5話前半 被害者の会
翌朝目を覚ますと、酷い頭痛に見舞われた。
その日は久しぶりに夢を見なかったけれど、特段嬉しいとも感じなかった。理解不能な夢などよりも現実の嫌な思い出の方が、よほど史郎を苦しめていたのだ。
ソファーから起き上がってトイレに行き、ついでに洗顔を済ませる。戻り掛けに電気ケトルのスイッチを入れた。
ぼんやりとスマートフォンでSNSを眺めていると、寝室との間を隔てる引き戸が開いた。
「……おはようございます」
弥奈子だ。
彼女が既にきちんと制服を身に着けているのを見て、史郎はなぜか安堵した。
「おはよう。トースト食べる?」
「いえ、いらないです」
史郎は二人分のコーヒーを淹れ、ローテーブルに並べた。
「今日なんだけど」
史郎が話し掛けると、弥奈子はきちんと膝を揃えてこちらを向いた。
「被害者の会ってのに行ってみようと思って」
「被害者の会?」
「うん、『とある寺院の呪いに関する被害者の会』。具体的な名前は出されてないんだけど、地名と悪夢と呪いというキーワードで検索したら出てきたんだ。恵山寺のことで間違いないと思う」
会と名は付いているものの、主催者の他にメンバーがいる様子はない。ごく最近になって個人が立ち上げた団体のようだ。この数日、SNSに繰り返し投稿がなされていて、被害に遭った同士を求めていた。
「今連絡を取ってるんだ。返事が来たら、話を聞きに行ってみようと思う」
「それ、私も一緒に行っていいですか?」
「いいけど……学校は?」
「休みます」
弥奈子はあっさりと答えた。
「学校より、命が懸かっている話の方が大事ですよね?」
「まあ……そうかもしれないけど……」
返信はすぐに来た。午後一時に同じ県内にあるという『被害者の会』の拠点を訪ねることになった。
喫茶店で早めの昼食を済ませ、電車に乗って一時間半。駅前は商業施設で賑わっていたが、少し離れれば郊外らしい住宅街の景色が広がっている。
史郎は地図アプリに住所を入力し、弥奈子を連れて目的地へと向かった。
『とある寺院の呪いに関する被害者の会』――名前は仰々しいが、訪れた場所はありふれた一軒家だった。表札の名前を確認し、躊躇いながらもインターホンを押す。
「ごめんください。今朝ご連絡させていただいた、安宅史郎と申します」
応答があって間もなく、中年の女性が玄関に現れた。松坂と名乗ったその女性は、ふくよかで感じのいい婦人だったが、酷く草臥れた様子であり、同時に警戒心を露わにしていた。ジロジロと不躾に史郎を眺め、それから弥奈子に目を留める。困惑が顔に浮かんだ。
「あの……そちらは?」
「あ、彼女も被害者で。弥奈子さんといいます。彼女ともSNSで知り合いました」
変に勘繰られたくないあまり、聞かれてもいない嘘を並べてしまう。松坂は大人しく会釈をする弥奈子をじっと見つめていたが、不意に悲しそうに表情を歪めた。
「どうぞ。お入りください」
松坂が身を引いて二人を招き入れる。リビングへ通された。年季の入ったリビングには、テレビとダイニングテーブルが置かれていた。そこに二人を座らせて、松坂が麦茶を出してくれる。
「こんなものでなんですが」
「恐れ入ります」
史郎はちらりと室内に視線を走らせた。松坂は手芸が趣味なのか、室内には手編みらしき敷布や小物が散見された。隅の棚には家族の写真がいくらかと固定電話、埃を被ったドライフラワーの花籠が置かれている。
「ええと……」
史郎は言葉を探しながら切り出した。
「松坂さんは『被害者の会』を立ち上げてらっしゃるのですよね。呪いというのは、恵山寺の胎内廻りに関すること……で間違いないでしょうか?」
「ええ」
松坂は深く頷いた。
「安宅さんも胎内廻りに行かれたんですよね」
「はい」
「それで呪われてしまったと」
「そうです」
「失礼ですけど、今どんなご様子だか伺ってもいいかしら?」
そう訊かれて史郎は、自分たちが好奇心で訪れたのかと疑われていることに気が付いた。ならばなるべく詳しく説明して、自分たちも被害者であると信じてもらわなければならない。
「実は――」
史郎はいくらかの嘘を交えながら、事細かに事情を説明した。ただし、八塚に聞いたボウという怪異についての話は疑わしいので言及しなかった。
「最近では特に頭痛が酷くって。眉間の少し上にずっと違和感があるんです」
松坂は説明の間中、探るような目で史郎を凝視していたが、最後まで聞き終えると視線を手元に落とした。
