじゃない?」
「そんな簡単に言わないでよ! 告白出来る相手なら、とっくに伝えてるよ!」
「ん? 告白出来ない相手なの? ――――あっ……彼女いるとか?」
「う、うん……。まあ、そうゆう事なんだ」
「そっかー。そりゃまた、ちょっと辛いなあ…………。で、諦めるつもりはないの?」
「諦められないから辛いんじゃない! 好きな気持ちは止められないもの」
「だよね。でもね、ルカちゃん。片思いを楽しむのも悪くないよ? 両想いになっても、最初は楽しいけど、やきもち妬いたり、わがままになったり、心配要素が増えてくるからね。マイナスな部分が見えて来ない今が、ひとを見る眼を育てる時期なんだよ。まだまだ若いんだから」
「慰めてくれてるわけ?」
「慰めてるっていうか、一理説だよ。僕なりのね」と優しく笑う。
「鳴川さんは成就しなかった恋愛はあるの?」
「もちろんだよ。だけど、僕は潔いからね。断られたら、直ぐに引いてあげちゃうタイプなんだ」と言って、今度は高笑いした。
「それ、潔いってゆうの〜?」
「後を追わないんだから、ある意味男らしいだろう?」
「内心は結構引きずってたりして?」
「――あれ。わかっちゃった?」鳴川は笑いながら、「僕は押しが弱いタイプなのかもな」と苦笑いした。
「ルカは諦めが悪いんだね、きっと!」
「無理に諦める必要もないけど、ルカちゃんは、その彼をどうにかしたいと思ってるの?」
どうにかしたいも何も、どうする事も出来ないだろ。相手は彼女じゃなくて、妻なんだから。
「そりゃ、出来るもんなら、どうにかなりたいよ……。でも、暫くこのままでいるしかないんだろうなって、思ってる。彼の状況が変わらないとも限らないし。ルカだって、春から社会人になるんだし、違う出会いもあるかも知れないじゃない?」
「あっ! そっか! それは夢が広がるね!」
「夢って……。そんなおっきな事じゃないよー。鳴川さんって、いつも大袈裟な事言うんだからぁ」
「大袈裟なんかじゃないさ。そう思った方が、楽しいだろ?」
「そんなに現実は甘くないって、鳴川さんが経験済みなんじゃないの?」
「――いや、希望だけは持っておいた方がいい! うん、希望だけは……ね」
「鳴川さんたら……。ルカはもう子供じゃないんだから、わかってるよ!」
ルカは就職したら、素敵なひとに巡り会うかも知れない。そうすれば、鳴川の事は忘れられる。この想いは鳴川に知られてはいけない。ルカはそう感じていた。
「でも、告白してきた彼にはちゃんとルカちゃんの気持ちを伝えなきゃ駄目だよ。彼だって、ルカちゃんがどう思ってるか知りたいはずだから」
「う……ん……。わかってる」
結局ルカは、同じ理由で、告白を受けた彼に気持ちを伝えた。だが彼は、好きな気持ちはそう簡単には消えないからと、身を引く事はしないと言った。自分がもう少し大人になって、今の気持ちが変わらない時は、もう一度挑戦してみても良いかな? と笑顔を残して去って行った。
そして、春。
ルカは無事に就職した。