夏の日
幼い頃。七月から八月にかけての夏休み。私は毎日欠かさず森に行った。
きっかけは覚えていないが、理由は鮮明に覚えている。
──彼に会いたい。
当時小学一年生の私。彼は中学二年生くらいだったと思う。
優しい笑顔。そしてタレ目で穏やかな雰囲気。何よりも、その時の私からしたらヒーローにしか聞こえない、声変わりをした落ち着いている低めの声。
くだらない話をするのも、虫取りをするところを見てくれるのも、服を褒めてもらうのも、全部「お兄さん」がよかった。
だけど、私が小学三年生になった頃。お兄さんは私と会ってくれなくなった。森に行っても、森に入って「お兄さん」と呼んでも。低くて甘い「どうしたの?」が聞こえなかった。それが堪らなく悲しくて、寂しかった。今思えば私の感情は単純だった。
──そんな私も大学三年生になりました。
あの時からの友達と久しぶりに会った。私は高校卒業後すぐに上京したので、三年ぶりだ。
「久しぶり。元気だった?」
元気少年だった彼も、落ち着いていて、声も低くなっていて、でも少し面影があって。でも大人っぽかった。あんなに声が高かったのに。あんなに小さかったのに。今では身長は抜かされているし、余裕があるところもなんだか負けた気分になるほど、垢抜けていた。
「元気だよ。そっちは?地方の大学行ってるんでしょ?」
少し驚いたように私を見た。その後すぐに嬉しそうに笑って、
「あれ、知ってたんだ。…そう、地方の大学に行ってる。家からも近くて帰りやすいんだよね。」
「そうなんだ…。じゃあ、なんで今日は東京に?」
暗い話をするつもりはなかったのか、少し気まずそうに、
「あー…。従兄弟の兄貴の墓参り。東京に住んでて、そこで起きた事故で死んじゃって。あんまり記憶ないけどさ、優しかったのは覚えてる。」
「…へえ…。…あ、ごめん、嫌なこと聞いたね。」
「全然。気になるよな、そりゃ。」
あの時と同じような砕けた口調に戻ってきていた。久しぶりに会うから、と少し身構えさせてしまったのかもしれない。
「いや…、ごめん。うん。」
どうにかこの雰囲気を変えようと思って、私は彼に
「その…従兄弟のお兄さんってどんな人?」
彼は少し懐かしそうな顔をして考え始めた。
「めちゃくちゃ爽やかで優しい…紳士、かな。」
「完璧じゃん。」
「それな。マジ完璧だった。
顔も結構良かったし。……あ、写真見る?」
「…いいなら…見たい。」
純粋な好奇心だった。
亡くなってしまった人だけど、彼がここまで言うことはあまりないので気になってしまった。
「ほら。イケメンっしょ。」
少し誇らしそうに彼が見せてきた写真に写っていたのは。紛れもなく、
──「お兄さん」だった。
「……え。」
固まる私を見て、少し心配そうに、
「なに、どしたの?」
「ううん、なんでもない。すごい、…カッコいいから。」
「………だろ。」
「なに、その間。」
「なんでもねえよ。」
あの時に戻ったような気がした。
「お兄さん」の写真も含めて。
─
彼が見せてくれた写真。
そこにはお兄さんがいた。だけど、それは彼が三歳ごろの写真。小学一年生の時に会ったはずなのに。実際その年齢だったのは私が三歳のころ?
頭がおかしくなりそうだ。
…幽霊?いやいやいや、初恋の人が幽霊、だなんて。そんなアニメみたいなことが起きるわけがない。………でも、実際に起きている。
─
それから。彼はよく東京に来るようになった。その度にご飯に誘ってくれたり、カラオケに誘ってくれたり。私とも仲良くしてくれた。
そんな彼が今日。
「いきなりごめん。」
いつになく真剣で、その瞳の奥は熱帯びていた。
「俺と付き合って。」
正直、彼のことは全く好きじゃない。
私はお兄さん以外を恋愛対象で見たことがない。…そんなお兄さんは幽霊だった。で、その従兄弟に今告白されてる。
答えは一つだ。
「うん、いいよ。」
今考えてみた。従兄弟ということは、微かにお兄さんの血が彼には流れている。彼と付き合って、結婚して、子供を産めば。彼の遺伝子がほんの僅かに摘出されるのではないか。
──きっと、そうだ。そうに違いない。
涙目で私を抱きしめる彼の背中を私も抱きしめ返した。
お兄さん。あなたにはもう会えないから。
私は、あなたに近い存在で満足するよ。




