誘いは音
見世・・・ここでは遊郭を表す
女郎・・・遊女と同意語
禿・・・遊女見習いの少女
忘八・・・ここでは遊郭の主人の意
新造・・・禿の上の遊女見習い水揚げ前を指す
主様・・・遊女の客の意。旦那とも言われる
しゃらり。
と、雑踏の中で浮いたように心惹かれる“音”が聴こえた。
その音の出処を無意識に探して視線を巡らせる。
―――通りゃんせ、通りゃんせ 行きはよいよい、帰りは怖い
怖いながらも通りゃんせ、通りゃんせ――――
西の空が茜色に染まる頃、ひとつ、またひとつ、見世先の提灯に火が灯る。
その提灯の灯りが、美しく着飾った女郎達をより一層妖艶な空気に包み込んでいた。
この吉原が一番賑わう刻。
数ある遊郭の中で一際賑わいを見せている見世があった。
ただでさえ、欲望を詰め込んだ男達の熱気が噎せ返るように漂う、この吉原の大通りだと云うのに。
これ程までに賑わいを見せている中で、空耳だと思えない程に鮮明に聴こえてきた。
何故ここまで心惹かれる“音”なのか、その理由が知りたくて必死に黒山を掻き分ける。
群がった男達の間を縫い、ようやく辿り着いたその先には、数多の男達の欲望の眼差しを一身に受けた一人の女郎がいた。
その女郎は両脇に得意気な顔をした禿を抱え、蝶の様に舞い踊るその手を、より一層引き立てる為に仕立てられたであろう、長い紅色の煙管を燻らしていた。
綺羅を纏い、美しく結われた髪には何本もの髪飾りが飾られ、美しい線を描くその頬には睫毛の影が憂いを呼ぶ。
一人の男が堪らず自らの煙管を差し出した。遊郭では男が気に入った女郎に自らの煙管を差し出し、女郎がその男を気に入ればその煙管を受け取り紫煙を燻らすのだ。
煙管を差し出されたにも関わらず、女郎はその煙管にも男にも見向きもしない。
男の誘いがあったと云うのに知らぬ素振りで、ふぅ、と吐き出す紫煙は詩でも紡ぐかのようだ。
女郎の傍らに居た一人の禿が、煙管を差し出して見蕩れたままになっている男の前まで歩み寄り、ゆっくりと首を横に振った。
男は一瞬禿を見たが、それでも縫い付けられた様に女郎の美しさから離れられずに居た。周りの男達が野次ったり慰めたりしても、男の耳には何も入らない。
“音”に誘われ、女郎の前まで来たは良いが、十中八九振られたであろう隣の男の一部始終みていたのだ。自分が相手にされない事は火を見るより明らかだった。
自分には、この見るからに高級女郎を買えない事は理解していた。こんなに美しい女郎を一目拝めたんだと思い直し、その場を後にしようと来た道を振り返ったその時――。
「待ちなんし・・・」
鈴を転がすような“音”が聴こえた。ざわざわと喧騒になっていた男達が一斉に静まり返る。
あの時と同様、“音”へと誘われた。
振り向けば、女と視線が絡み合った。視線が絡んだ、それだけで自分の中の何かが弾けた。
どくり、と心臓が痛む。その痛みに堪えきれず、自らの手で心臓を抑え込もうとするが敵わない。額にじわりと嫌な汗が溢れ出す。呼吸すら制御できなくなり、顔見世の格子にしがみついてしまった。
突然訪れた胸の痛みを逃がそうと、必死に肩で呼吸を繰り返すが上手くいかない。
意識を手放すまいと懸命に試みるが、視界に霧がかかって来た。
「・・・来なんし」
また、音がする。霞む視界から逃げ出したくて、しがみついた格子の向こうへ手を伸ばす。その“音”をもっと聴きたくて、聴きたくて。
綺羅を纏った女郎は、助けを乞う様に格子の中へと伸ばされた男の手に、自らの紅色の煙管をそっと握らせた。
そして、苦痛から少しでも逃れようと格子に身体を預けている男の顎を扇子で持ち上げ、口に含んでいた紫煙を男の鼻先に、ふぅ、と吹き掛けた。