「お話はわかりました。うちの娘と同じですね」
「娘さん?」
「ええ。先月のことですが、うちの娘も恵山寺の胎内廻りに行ったそうで。それ以来、様子がおかしくなってしまったんです」
史郎は寄り添うように頷いた。
「なるほど。それで被害者の会を立ち上げられたんですね……」
「そうなんです」
松坂の娘、由紀は恋人と恵山寺を訪れたらしい。そこで胎内廻りを体験し、後の経過は史郎たちとほぼ同じ。ただし、症状は随分と悪化して、今では部屋から出て来られない状態になっているという。
「ということは、由紀さんの恋人も?」
史郎が気になって訊ねると、松坂はキッと目を剥いた。
「いいえ。被害に遭ったのは由紀だけです」
「え?」
まさか、胎内廻りをしても呪いに掛からなかった者がいるのか。と思ったけれど、そういうわけではなかった。
「一緒に行ったのに、胎内廻りをしたのは由紀だけだったんですよ。彼氏の方はやらなかったそうで」
「ああ、なるほど」
「……私は、その男が許せないんですよ」
握り合わせた両手に力を込め、松坂が唸る。
「娘を得体の知れないところに連れて行って、自分だけ無事で戻って来て。しかも、娘がああなってからは一度も顔を出していないんです。薄情だと思いませんか」
松坂の目には憎悪に近い感情が燃えている。これは深く掘り下げない方がいいと史郎は思ったが、不自然に話題を逸らすこともできなかった。
史郎が返事に困っていると、松坂は勝手に先を続けた。
「だから、あんなチャラチャラした男はやめておけと言ったんです。出会い系……じゃなくて、今はマッチングアプリって呼ぶんでしたっけ? そんなものをやる男にろくな人間はいませんね」
「はあ。そうですね」
「もし次あの男に会うことがあったら、絶対にキツく言ってやらないと。だって、あんまりです……。どうして娘だけが……」
松坂の目に涙が浮かぶ。今度こそ史郎は慌てて話題を変えた。
「それで、この呪いについて何か情報は得られましたか?」
松坂は悲しげに首を振った。
「さっぱりです。ネットで呼び掛けても、冷やかしの連絡ばかりで。直接恵山寺にも行ってみましたが、あそこの住職はまったく話になりません」
恵山寺の住職の対応については、史郎も容易に想像がついた。大方、自分たちと同じ反応をされたのだろう。気味の悪さが蘇り、史郎は密かに身を震わせた。
松坂はすっかり悲嘆に暮れている。顔を上げた瞬間に弥奈子と目が合って、松坂は心底憐れむ声を出した。
「可哀想にねぇ。あなたもまだ、こんなに若いのに……」
弥奈子は何か答える代わりに目を伏せた。
「解決になるかはわかりませんが、その……俺たちは霊能力者に相談してみたんです」
話がひと段落した頃合いを見計らって、史郎は切り出した。松坂は興味を引かれたらしく、重たい瞼を持ち上げた。
「霊能力者って……どうせインチキなんでしょう?」
「さあ。それはまだわからないんですが。お守りだけもらいました。効果は――」
史郎が意見を求めて弥奈子を見ると、彼女は小さく頷いた。
「そういえば、昨日は夢を見ませんでした」
「俺もだ。ってことは、あのお守りのおかげか?」
弥奈子がお守りを取り出し、松坂に手渡す。彼女は猜疑と希望の入り混じった目で観察しながら、それを掌で転がした。
「娘が助かるなら何だって縋りたいですけど、本当に効果があるんですかねぇ……? 神社で売っているような普通のお守りにしか見えませんけど」
「俺たちも昨日もらったばかりなので、判断はこれからかなと思います。ただ、その霊能力者の人が、有償でお祓いもしてくれると言っていました」
松坂が片眉を上げる。
「お祓い? できるんですか?」
「俺たちも受けていないので、効果のほどはわかりません。なにしろ、二百万だと言われてしまって」
「二百万……!」
松坂は絶句した。泳いだ視線は、娘の命と金額を天秤に掛けているのだろう。机の上に置いた手を落ち着きなく組み替える。
「それは……なかなか……」
「高価ですよね」
松坂は咳払いをし、姿勢を正して史郎を見た。
「受けるつもりはあるのかしら?」
「お守りの効果次第でしょうか……。確実に効果があると実感できたら、お願いすることも検討したいと思っています。命には代えられないので」
「そうよねぇ……」
松坂は深く頷くと立ち上がった。棚のところへ行き、固定電話の脇に挿してあったファイルを取り上げる。その中に挟まれていた一枚を史郎に差し出した。
「これなんだけど」
