もう、あなたの紅茶は淹れません
もう、あなたの紅茶は淹れません
――十年間、夫を待ち続けた伯爵夫人の最後の朝
十一月の夜明けは、ひどく冷たかった。
窓の外では、霜をまとった庭木が薄青い光の中に沈んでいる。夜の名残を引きずる空には、まだ太陽の姿も見えない。
アルスハイム伯爵邸の広いダイニングに、銀のスプーンが陶器に触れる小さな音が響いた。
午前六時半。
マルグリット・フォン・アルスハイムは、いつものように二人分の紅茶を用意していた。
一つは、自分のためのダージリン。
もう一つは、夫のためのアッサム。
夫のリュシアンは、濃く淹れたアッサムに温めたミルクをたっぷり注いだ紅茶を好んだ。
茶葉は少し多めに。蒸らす時間は四分。ミルクは沸騰させず、表面に薄く湯気が立つ程度まで温める。
結婚して間もない頃、何度も失敗しながら覚えた淹れ方だった。
『君の淹れてくれる紅茶が、一番好きだよ』
そう言って笑った夫の顔を、マルグリットは今でも覚えている。
あれから十年。
彼女は一度として、その好みを忘れたことがなかった。
もっとも、夫が最後にこの食卓で紅茶を飲んだのは、もう三年も前のことだった。
「……今日は、少し冷えますね」
向かいの席に語りかける。
返事はない。
長いマホガニーのテーブルの向こうには、誰も座っていなかった。
それでもマルグリットは、夫のカップを置く位置を変えなかった。
白地に青い花模様が描かれた、揃いのティーカップ。
結婚祝いに贈られたものだ。
十年前は、二人で向かい合って使っていた。
今では片方だけが、毎朝、誰にも触れられないまま冷めていく。
午前八時になれば、マルグリットはその紅茶を庭の土に捨てる。
そして翌朝、また新しく淹れる。
三年間、ずっとそうしてきた。
最初の頃、侍女は何度か尋ねた。
『奥様、旦那様は本日もお戻りにならないと伺っております。それでも、お茶を?』
マルグリットは微笑んで答えた。
『ええ。もしかしたら、お帰りになるかもしれないでしょう』
そのうち、誰も何も言わなくなった。
ただ毎朝、二脚のカップが食卓に並べられた。
それが、この屋敷の変わらない習慣になっていた。
マルグリットは三十二歳になっていた。
二十二歳で嫁いだ頃には、柔らかな栗色の髪と白い肌を持つ、美しい令嬢だった。
今でも容貌は整っている。
けれど鏡を見るたびに、目元に刻まれた疲れの影が気になるようになった。
指先には、小さな傷がいくつもある。
刺繍針で刺したもの。
庭の薔薇を手入れしているときについたもの。
使用人が足りない日には、自分で仕事を手伝うこともあった。
かつてリュシアンは、その手を取って言った。
『君の手は、白百合の花びらみたいだね』
今の彼がこの手を見たら、何と言うだろう。
そもそも、最後に手を握られたのはいつだっただろう。
思い出そうとして、やめた。
思い出せないことを確かめるのは、あまりにも寂しかった。
二人の結婚は、家同士の取り決めによるものだった。
それでもマルグリットは、夫を愛していた。
リュシアンは明るく、気さくで、誰に対しても親切な男だった。
舞踏会では人々の輪の中心にいて、困っている者を見かければ放っておけない。
そんな彼の優しさを、マルグリットは誇らしく思っていた。
結婚して七年間、二人は穏やかに暮らした。
情熱的な恋人同士というわけではなかったけれど、朝には同じ食卓につき、夜にはその日の出来事を語り合った。
誕生日には花束を贈ってくれた。
風邪をひけば、寝室まで見舞いに来てくれた。
マルグリットが刺繍したハンカチを、嬉しそうに胸ポケットへしまってくれたこともある。
あの頃は、それで十分に幸せだった。
少なくとも、彼女はそう信じていた。
すべてが変わったのは、三年前。
リュシアンの幼馴染であるエレノア男爵夫人が、夫を亡くしたときだった。
『エレノアがひどく落ち込んでいるんだ』
ある晩、リュシアンは心配そうに言った。
『あの子は昔から気丈に振る舞うけれど、本当は弱いところがある。今は誰かがそばにいてやらなければ』
マルグリットも胸を痛めた。
若くして夫を亡くす悲しみは、想像するだけでもつらい。
だから彼女は言った。
『ええ。どうか、支えて差し上げてください』
最初は、週に一度だった。
やがて二日に一度になり、三日に二度になった。
帰宅が深夜になることも増えた。
そして、とうとう帰ってこない夜が当たり前になった。