その刹那、あの苦しみが引いた。心臓が縄で縛られ、弓で射られた様なあの激しい痛みは紫煙と共に消えていた。
乾かぬ額の汗が、あの痛みは真実だと告げている。未だに呼吸が整わずに口で息をする有様だ。本気で死を予感させた痛みだったのだ。
兎に角、呼吸だけでも整えようと深く息を吸い込んで、己の手に何かが握られてる事に気がついた。
藁をも掴む思いで握ったのが、この紅色の煙管だった。じっとりと汗をかいた掌を開くと、ひやりと風を感じる。この見覚えのある紅色の煙管の持ち主が自分の記憶違いでないならば、あの“音”のする女郎だ。
そう思い出し、男はゆっくりと視線を持ち上げたが、そこにあの女郎は居なかった。
あの美しい女郎の姿を探すように視線を巡らせると、一人の禿がまだあどけなさの残る笑顔でこちらを見ていた。
「おいらん姉さんが呼びんした!」
声高らかに禿が宣言すると、周りの男達から一斉に歓声があがった。
やんや、やんや、と周りの男達から囃し立てられ呆然と立ち尽くしていると、この見世の忘八が暖簾から顔を出し、紅色の煙管を見つけると手招きしていた。
その人柄の良さそうな笑顔に呼ばれた男は、覚束無い足取りで忘八の前まで歩いて行くと、よく来てくれたと言わんばかりに歓迎された。
「今度の旦那さんはお若いねぇ!まぁ、ごゆるりとしてってくださいまし!ほら、ご案内だ!!」
忘八は紅色の煙管を持った男の背中に景気を付けるように、ぽんぽんと叩きながら自らの見世へと招き入れた。
男はめまぐるしい事の運びに流されながら暖簾を潜ると、さっきの元気な禿に出迎えられた。
「おいらん名は梅、こっちにきなんし!」
梅と名乗った禿の後を訳も分からず付いて行く。見世は繁盛している様で、忙しそうに女中や禿がてきぱきと仕事をこなしている。その様子をぼんやりと眺めながら梅に案内されると、階段を上がり奥座敷であろう襖の前に来た。その襖の前で梅が、ゆっくりと床に膝を落とした。
「翡翠姉さん!主さん連れてきたわいな」
梅の元気な声で、我に返る。何故、自分がここに居るのだろうか。ああ、この煙管を返しに来たんだ。右手に握られた煙管を見やり言い訳のように己に言い聞かせ、覚悟を決めた。どうにでもなれ、と。
梅は元気な印象と裏腹に、丁寧に襖を開けると半歩下がって男を中に招き入れるように頭を下げた。
梅を足元に見下ろしながら男は中に入った。
部屋に足を踏み入れると、背中ですっと襖の閉まる気配がした。部屋の奥に視線をやると、上座には顔見世に居た女郎が妖艶な空気を纏って寛いでいた。
梅に促されて座布団へと腰を降ろすが、女郎は誰も入ってきてなどいないと言わんばかりに窓の外を眺めている。
こちらを見ようともしない女郎に代わって、傍に仕えているもう一人の禿と新造が三つ指着いて出迎えている。
「よう来なんした」
新造の迎えてくれた言葉で、自分は招かれたのだと初めて気付かされた。
男は何故、招かれたか理解できない。それでも己の懐事情では、こんな処で遊ぶ事は一生かかっても無理だ、と云う事だけは解っている。
見たこともない程、位の高い女郎であることは確かな様だ。
さっきとは違う汗が、ひやりと背筋を伝う。
何をどうしたらいいのか思い悩んでいると、見かねた新造が微笑んで挨拶をし始めた。
「この姉さんは翡翠花魁と申しんす」
「・・・お、おいらんだと!?」
位が高いと云う事はその仕草や身なりで判っていた。だが、この吉原で一番位の高い女郎である花魁が、まさか顔見世に出ているなんて思いもしなかった。
普通であれば茶屋を通し逢瀬の許しを得て、部屋に上がれるようになるまでに初回、裏、馴染みと云う手順を踏むものだ。その手順に至る祝儀も、茶屋への土産も桁が違う。花魁の顔を見るだけで、大層な時間と金がいるのだ。そんな事は吉原で遊郭遊びが出来ない男でも知ってることだ。