三つ折りになっている縦長のパンフレットだ。表には緑に囲まれた何かの施設のイラストが鳥観図で描かれ、「今、悩み苦しんでいる方へ」とタイトルが振られている。裏面には「亞慈那導会」という名称と、住所と地図が載っていた。
中を開く。
まず、中央に描かれた観音像のようなものが目に入った。後光が差しており、ふくよかな体にゆったりとした異国風の衣装を纏っている。四本の手はそれぞれ印を結んだり、網や水晶玉を持ったりしている。いかにも神々しい様子だが、中でも目を引くのは額の紋様。眉間の少し上の辺りに、白毫ではなく縦に割れた目が描かれていた。周囲には細かく説明が記されており、軽く一読した限りでは、「亞慈那様」と呼ばれる神について語っているようだった。
「なんです、これ。宗教……?」
思わず史郎が眉を顰めると、松坂も困ったように頬に手を当てた。
「ええ、まあ。亞慈那導会っていうんですけどね」
松坂は席に戻り、手を握り合わせた。無意識に手を動かしてしまうのが彼女の癖らしいことは、そろそろ史郎も気が付いていた。
「そこに行けば、娘を助けてくれるって言うんです。教祖様がすごい神通力をお持ちでね。それにあの……そこは無料でいいって言うから」
彼女は目を伏せ、言い訳をするように付け加えた。史郎は反応に困り、黙ってパンフレットに目を落した。
新興宗教への不信感は拭えない。もともと宗教というものに好感を持っていないだけでなく、自分たちは恵山寺に詣でたせいで酷い目に遭っているのだ。こうしてまた得体の知れない新興宗教のカモにされ、金だの健康だのを奪われては敵わない。
そう思うと同時に、松坂が藁にも縋る思いだということは痛いほど理解できた。現に史郎自身も、胡散臭いことこの上ない自称霊能力者に大金を支払っているのだから。
「無料なら、試してみる価値はありますよね」
史郎は慰めるように微笑んでみせた。松坂は自分に言い聞かせるように頷いた。
「そうなんです。本当に」
彼女はもう一度弥奈子に目をやると、意を決したように口を開いた。
「あの、よかったら娘に会っていきませんか。娘はあなた方より呪いが進行してしまっているので……」
言いかけた言葉は萎んでしまう。けれど、史郎には彼女の言いたいことが伝わった。由紀の状態を見て、覚悟を決めろと言いたいのだろう。このままでは自分たちもこうなってしまうぞ、と。
史郎は恐々と頷いた。
三人で席を立ち、案内されて二階へ上がる。松坂は突き当りの部屋をノックした。
「由紀、入るわよ」
くぐもった声が中から聞こえた。
部屋を覗き込んだ瞬間に呻き声を漏らしそうになり、史郎は咄嗟に込み上げたものを飲み込んだ。
ベージュで統一された部屋の中で、ベッドの上に女性が横たわっている。二十代も後半だろう。化粧はしておらず、部屋着姿で、倒れ込んだ直後のように手足を投げ出している。目は覚ましているのだが、苦しげな声を上げ続けており、乱れた髪が枕の上に広がっていた。
もう何日もこの状態であるに違いない。冷房を点けているために換気が不十分で、部屋全体に汚物とも吐瀉物ともつかない饐えた臭いが籠っている。ベッドの足元には成人用おむつが積み上げられており、口を縛った黒いゴミ袋がゴミ箱に詰められていた。
彼女の全身を注視して、史郎の視線は一点に止まる。汗で貼り付いた髪の間、眉間の少し上に、奇妙な傷ができていた。
「由紀。お客様がいらしたわよ」
松坂がベッドの縁に腰を下ろして呼び掛ける。
由紀が目を開けた。二つの瞳が史郎の姿を捉えると同時に、額の中央で第三の目が開く。
「え……っ」
今度こそ声が出た。松坂が咎めるように振り返るが、由紀自身が気にする様子はない。彼女は酸素を求めて喘ぎながら、史郎に向かって上体を起こそうとした。
ぱっかりと縦に割れた額には、確かに目玉が埋め込まれている。第三の目は二つの目とは別に動いていた。ギョロギョロと周囲を見回し、史郎に焦点を定める。かと思えば、再び瞳孔は蠅のように目の中を飛び回った。
「あー……」
由紀が手を伸ばす。涎が筋を引いている。隈が酷く、頬は痩せこけていた。
「あ、ああー……え……て」
「え? なんですか?」
松坂が促すようにこちらを見ている。史郎は彼女に近づくことに本能的な恐怖を覚えずにはいられなかったが、意を決してベッドの脇に身を屈めた。
「……すけ、て……う……たす、け」
たすけて。
由紀は「助けて」という言葉を繰り返している。