『エレノアが一人で夜を過ごせないんだ』
『今日は気分が悪いらしい。様子を見てくるよ』
『君なら分かってくれるだろう?』
マルグリットは、そのたびに頷いた。
分かっていたわけではない。
ただ、分かってあげたいと思っていた。
夫が優しい人であることを、疑いたくなかった。
一度だけ、勇気を出して尋ねたことがある。
『リュシアン。今度の日曜日は、お屋敷で過ごしていただけませんか』
その日は、二人の結婚記念日だった。
リュシアンは困ったように眉を下げた。
『すまない。その日はエレノアを湖畔へ連れていく約束をしているんだ』
『……そうですか』
『あの子も、ようやく外へ出る気になってくれてね。今を逃したくないんだ』
そして彼は、マルグリットの肩に軽く手を置いた。
『君とは、いつでも一緒にいられるだろう?』
いつでも。
その言葉を、マルグリットは何度も思い返した。
いつでも一緒にいられる。
そう思っている人ほど、その時間を後回しにするのかもしれない。
けれど、そんな考えを抱いた自分が嫌で、彼女は首を振った。
夫は人助けをしているのだ。
自分が寂しいからといって、その善意を責めるべきではない。
そう言い聞かせた。
結婚記念日の夜、用意させた夕食は、ほとんど手つかずのまま下げられた。
食卓には、二人分の皿が並んでいた。
マルグリットは一人でワインを飲み、日付が変わる頃に寝室へ戻った。
翌朝も、夫の紅茶を淹れた。
いつもと同じ濃さで。
いつもと同じ温度で。
何もなかったかのように。
けれど、夜会に一人で出席するたびに、周囲の視線は変わっていった。
『お気の毒に』
『ご主人は、またエレノア様のところ?』
『あれでは、どちらが本当の奥方なのか分かりませんわね』
聞こえないふりをした。
聞こえてしまった夜は、寝室で一人、枕を濡らした。
実家の兄は激怒した。
『マルグリット、お前はいつまであの男を待つつもりだ』
手紙には、そう書かれていた。
『帰ってこい。離縁の手続きなら、こちらでいくらでも手を貸す。お前があの屋敷で一人、惨めな思いをする必要などない』
マルグリットは、その手紙を何度も読み返した。
そして、丁寧に折り畳んで引き出しにしまった。
離縁など、考えたくなかった。
夫を憎みたくなかった。
いつか彼が帰ってきてくれると、信じていたかった。
ただ一度でいい。
『ただいま、マルグリット』
そう言って、以前のように笑ってほしかった。
『君に会いたかったよ』
そう言ってほしかった。
その日が来たら、何も責めずに迎えようと思っていた。
寂しかったことも、苦しかったことも、全部胸の奥にしまって。
温かい紅茶を差し出して、ただ微笑もう。
そう決めていた。
だから、毎朝紅茶を淹れた。
帰ってこないと分かっている日も。
昨日、エレノアと観劇に出かけたという噂を聞いた翌朝も。
結婚記念日を忘れられた翌朝も。
ずっと。
ずっと、淹れ続けた。
けれど、三年目の秋になった頃から、マルグリットは時折、自分が何を待っているのか分からなくなっていた。
夫が帰ってくることなのか。
それとも、夫に愛されていた頃の自分に戻ることなのか。
分からないまま、紅茶を淹れる手だけが動いていた。
そんな彼女を心配して、兄は先月も手紙を寄越した。
『いつでも迎えを出す。荷物だけでも少しずつ実家に戻しておけ』
その言葉に従ったのは、離縁を決めたからではなかった。
ただ、嫁入りの際に持参した本や、母の形見の装飾品を、しばらく実家で保管してもらおうと思ったのだ。
何年も使っていない品ばかりだった。
一箱、また一箱。
荷物を送り出すたびに、寝室の棚には小さな空間ができた。
それを眺めると、不思議と息がしやすくなった。
けれど、その理由を深く考えることはしなかった。
考えてしまえば、何かが終わってしまう気がしたから。
その朝も、マルグリットはいつもどおり、夫の紅茶を淹れていた。
――カチャリ。
玄関の重い扉が開く音がした。
続いて、使用人たちの慌ただしい足音。
誰かが驚いたように声を上げる。
「旦那様……?」
マルグリットの指先が止まった。
胸が、どくんと大きく鳴る。
聞き間違いだろうか。
けれど、廊下から近づいてくる足音には覚えがあった。
少しだけ右足を引きずるような、独特の歩き方。
昔、乗馬で足首を痛めて以来、夫にはその癖があった。
忘れるはずがない。
マルグリットは立ち上がった。