なのに何故、この翡翠と呼ばれたこの花魁は顔見世に座して、初見の自分に声をかけたのだろうか。自分の身成を見ても懐事情は一目瞭然だろうに。
つい先ほどくくったはずの腹なのに、一気に血の気がなくなっていくのを他人事の様に感じてしまった。
ああ、俺は嵌められた。こんなの美人局もいいところだ。例え死んだって払える訳がない。
すっかり生気の抜けた男の表情を観て、新造がくすりと笑を漏らした。
「主様、そう心配いりんせん。この翡翠姉さんは特別なんし?」
噂ぐらい聴いた事あるだろう、と微笑まれた。
「特別ってえのは、箆棒に金がかかるってことじゃねえのか?」
男は半ば声をひっくり返しながら、銭勘定の心配をしていた。
興味無さ気に今まで外の景色を眺めて居た翡翠が、男の切羽詰った発言に思わず吹き出した。
「あっははははははは。ちょいと聴いたかい、夕霧!」
今まで纏っていた妖艶で凛とした空気を一瞬で散らした様に笑い転げる。夕霧と呼ばれた新造が慌てて取り繕うとしている。
「翡翠姉さん、主様の御前で・・・」
男は呆然とするしかなかった。あの顔見世での女郎と、今、目の前にいる翡翠と云う女が同一人物とは思えなかった。
更に呆然唖然としている男を見て、翡翠は更に涙を浮かべてころころと笑っていた。
一頻り笑い転げて気が済んだ後、目元に浮かんだ涙を指先で拭うようにして男の顔を見た瞬間の妖艶な眼差しは、顔見世で観た表情そのものだった。
男は兎に角、自分が場違いな事は確かだと、からかわれたんだと、身ぐるみ剥がされる前に(既に遅いかもしれないが)帰ろうと思い、煙管を渡そうと翡翠の前へ歩み出た。
翡翠の目の前まで来ると、男はぶっきらぼうに煙管を突き出した。そんな男に散々笑って気が済んだ翡翠が、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「・・・それは主様に贈った物でありんす」
―あの“音”がした。
こんなにも心惹かれる“音”は聴いたことがなかった。この音は何なんだ。吸い込まれるように惹きつけられる。
さっさと煙管を返して帰ろうとしていたのに、何故か翡翠の目の前に腰を降ろしていた自分がいた。
その男の行動が翡翠に確信を与えた。
「主様はわっちの声がよく聴こえるんでおざんしょ?」
さっきの笑い転げた姿から、顔見世の表情に戻る。この女は何者なんだ。間近でみる翡翠は遠目でも美しかったが、近づいた今、その比ではない。
透き通るような白い肌は白粉など必要とせず、憂いを呼ぶ睫毛から見えるその瞳は光の加減で幾重にも色が変わる。すっと通った鼻筋に、椿の様に可憐な唇。
結われて飾られた髪は絹糸の如く輝いて、指先は蝶の様にひらひらと舞い踊り、ふわりと風に乗って香ってくるのは蜜の様に仄かな甘さが感じられた。
「主様、名はなんと?」
「・・・総司郎だ」
普段なら、こんな美人局のぼったくり(かもしれない)やつに名乗る名なんでありゃしねえよ、と言い返して我関せずを決め込む男が、名乗った。
「総司郎様、と御呼びしても?」
ああ、“音”がする。抗いたくても抗えない。いや、抗いたくない。もっと聴きたい。
「・・・ああ、好きに呼びゃあいい」
煙管を突き返そうとしていた事も、さっさと帰ろうと決めたことも忘れて聴き入る。
「総司郎様、主様のお命は・・・じきに尽きなんし」
この“音”を少しも聴き逃したくなくて、翡翠の言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
「俺が死ぬ・・・死ぬ!?」
