真夏の夜の帝都大空襲
「十七郎兄さん……」
一二三が寝ていた蚊帳の部屋は左右の襖つながりの畳部屋だった。
寝転がっているのならそちらにいるのだろうと見やるが兄の姿はなく、だったらどこにいるのだろうと気焦りし、彼がいるかもしれない厠のほうに足を向けて歩いたが、
「……?」
いくつか年の離れた、やんちゃだが頼りがいのある兄とよく似た人影が縁側すぐの庭先にあるのが目につく。
「……」
その庭先で浴衣姿の少年の姿が目にはいり、それが自分の探していた三番目の兄のものだと確認すると、一二三はひょいと縁側を飛び降りてそばに駆け寄る。
「――兄さんっ」
一二三は声をかけると同時に兄が見つかったことが嬉しくて抱きついたが、頭上にある兄の顔はこちらを向いてくれない。
かわりに兄――十七郎は遠くの奇妙に明るい夜空を見やりながら「ああ」と小さく返答し、一二三の頭に軽く手を乗せ、そのまま自分の身体に押しつけるように力をこめてくる。
いつもであれば、すぐにからかうしぐさで一二三の髪をぐちゃぐちゃに撫でまわしてくるというのに、そんな普段はやんちゃの十七郎の手でさえ震えている。
それがじかに伝わる。
――そして。
あの奇妙な色をした夜空を見ている顔が何よりもこわばっていて、一二三はそのような十七郎を見たことがないだけにまた不安に駆られてしまう。
それによく見ると、おなじ家に住まう伯父夫婦や従姉たち、祖父母までが部屋から顔を出し、あるいは庭先に立って十七郎が見るおなじ方向を見やっている。
伯父の名を険しい声で叫び、近所の男たちが走りながらやってくる。
伯父も血相を変えて、浴衣姿のまま家を飛び出していく。
彼らだけではない。
家の外でも近所に住まう大人たちが夜の庭や道に出て何事かと騒いでいるようすが、通りに面した豪農であるこの家の高い壁越しからでも伝わってくる。
大人たちがこんなにも慌ただしいとは。
ただごとではないことが起きている証拠だ。
――いったい、何があったというのだろう?
「どうしたの……?」
――変、だ。
――何かが、変、だ。
――何かがおかしい。
それは子どもの一二三でも察することのできる、尋常ではない異変だった。
けれども一二三にはその正体が判然できない。
そんな不安に耐えきれず訊ねると、十七郎が答えるより先に背後の母屋の奥から生まれてまだ二か月ばかりの末弟がいつもの夜泣きとはちがう、心底怯えたような声で泣きだすのが聞こえて、一二三はそれにびくりと身体を震わせてしまう。
一二三の身震いにつられて、十七郎もびくりと身体を揺らし、
「……ありゃあ、ただの大火事じゃないな。――空襲だ」
「くう、しゅう?」
「空から、ぐぉおおん、ってエンジンのひびく音が聞こえるだろ? あれは飛行戦闘機の音だ。それも一機や二機じゃない。相当数いるぞ」
聞きなれない言葉に一二三が小首をかしげると、十七郎がここでやっと抱きついている一二三の姿を目に入れてくる。
そして、いつもの調子をとり戻そうとしながら失敗し、口端をゆがませながら、
「世の中っていうのは大変便利になってな、戦艦や戦車の大砲以外にも空飛ぶ戦闘機で爆弾を落としたり機銃で撃って、その下にあるもの……たとえば町だとか建物を容易に破壊できるようになったんだ」
「建物って、家のこと?」
「ああ」
「家って頑丈なんだよ? なのに、壊れちゃうの?」
「おお、簡単にな」
「爆弾ってそんなにすごいの?」
「おお、当たれば何だって吹き飛ぶさ」
見知ったように言うものの、十七郎も実際は目にしたことがない。
それは新聞の記事や写真、報道映画で得た知識にすぎない。
だが、
「あの奇妙な赤い色をした空は、町や建物が多く燃えている火事の証だ。それはまちがいない」
――しかもあの方向は……。
悟って口にするのも恐ろしい。
「まあ、帝国海軍にも陸軍にも飛行部隊はあるけど、列強国に比べればてんで練度が低いって聞くからな。甲斐性なしと飛行機乗りにだけは娘はやらん、ってことも言われているし。大方、夜間訓練で部隊ごと墜落したか、晩酌に酔った勢いで飛んで、うっかり一発撃って炎上した……なら、まだ笑い話ですむんだけど」
実際だとしたら笑い話ではすまされないが、海軍陸軍いずれも保有する機体性能の面、飛行部隊の練度の低さに対する揶揄は現時点ではさほど大げさではない。
そんなふうに軽口を言いながら、十七郎はどうにかして経験のないこの現実から目を逸らそうとしていたが、それは無理な話だった。
「あっちの方向って、たしか……」
一二三はまだ幼いが聡く、何となく方向が分かれば地名やおおよその距離感はつかめる。
弟が指を伸ばして問うてくる以上、これは十七郎だけが見ている悪夢ではないと覚悟を決めたのか、一二三が伸ばす指をやんわり折り曲げるようにして十七郎が自身の手で弟の手を包み、
「そうだ。――帝都、だ」
と、答える。
「方向からいって、あの大火事は帝都からあがっているのはまちがいないだろう」
「帝都って、ボクたちの家があるところだよね」
「ああ」
「じゃあ、ボクたちの家も燃えているの?」
「大火の地域と規模にもよるだろうけど、だとしたら盛大に燃えているだろうな」
「……」
――自分の家が燃えている。
それを言葉で理解することはできたが、幸い、実際の火事現場を目撃、あるいは居合わせたことがないので、一二三には炎による家屋消失の実感はうまく得られない。