ダイニングの扉が開く。
そこに立っていたのは、リュシアンだった。
三十四歳になった夫は、以前より少し痩せていた。
金色の髪は乱れ、目の下には疲れの影がある。
それでも、間違いなく彼だった。
三年間、毎朝待ち続けた人。
「……リュシアン」
思わず名前がこぼれた。
リュシアンは軽く片手を上げた。
「やあ、マルグリット」
あまりにも何気ない挨拶だった。
まるで昨日も、この家で朝を迎えたかのように。
マルグリットは胸の高鳴りを抑え、微笑んだ。
「お帰りなさいませ」
声が震えないように、ゆっくりと言葉を続ける。
「寒かったでしょう。ちょうど紅茶を淹れたところです。あなたのお好きな、濃いアッサムを」
リュシアンは外套を脱ぎ、手袋をテーブルの端に置いた。
「ああ、ありがとう。でも、今はいいかな」
「……そうですか」
「それより、君に話があるんだ」
マルグリットは両手を重ねた。
何か、大切な話なのだろう。
もしかしたら。
もしかしたら、ようやく。
「何でしょうか」
リュシアンは椅子の背に手を置き、ほっと息をついた。
「今日から、またこの家で暮らすことにしたよ」
マルグリットは瞬きをした。
「……え?」
「もう、エレノアの家に泊まる必要はないんだ。これからは毎朝ここで朝食をとるし、夜も帰ってくる。以前のようにね」
一瞬、言葉が理解できなかった。
三年間、待ち続けた言葉だった。
何度も夢に見た。
一人で眠る夜、何度も想像した。
夫が帰ってきてくれる。
もう、空席に向かって紅茶を淹れなくてもいい。
一人で朝食をとらなくてもいい。
そう思った瞬間、目の奥が熱くなった。
「……本当に?」
「ああ、もちろん」
「これからは、ずっと?」
「そうだよ」
リュシアンは笑った。
マルグリットも笑おうとした。
けれど、その前に夫が続けた。
「エレノアが再婚することになったんだ」
マルグリットの胸の奥で、何かが止まった。
「……再婚、ですか」
「ああ。北部に領地を持つ子爵でね。なかなか裕福な男らしい。彼女もようやく前を向く気になったんだよ」
リュシアンは晴れやかな顔をしていた。
「これで僕も安心した。亡くなった友人に頼まれたとはいえ、彼女を支えるのは簡単なことじゃなかったからね」
「……そう、でしたか」
「正直、肩の荷が下りたよ」
彼は笑った。
心から安堵したように。
「三年間、僕もずいぶん気を張っていたんだ。ようやく自分の生活に戻れると思うと、ほっとする」
マルグリットは、夫を見つめた。
「……では、エレノア様が再婚なさらなければ」
声が、思いがけず小さくなった。
「あなたは、これからもあちらに?」
リュシアンは少し考えるように首を傾げた。
「そうだね。彼女が一人でいるうちは、放っておけなかっただろうな」
悪びれる様子はなかった。
「でも、もう心配はいらない。だから僕も帰ってきたんだ」
だから。
その一言が、胸の奥に深く沈んだ。
エレノアが再婚するから。
エレノアに自分は必要なくなったから。
だから、帰ってきた。
マルグリットに会いたかったからではない。
妻を寂しくさせたことを悔やんだからでもない。
二人の暮らしを取り戻したいと願ったからでもない。
ただ、ほかに行く必要がなくなったから。
「マルグリット?」
リュシアンが怪訝そうに眉を寄せた。
「どうしたんだい。嬉しくないのか?」
彼女は答えられなかった。
嬉しいはずだった。
ずっと待っていたのだから。
何度も何度も、この日を夢見てきたのだから。
けれど、不思議なほど何も感じなかった。
胸を満たしていたはずの喜びは、いつの間にか消えていた。
代わりに、冷たい静けさだけが広がっていく。
「君も寂しかっただろう?」
リュシアンは優しく言った。
「これからは、また夫婦二人で暮らそう。君にはずいぶん我慢をさせたね。でも、もう大丈夫だ」
もう、大丈夫。
その言葉を聞いたとき、マルグリットはようやく理解した。
この人は、何も知らないのだ。
三年間、自分がどんな朝を迎えてきたのか。
夜中に目を覚まし、誰もいない寝台の半分を見つめたことも。
結婚記念日に、二人分の夕食を用意して待っていたことも。
夫の誕生日に焼かせた菓子を、結局使用人たちに分けたことも。
一人で飲む紅茶が、いつからこんなに苦くなったのかも。
何も知らない。
知ろうともしなかった。
そして今も、自分が帰ってきたことだけで、すべてが元どおりになると思っている。