翡翠の言葉の意味を己の口で復唱してやっと理解した。やっぱり美人局だったのか。この部屋から出る時に暴利な金額を請求され、払えないと言えば殺されるんだ、と現実に引き戻された。いや、戻って来た。
「お前さん、この女は特別な花魁って言ってたな。そらあよ、こんな商売してらあ“特別”だろうよ」
一気に目が覚めた総司郎は、夕霧に吐き捨てるように言った。
「誤解でありんす!主様、翡翠姉さんは・・・」
「お下がりなんし、夕霧」
勢いに任せて立ち上がった総司郎を、その場に引き留めようと夕霧が慌てたが、翡翠によって阻まれた。
「翡翠姉さん・・・でも!」
「夕霧」
誤解を解かせてくれと懇願する夕霧を、翡翠は一言で下がらせた。
「生憎だがよ、俺から毟り取ろうったってそんな銭なんか殺されたってありゃしねえんだよ」
達者でな、と後ろ手に手を振ってどかどかと部屋を後にする総司郎。梅や夕霧が慌てて総司郎を追い掛けようと立ち上がったが、それも翡翠に止められた。
総司郎は翡翠の美貌と“音”に騙されたと、怒りが収まらなかった。あんなのは詐欺だ、不可抗力だと頭の中で繰り返す。
だが、翡翠以上に自分自身に腹が立った。あんな上位の女郎が、自分を特別扱いなんかするはずがないと解っていたのに、惹きつけられた自分が許せなかった。流された自分に嫌悪した。
勢いを落とさぬまま階段をバタバタと降り、見世を出ようとした所で見世口の番台に忘八が座っていた。
「旦那さん、もうお帰りで?」
人の良さそうな忘八にも騙されたと云う憎悪が湧き上がる。この忘八が総司郎の予想通り暴利な金額を提示してきて、それを断ったら間違いなく殺される。
ただ黙って殺されるくらいなら、と逡巡して腰に手を構えるがそこに在るはずの刀が無い。
手に持っているのは紅色の煙管だけ。何も無いよりは良いと、煙管を忘八に構えた。
「旦那さんは翡翠の主様だ、いつでも来てくだせえ!」
煙管一本で死闘覚悟の総司郎に、忘八はにかっと笑いかけ背中に火打石まで打ってくる。ある意味で予想を上回った忘八に毒気を抜かれ、総司郎は首を捻りながら吉原の大門を後にした。
「翡翠姉さん、何故あのまま帰したんおす?」
まるで自分が馬鹿にされたと言わんばかりに、ぷりぷりと怒っている夕霧を見て翡翠がころころと笑っている。
「おいらん姉さん特別じゃ!“特別”で何が悪い、おいらあの主さん嫌いじゃ」
今まで黙って隣に座っていた禿の松までもが頬を膨らませている。元気だった梅はしょんぼりと肩を落としていた。
「いいんじゃ。総司郎様にわっちの声が聴こえ、響いたんじゃ。主様はまた来るじゃろ」
松と梅の頭を撫でながら、ふわりと微笑んでなだめた。
それでも納得いかない様子の夕霧を、蝶が舞うような優雅な手つきで呼び寄せ言い聞かせるように言った。
「気するな夕霧、煙管を持って帰ったんじゃ。そのうち熱も覚めるはずじゃろ」
そんなに怒っていたら、良い旦那さん逃げてしまうじゃろ?と翡翠が微笑むと夕霧もやっと微笑み返した。
禿達と夕霧をなだめ、一息ついた翡翠がふと窓辺に腰を降ろせば、総司郎が煙管片手にこ首を傾げながら吉原の外へ向かって歩いていくのが見えた。
そんな総司郎の背中に翡翠は言葉を紡いだ。
「待っておりんす・・・」
しゃらり。
またあの“音”に呼ばれた気がして振り返る。
振り返り、提灯と賑わいに目を向ければ、柳の木が風に誘われて、さわさわと揺れていた。
“音”に誘われる総司郎の様に――――。
はじめまして、桜井です。
なんだか、ぶわっと書きたくなったお話なんです・・・
連載設定になってますが、どうなることやら自分でもさっぱりわかりません。
のんびりまったり書いていきますので、お付き合いして頂ければ幸いです。
遊郭やら遊女のお話なので、R15設定にさせていただきました。