そのことに気付くと、史郎は苦しさで胸がいっぱいになった。助けてやりたいが、自分たちには何もできないという無力感。同時に、やがては自分たちも彼女と同じ運命を辿るのだという恐怖心。
「た、すけて……」
由紀はうわ言のように繰り返している。
「た……すけ、て……」
袖が引かれた。弥奈子が史郎の袖を掴んでいる。彼女もまた由紀の状態に驚愕し、浅い呼吸を繰り返していた。史郎は無理矢理自分の意識を由紀から剥がし、松坂に向き直った。
「松阪さん……あの、目は」
松坂は声を震わせる。
「昨日開きました。呪いが悪化してから、段々と額が割れていって」
「そんな」
由紀は自分たちの末路だ。
史郎は八塚に聞いた話を思い出していた。
『バケモノになっちゃうんですよ。安宅さん自身が』
八塚の言葉が蘇る。
呪いによって第三の目が開き、その先に待ち受けるものは変容だ。人ではないモノに成り下がってしまうという。
胎内廻りの後に自身に起きた異変について、それなりの危機感は覚えつつも、本心ではやはり楽観視していたのだろう。改めて現実を突きつけられて、史郎は絶望の淵に堕とされる。全身の毛穴から汗が吹き出し、視界が揺れた。
「彼女はもう、ボウになっているんでしょうか。それとも、開眼してからもまだ猶予があるんでしょうか」
弥奈子が囁く。松坂が彼女に向かって首を傾げた。
「ボウ?」
「ああ、いえ――」
史郎が急いで割って入ろうとすると、玄関でインターホンが鳴った。松坂がハッと顔を上げる。
「あらっ。早いわね。いらしたわ」
声は不自然に上ずっていた。
松坂は二人を残して、急いで部屋を出て行ってしまった。
いつの間にか由紀の片足がベッドから滑り落ち、右手の指先がもう少しで史郎に触れそうになっていた。指先には血が滲んでいる。無惨に抉れた爪。よくよく見れば、シーツには血が擦れた後がある。繊維に引っ掛かっている小さな白い欠片も。つまり、由紀はシーツを掻き毟っていたのだろう。爪が剥がれてしまうまで。
階下の声が聞こえてくる。何人かが松坂と挨拶を交わし、階段を上ってきた。
「すみませんが。お二人とも、一度部屋から出ていただけるかしら?」
松坂が言う。史郎と弥奈子は素直に従って廊下に出た。入れ替わりに入って来たのは、揃いのポロシャツに身を包んだ男女三人。彼らは会釈をして史郎たちの前を通り過ぎた。
「由紀さーん、こんにちは。石井と申します」
「小山です」
「高崎です」
「これからお車の方へお連れしますからねぇ」
三人はそう由紀に挨拶するなり、互いに声を掛け合いながら彼女を抱き上げた。由紀は若干の抵抗を見せたが、そのまま廊下を運ばれていく。松坂も後に続いた。
呆気に取られて見ていた史郎は、彼らが着るポロシャツの胸に書かれた文字に気が付いた。
「亞慈那導会……」
先程見せてもらったパンフレットの団体だ。
しばらくして、松坂が戻ってきた。軽く息を切らせている。
「ごめんなさいね。お迎えは三時頃って話だったんだけど」
「こちらこそすみません。そんなお忙しい日に」
史郎が頭を下げると、松坂はいえいえと手を振った。
「あえて今日来ていただいたんですよ。あそこに連れて行ってもらう前に、お二人を由紀に会わせた方がいいと思って」
「そうだったんですね。お気遣いありがとうございます」
「それじゃ、重ねて申し訳ないんですけど、私も一緒に行かなければならないので……」
史郎は彼女の言おうとしていることを察した。
「すみません、お暇します」
三人は一階へ下り、玄関を出た。表には白いバンが停まっており、エンジンを吹かせて松坂が乗り込むのを待っていた。
図らずも見送りするかたちになったので、史郎と弥奈子は脇に退いた。松坂が玄関の鍵を閉め、二人に目礼して車に乗り込んでいく。娘の荷物なのか、松坂は大きなボストンバッグを抱えていた。
「あ、そうだ」
後部座席の窓から松坂が顔を出す。
「これ、よかったら」
差し出されたのは亞慈那導会のパンフレット。いざとなったら頼れということなのだろう。史郎は進み出て受け取った。
白い車体が遠ざかって行く。その後ろ姿を見送りながら、史郎は溜息を抑えられなかった。
「あれ見ちゃうと、さすがに気が滅入るよなぁ」
史郎は気遣うように弥奈子を見る。彼女はいつも通りの無表情だったが、史郎に寄り添う距離は近かった。
「大丈夫か」
「……はい」
弥奈子が史郎のシャツを掴む。史郎はまたひとつ溜息を吐き、あえて彼女を振り解くことはしなかった。