「……リュシアン」
「何だい?」
「私が、この三年間をどのように過ごしていたか、お考えになったことはありますか」
夫は意外そうに瞬きをした。
「もちろん、寂しい思いをさせたとは思っているよ」
「……そうですか」
「でも、君はしっかりしているからね。エレノアとは違う。僕がいなくても、屋敷をきちんと守ってくれていたじゃないか」
その言葉に、マルグリットは静かに目を伏せた。
しっかりしているから。
泣かなかったから。
困らせなかったから。
だから、この人は自分を一人にしても構わないと思ったのだ。
「もし、私が泣いていたら」
思わず、言葉がこぼれた。
「え?」
「もし私が、毎晩寂しいと泣いていたら……あなたは帰ってきてくださいましたか」
リュシアンは困惑したように眉を寄せた。
「マルグリット、何を言っているんだい」
「……いいえ」
彼女は小さく首を振った。
「何でもありません」
聞かなくても、分かっていた。
きっと彼は、困った顔をしただろう。
そして、こう言ったに違いない。
『君なら分かってくれるだろう?』
その言葉を聞くのが、もう嫌だった。
マルグリットは、そっと目を伏せた。
ああ。
私は、何を待っていたのだろう。
夫が帰ってくることを、待っていたつもりだった。
けれど、本当は違った。
自分を選んでくれる日を、待っていたのだ。
ほかの誰かが困っているからではなく。
義務が終わったからでもなく。
ただ、マルグリットと一緒にいたいから。
そう言って帰ってきてくれる日を、待っていた。
それが、こんなにも叶わない願いだったなんて。
「……お疲れ様でございました」
マルグリットは静かに頭を下げた。
「三年間、本当にお疲れ様でした。リュシアン」
夫は満足そうに頷いた。
「ありがとう。君はいつも理解があって助かるよ」
そして、ふと思い出したように言った。
「ああ、やっぱり朝食をもらおうかな。着替えてくるから、用意しておいてくれないか」
「……承知いたしました」
「紅茶も頼むよ。久しぶりに、君の淹れたものが飲みたい」
リュシアンは笑った。
「やっぱり、君の紅茶が一番だからね」
そう言って、軽やかな足取りで部屋を出ていった。
階段を上る靴音が遠ざかっていく。
マルグリットは、その音が完全に聞こえなくなるまで立っていた。
やがて、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
目の前には、自分のダージリン。
向かいには、夫のアッサム。
どちらも、すっかり冷めていた。
マルグリットは夫のカップに手を伸ばした。
指先に伝わる陶器の冷たさに、ふと笑みがこぼれた。
三年間、毎朝この紅茶を淹れてきた。
彼が帰ってきたら、すぐに飲めるように。
温かいものを、温かいうちに渡したくて。
けれど今日、彼は本当に帰ってきたのに、紅茶を飲まなかった。
彼女が淹れたばかりの紅茶を前にして、ただ「今はいい」と言った。
そのことが、妙にはっきりと胸に残った。
三年間、彼女は夫のために紅茶を淹れ続けた。
そして夫は、三年ぶりに帰ってきたその朝も、彼女の差し出したものを受け取らなかった。
きっと、彼にとっては何でもないことなのだろう。
着替えを済ませたら、新しい紅茶が用意されている。
いつものように、妻が笑顔で待っている。
そう信じているのだ。
マルグリットは、しばらくカップを見つめていた。
それから、静かに立ち上がった。
夫のカップを持ち、窓辺へ向かう。
いつもなら午前八時まで待つ。
けれど、今日はまだ七時にもなっていなかった。
窓の外には、霜の降りた庭が広がっている。
マルグリットは窓を開けた。
冷たい空気が頬を撫でた。
そして、カップの中の紅茶を、庭の土へ静かに流した。
三年間、繰り返してきたことだった。
けれど、今日は違った。
もう一度淹れ直そうとは思わなかった。
空になったカップを見つめる。
「……もう、いいのですね」
小さく呟いた。
もう、待たなくていい。
もう、期待しなくていい。
明日こそはと、自分に言い聞かせなくてもいい。
マルグリットは窓を閉めた。
「……もう、淹れません」
誰もいない食卓に、声が落ちた。
「あなたの好きだった紅茶は、二度と」
涙は出なかった。
悲しくないわけではなかった。
ただ、涙を流すには、あまりにも長く泣き続けてきた。
マルグリットは呼び鈴を鳴らした。
