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お父さん、負けちゃったの?

 すぐにべつの不安が十七郎(とおしちろう)の脳裏を襲い、おなじ疑問に一二三(ひふみ)もたどり着く。


「お父さん、負けちゃったの?」

「一二三っ」


 父を信じる以上、けっして口にしてはならないことを言ってしまったので、十七郎が反射的に怒鳴ったが、


「だって、そうじゃない……」


 一二三たちの長兄と次兄は先に述べたように大日本帝国海軍の軍人として勤めているが、彼らの父もまた大日本帝国海軍の将校として長く在籍している。


 ――現在は大将の地位にあって、帝国海軍の要である聯合艦隊司令長官の任に就いているのだ。


「お父さんは聯合艦隊でいちばんえらくて、この国を護っているんだよね」

「ああ」

「聯合艦隊司令長官はとっても強いんだよね」


 できた人柄と人望、才覚。

 柔和でありながら不動のカリスマ性を持ち、ついたあだ名が本山幕府。

 その人気と信頼は日露戦争時の日本海海戦でバルチック艦隊を撃破した当時の連合艦隊司令長官――南郷(なんごう)大将とならび、誰もが父を褒めるから一二三にとってそれは喜ばしいことであったし、それに照れながら微笑む父を見るのはどこかくすぐったく、ゆえに国民にとっても帝国海軍聯合艦隊と言えば最強かつ絶対的な存在なのだと認識している。


 ――なのに。


「どうして……」


 どうして父がその帝国海軍聯合艦隊司令長官を務め、国防を背負っているというのに、帝都が突如大火に襲われてしまったのだろう。


「ボクたちの国は、お父さんたち帝国海軍が護ってくれているんだよね」

「そのとおりだ」

「だったら……」


 どうして父は、その責務を果たすことができなかったのだろう。

 一二三は一生懸命何か答えは出ないものかと考えこむ。

 それを制するように、十七郎がやっといつものような乱暴なしぐさで一二三の髪をぐちゃぐちゃに撫でまわしてくる。


「それはおまえが考えることじゃない。親父や兄貴たちがどうにかする仕事だ」

「でもっ」

「おまえには、大和(やまと)のおしめをかえるくらいの仕事がちょうどいい」

「でも……」


 ――大和、とは。


 いまも母屋の奥で怯えた声で泣き叫んでいる、まだ生後二か月とすこしの一二三たち兄弟の五男であり、末弟の名だ。


 ――そして。


 その名は父不在時の名代として一二三が考えに考え抜いて命名した、この世でもっとも愛しくたいせつな名前でもある。


「ほら、まだ大和が怖がっている。おまえが行って、だいじょうぶだって落ち着かせてやれ。おまえがそばにいてくれたら母さんも安心だろうし」

「でも……」


 母屋に戻るということは、すなわち安全な場所に行くということだ。

 いまも大火のなかでは、多くの帝都民たちが恐怖と混乱のなかを逃げ惑っている。

 なのに、自分だけが安全な屋根の下、母がいて弟がいて、眠たくなったらそのまま寝てしまえる、そんなところに戻ってもいいものかと幼いなりに気まずいものを感じてしまうが、


「悪い言いかたをすれば、あの集中攻撃からみても今夜襲われたのは帝都だけだろう。火の勢いは尋常じゃないが、だからといって郊外のここまで火の粉は届かない」


 夜という暗さもあって大火はかなり鮮明に見えるが、荒川、江戸川を越えてまで飛び火するようなことはまずないだろう。

 それを確かめるように、あるいは大きな橋を渡り、あるいは泳いでこちらの郊外地域に避難してきている人々を救護しようと、伯父や周辺の男たちが必死に走りまわっている声が聞こえる。

 十七郎にそう言われるも、不安な思考に踏ん切りがつかない一二三はしがみつく手を離せずにいたが、ぽん、と十七郎に背中を叩かれる。


「そら、お兄ちゃんがいるからだいじょうぶだって言って、大和を安心させてやれ。おまえがいま気にかけるのはこの国のことじゃない。弟の大和だろうが」

「……」

「名付け親っていうのは、身を呈してその子を護るもんだ。だから俺たちに名前を付けてくれた父さんはいまも俺たちを護ろうと、必死に戦っているはずだ。それはわかるな」

「――うん」


 いままでは、三人の兄にかわいがられるのは末っ子という立場の一二三だけの特権だった。

 けれども母の胎にあらたな命が宿った瞬間、その特権はつぎに生まれてくる子どもに譲渡し、かわりに一二三は兄という立場を得ることになった。

 その自覚を強く促された一二三は背筋を伸ばして返事をすると、これまで十七郎にすがりついていた弟の顔からまだ赤子の弟を護る兄の顔へとあらため、母屋に駆け戻っていく。

 蚊帳から十七郎を探してそのまま裸足で庭先に出たので、足を拭け、と十七郎の声を背中に受けたが、これはすでに耳に届かなかった。

 幼い影はひょいと母屋のなかへ消えていく。

 十七郎はそれを見て深いため息をつき、


「明日、足跡がじいちゃんに見つかって叱られたって、俺は拭くのを手伝わないからな!」


 言って、帝都の方向に視線を戻す。

 先ほどまでひどく不気味な振動をひびかせていた音は、かなり遠ざかったように思える。

 それらがいまどの地域の上空を飛んでいるのか。


 ――あるいは帝国海軍、陸軍の応戦によって撃墜したのか。


 それは定かではないが、このようすならば今夜はもうこれ以上の空爆を受けることはないだろう。

 そう思うことにした。


 ――いや、そうでなければならない。


 反面、帝都を焼く大火の濃さはいっそう激しさを増している。あのような炎の勢いがこの世に存在するとは……。


「ああなったら最後、燃えるものがなくなるまで消えはしないんだろうな……」


 十七郎は浴衣の襟元に手を滑らせて、蚊に刺されたと思われる痒い胸元を掻く。


 ――掻いて、やっといまが夏の夜だということを思い出した。

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