やってきた執事に、穏やかな声で告げる。
「兄に使いを出してください。以前お願いしていた馬車を、すぐに寄越してほしいと」
執事は一瞬だけ目を見開いた。
けれど、すぐに深く頭を下げた。
「……かしこまりました、奥様」
「それから、残してある私の荷物をまとめてください。多くはありませんから、すぐに済むでしょう」
「承知いたしました」
執事は少し迷ってから尋ねた。
「旦那様には……」
「私から、お手紙を残します」
マルグリットは微笑んだ。
「お願いです。今だけは、何もおっしゃらないで」
長年仕えてきた執事は、静かに頷いた。
「かしこまりました」
その声は、わずかに震えていた。
マルグリットは書斎へ向かった。
机の引き出しを開ける。
そこには、兄が以前から用意してくれていた離縁の書類があった。
何度も取り出しては、またしまい込んできたものだ。
署名欄は、ずっと空白のままだった。
マルグリットは椅子に座り、ペンを取った。
不思議と、手は震えなかった。
一文字ずつ、自分の名前を書いていく。
マルグリット・フォン・アルスハイム。
十年前、愛する人の妻になることを喜んで名乗った名前。
その最後の文字を書き終えると、胸の奥が少しだけ軽くなった。
彼女は新しい便箋を取り出した。
そして、夫への最後の手紙を書き始めた。
二十分ほどして、リュシアンは着替えを済ませ、ダイニングへ戻ってきた。
久しぶりの自宅で迎える朝だった。
今夜からは、もうエレノアの家に泊まらなくていい。
気を遣う必要もない。
これからは、以前のように穏やかな日々を過ごせる。
マルグリットも、きっと喜んでいるだろう。
そう思っていた。
けれど、ダイニングには誰もいなかった。
「……マルグリット?」
返事はない。
朝食も用意されていなかった。
テーブルの上には、二脚のティーカップだけが残されている。
その中央に、白い封筒が一通置かれていた。
リュシアンは眉をひそめた。
封筒には、見慣れた妻の筆跡で、自分の名前が書かれている。
「何だろう」
中には、数枚の書類が入っていた。
一番上の紙を開いた瞬間、リュシアンの表情が凍りついた。
離縁状。
そこには、すでに妻の署名が記されていた。
「……は?」
何かの間違いだと思った。
もう一度、文字を確かめる。
間違いなく、マルグリットの名前だった。
その下には、小さな真鍮の鍵。
彼女がいつも持ち歩いていた、私室の鍵だった。
そして、一枚の手紙。
リュシアンは便箋を広げた。
『リュシアン様。
エレノア様のご再婚、心よりお祝い申し上げます。
あなたが三年間の務めを終え、ようやく肩の荷を下ろされたこと、私も嬉しく思います。
そして、あなたのお話を聞いて、私もようやく自分の気持ちを理解することができました。
私は、あなたが帰ってくるのを待っていたのではありません。
私を選んでくれるあなたを、待っていたのです。
誰かに必要とされなくなったからではなく、ほかに行く場所がなくなったからでもなく。
ただ、私と共に生きたいと願ってくれるあなたを、待っていました。
けれど、あなたは最後まで、私を選んではくださいませんでした。
私は十年間、あなたの妻でいられたことを幸せに思っていました。
それは嘘ではありません。
あなたと過ごした七年間には、確かに温かな日々がありました。
その思い出を、私はこれからも大切にしたいと思っています。
だからこそ、これ以上、あの頃のあなたまで嫌いになりたくないのです。
嫁入りの際に持参した私物は、以前から少しずつ実家に移しておりました。残りも本日、持ち帰ります。
離縁の手続きについては、兄を通じて進めさせていただきます。
どうか、探さないでください。
最後に、一つだけ。
あなたがいつか、心から一緒にいたいと思える方と巡り会えますように。
十年間、ありがとうございました。
マルグリット』
読み終えたあとも、リュシアンはしばらく動けなかった。
手紙の文字が、頭に入ってこなかった。
離縁。
マルグリットが。
自分と。
「……何を、言っているんだ……?」
かすれた声が漏れた。
「僕は……帰ってきたじゃないか」
三年間、妻を寂しくさせたことは分かっている。
けれど、もうエレノアを支える必要はなくなった。
だから帰ってきた。
これからは以前のように暮らせる。
そう言ったではないか。
それなのに、なぜ。
「マルグリット!」
リュシアンは手紙を握りしめ、廊下へ飛び出した。
「マルグリット! どこだ!」
寝室の扉を開ける。
誰もいない。
化粧台には、いつも置かれていた櫛も香水瓶もなかった。
衣装箪笥を開く。
そこには、彼女が嫁いできた頃から持っていたドレスが数着残されているだけだった。
本棚には、ところどころ空白ができていた。
小さな宝石箱も、母親の形見だという首飾りもない。
リュシアンは、そこで初めて気づいた。
妻の持ち物が、こんなにも少なくなっていたことに。
いつからだ。
いつから、こんなふうになっていた。
「旦那様」
背後から執事の声がした。
リュシアンは振り返った。
「マルグリットはどこだ!」
「奥様は、先ほどお発ちになりました」
「どこへ!」
「ご実家の方がお迎えにいらっしゃいました」
「なぜ止めなかった!」
執事は静かに頭を下げた。
「奥様から、強くお願いされておりましたので」
「だからといって!」
リュシアンは言葉を詰まらせた。
自分でも、何を言おうとしているのか分からなかった。
妻が出ていった。
離縁状を残して。
つい先ほどまで、あんなに穏やかに話していたというのに。
「……何かの間違いだ」
リュシアンは呟いた。
「きっと、僕が三年間帰らなかったことに腹を立てているんだ。そうだろう? 少し時間を置けば、気持ちも落ち着くはずだ」
執事は答えなかった。
「マルグリットは優しい女性なんだ。僕の事情を理解してくれていた。だから三年間も待っていてくれたんだろう?」
「……旦那様」
「何だ」
「奥様は、確かにお待ちでした」
執事は静かに言った。
「三年間、毎朝、旦那様のお帰りをお待ちでした」
リュシアンは息を呑んだ。
「毎朝、旦那様のお好きな紅茶を淹れておられました。お戻りにならないと分かっている日も、欠かさずに」
「……紅茶?」
「はい」
執事は続けた。
「午前六時半に淹れられ、八時になると、冷めた紅茶を庭に捨てておられました」
リュシアンは何も言えなかった。
「本日も、同じようにご用意されておりました」
執事は一度だけ目を伏せた。
「けれど、旦那様がお着替えに向かわれたあと、奥様はまだ八時にもならないうちに、その紅茶をお捨てになりました」
「……なぜ」
「もう二度と淹れない、と」
リュシアンは、何か言おうとした。
けれど、言葉が出てこなかった。
執事は深く頭を下げた。
「奥様は、長い間お待ちでした」
それだけ言って、静かに廊下を去っていった。
リュシアンは立ち尽くした。
毎朝。
三年間。
自分のために、紅茶を。
そんなこと、考えたこともなかった。
妻が朝、何をしているのか。
どんな顔で食卓についているのか。
自分がいない夜を、どう過ごしているのか。
知ろうとしたことすらなかった。
ふらつく足取りで、ダイニングへ戻った。
テーブルには、二脚のカップが残されていた。
片方には、飲みかけのダージリン。
もう片方は、空だった。
リュシアンは自分の席に座った。
目の前のカップを持ち上げる。
冷たい。
ほんの少し、紅茶の香りが残っていた。
「……マルグリット」
呼んでも、返事はなかった。
彼はカップを置いた。
ふと、十年前の朝を思い出した。
結婚したばかりの頃。
マルグリットは、紅茶を淹れるのがあまり上手ではなかった。
茶葉を入れすぎたり、蒸らしすぎたり。
一度など、ミルクを温めすぎて膜を張らせてしまったこともある。
そのとき彼女は、申し訳なさそうに眉を下げた。
『ごめんなさい。明日は、もっと美味しく淹れますね』
リュシアンは笑って答えた。
『そんなに気にしなくていいよ。君が淹れてくれるなら、何だって美味しいさ』
あのとき、マルグリットは本当に嬉しそうに笑った。
翌朝から、紅茶は少しずつ美味しくなった。
いつの間にか、彼の好みにぴたりと合うようになった。
それが当たり前になっていた。
いつからだろう。
ありがとう、と言わなくなったのは。
いつから、妻の顔も見ずにカップを受け取るようになったのだろう。
リュシアンは立ち上がった。
「……紅茶を」
自分で淹れようと思った。
マルグリットのために。
今さら何の意味があるのか、自分でも分からなかった。
ただ、何かをしなければならない気がした。
厨房へ向かい、棚を開ける。
茶葉の缶が、いくつも並んでいた。
アッサム。
ダージリン。
セイロン。
名前は聞いたことがある。
けれど、どれがどれなのか分からない。
ようやくアッサムと書かれた缶を見つけ、蓋を開けた。
黒い茶葉が詰まっている。
どれくらい入れればいいのだろう。
リュシアンは適当にスプーンですくい、銀のポットへ落とした。
湯を沸かす。
火加減も分からない。
熱い蒸気に指先を引っ込め、ようやくポットに湯を注いだ。
どのくらい待つのだったか。
三分か。
五分か。
マルグリットはいつも、砂時計を使っていた。
あの小さな砂時計を、彼女はどこに置いていたのだろう。
リュシアンは探した。
けれど、見つからなかった。
待ちきれずに、紅茶をカップへ注いだ。
薄い色だった。
もう少し待つべきだったのだろうか。
ミルクを入れようとして、手が止まる。
マルグリットはいつも、ミルクを温めていた。
なぜだろう。
そんなことすら、考えたことがなかった。
彼は冷たいミルクを注いだ。
カップの中で、紅茶の色が濁っていく。
一口飲んだ。
「……まずい」
思わず顔をしかめた。
薄く、ぬるく、香りも乏しい。
かつて、あれほど好きだった紅茶とは、まるで違っていた。
リュシアンはカップを見つめた。
こんなものを、彼女は毎朝、自分のために淹れていたのか。
いや。
違う。
彼女が淹れてくれた紅茶は、いつも美味しかった。
濃く、温かく、香りが深く。
疲れて帰った朝も、眠れなかった夜も、一口飲めばほっとする味だった。
それが、どれほど手間のかかることだったのか。
彼は今、初めて知った。
茶葉の量を量り。
湯の温度を確かめ。
蒸らす時間を守り。
ミルクを温める。
その一つ一つを、マルグリットは十年間、繰り返していた。
自分が美味しいと笑う、ただそれだけのために。
リュシアンはカップを握りしめた。
「……僕は」
何をしていたのだろう。
エレノアが泣けば、駆けつけた。
エレノアが寂しいと言えば、夜を共に過ごした。
彼女が笑顔を取り戻せば、自分のことのように喜んだ。
その間、マルグリットは。
自分の妻は。
誰に寂しいと言えばよかったのだろう。
誰に泣きつけばよかったのだろう。
そのとき、朝の彼女の言葉が蘇った。
『もし私が、毎晩寂しいと泣いていたら……あなたは帰ってきてくださいましたか』
リュシアンは息を止めた。
あのとき、自分は何と答えようとしたのだろう。
おそらく、こう言ったはずだ。
『君なら分かってくれるだろう?』
いつものように。
何度も何度も、そう言ってきた。
マルグリットは、そのたびに頷いた。
彼はその頷きを、許しだと思っていた。
けれど、本当は。
彼女が何かを言おうとしていたことなど、気づきもしなかった。
いや。
気づかないふりをしていたのかもしれない。
妻の寂しさを認めてしまえば、自分がしていることを正しいと信じられなくなる。
だから、見なかった。
彼女が微笑んでいる限り、何も問題はないのだと思い込んでいた。
リュシアンは、ようやく理解し始めた。
自分は、エレノアを見捨てられなかったのではない。
マルグリットなら、見捨てても自分を許してくれると甘えていたのだ。
「……マルグリット」
声が震えた。
リュシアンは紅茶の入ったポットを持ち、ダイニングへ戻った。
妻の席の前に立つ。
そこには、もう誰もいない。
柔らかな栗色の髪も。
穏やかな微笑みも。
自分の顔を見上げる、優しい瞳も。
何もない。
ただ、空になったカップが一つ置かれていた。
リュシアンは、そのカップに紅茶を注いだ。
不格好な音を立てて、薄い琥珀色の液体が白い陶器を満たしていく。
「……マルグリット」
彼は小さく笑おうとした。
けれど、唇が震えるばかりだった。
「僕が……淹れたんだ」
返事はない。
「君のために、初めて……」
自分でも、ひどい紅茶だと思った。
きっと彼女なら、もっと上手に淹れるだろう。
もしかしたら、少し困ったように笑いながら、それでも飲んでくれたかもしれない。
『ありがとうございます、リュシアン』
そう言って。
彼女は、きっと。
そこまで考えて、リュシアンは手を止めた。
本当に、そうだろうか。
マルグリットは、どんな紅茶でも笑って飲んでくれる。
そう思っていること自体が、今までの自分と何も変わらないのではないか。
彼女だって、苦いものは苦いと言いたかったかもしれない。
疲れた日は、紅茶を淹れたくなかったかもしれない。
自分のために、誰かに淹れてほしい朝もあったかもしれない。
それなのに。
彼は、妻がいつでも優しく微笑んでくれることばかりを期待していた。
「……遅かったのか」
小さな声が漏れた。
今さら、何をしているのだろう。
十年間、妻は自分のために紅茶を淹れてくれた。
たった一度でよかったのだ。
そのうちの一度でも、自分が彼女のために淹れていれば。
たった一度でも、妻の寂しさに気づいていれば。
三年前、エレノアの家へ向かう前に、振り返っていれば。
何かが違ったのだろうか。
リュシアンは、妻の椅子に手を置いた。
冷たい木の感触が、掌に伝わった。
もう、彼女はここに座らない。
明日の朝も。
明後日の朝も。
きっと、二度と。
「マルグリット……」
膝から力が抜けた。
椅子の傍らに崩れ落ちる。
手から滑った銀のポットが、テーブルの端にぶつかった。
中身がこぼれ、白いクロスに黒い染みを広げていく。
かつてなら、マルグリットがすぐに気づいただろう。
大丈夫ですか、と声をかけ。
火傷をしていないか確かめ。
新しい紅茶を淹れ直してくれただろう。
けれど、誰も来なかった。
リュシアンは、声を殺して泣いた。
初めて、自分が失ったものの大きさを知った。
妻がいたこと。
待っていてくれたこと。
自分を愛してくれていたこと。
そのすべてが、どれほど得難いものだったのか。
そして、それらが決して、当たり前に与えられるものではなかったことを。
窓の外では、冬の朝日が昇り始めていた。
明るい光が、誰もいない食卓を照らす。
二脚のカップ。
こぼれた紅茶。
白い封筒。
十年間、変わらずそこにあったものは、もう何一つ、以前と同じ意味を持っていなかった。
リュシアンは、妻のカップを見つめた。
そこには、自分が初めて淹れた紅茶がある。
けれど、飲んでくれる人はいない。
彼女はもう、帰ってこない。
それでも、リュシアンはしばらく、そのカップから目を離せなかった。
まるで、待っていれば誰かが扉を開けてくれると信じているかのように。
その頃、マルグリットは実家へ向かう馬車の中にいた。
窓の外には、霜の降りた野原が広がっている。
遠くの木々が朝日に照らされ、銀色に輝いていた。
膝の上には、小さな旅行鞄。
その中には、母の形見の首飾りと、幼い頃から大切にしていた詩集が入っている。
マルグリットは、窓の外を見つめていた。
涙は出なかった。
けれど、胸の奥はひどく痛んだ。
十年間、愛した人だった。
幸せだった日々も、確かにあった。
その思い出まで、消してしまいたいわけではない。
ただ、もう戻ることはできなかった。
馬車が小さく揺れる。
マルグリットは冷えた指先を擦り合わせた。
ふと、温かい紅茶が飲みたくなった。
けれど、今は誰かの好みに合わせたものではなくていい。
濃いアッサムでなくてもいい。
ミルクをたっぷり入れなくてもいい。
自分の好きな茶葉を、自分の好きな濃さで。
そんな当たり前のことを考えたのは、何年ぶりだろう。
マルグリットは、ほんの少しだけ微笑んだ。
実家に着いたら、兄に頼もう。
まずは温かいダージリンを、一杯。
いいえ。
できることなら、自分で淹れたい。
自分の好きな茶葉を選んで。
自分の好きなカップを使って。
誰かが帰ってくる時間を気にすることなく、ゆっくりと味わいたい。
きっと兄は、そんな自分を見て笑うだろう。
『紅茶くらい、使用人に任せればいいだろう』
そう言うかもしれない。
そのときは、こう答えよう。
『私が淹れたいのです』
今度こそ、冷めないうちに飲もう。
誰かを待つためではなく。
誰かに喜んでもらうためでもなく。
ただ、自分のために。
馬車は、朝日に向かって進んでいった。
そしてその日、アルスハイム伯爵邸では、初めて午前八時を過ぎても、庭に紅茶が捨てられることはなかった。
代わりに、ダイニングのテーブルには、冷めた紅茶が一杯残されていた。
妻のために、夫が初めて淹れた紅茶だった。
けれど、その紅茶を飲む人は、もういない。
十年間、変わらず温められてきた銀のティーポットは、冷たい食卓の上で、静かに朝の光を映していた。
そしてリュシアンは、ようやく知った。
誰かを待つ朝が、どれほど長いものなのかを。
けれど、彼が待つ人は、もう帰ってこない。
――了。
◇◇◇
ペテロ第一3章7節
同じように,夫の皆さん,知識に基づいて妻と暮らしてください。女性はより繊細な器ですから,妻を大切にしましょう。妻たちも皆さんと一緒に,命という惜しみない恵みを受けるのです。妻を大切にするなら,祈りが妨げられることはないでしょう。




