4話後半 ふたりの事情
小走りで住宅街を通り抜ける。弥奈子の家の前を通った。玄関扉は閉ざされて、二階の部屋の電気は消えたままだった。
開けっ放しの民家の窓から、テレビの音が漏れ聞こえてきた。部活帰りの中学生が向こうの道に消えていく。
間もなく、前方に見覚えのある影が見えた。
「弥奈子ちゃん!」
彼女が振り向いた。
「……史郎さん?」
相変わらず表情はない。だが、暗い瞳だ。初めて会った時からずっと彼女に付き纏っている影が、西日の中で一層色濃くなっていた。
「どうしたんですか? 忘れ物でも?」
「いや、まあ――」
考えなしに追い掛けてしまったので、どう説明したものかと悩んでしまう。視線を泳がせる史郎に、弥奈子は薄い笑みを向けていた。
「おいで」
史郎は弥奈子と目を合わせると、近くの道の角を曲がった。弥奈子は大人しく付いてきた。
弥奈子の家の前を通らないよう迂回して駅の方角へ向かいながら、途中にあったハンバーガーチェーン店に目を付ける。
「あそこでいいかな」
弥奈子は何も言わなかった。
店に入る。レジで適当なセットを注文すると、ドリンクと番号札を渡された。持ち帰り客はひっきりなしに訪れるが、イートイン席には他に一組しかいなかった。
「空いててよかった」
史郎は一番奥の席に着き、見える位置に番号札を置いた。向かいに弥奈子が座る。
「勝手に注文しちゃったけど、いい?」
「はい。ありがとうございます」
自分はジンジャーエールを、弥奈子にはアイスティーを渡す。彼女はストローを挿しもせずに、両手を膝の上で揃えて動かなかった。
「……どうして戻って来てくれたんですか」
史郎はテーブルに視線を落したまま、ストローの包み紙を弄ぶ。弥奈子は言った。
「聞こえたんですね」
「……うん」
二人とも次の言葉が続かない。
しばらくして、店員がハンバーガーとポテトを運んできた。店員が十分離れたのを確認し、史郎がようやく口を開く。
「ネグレクトって言ってたっけね」
「はい」
「お母さんと仲悪いんだ?」
「そうですね」
弥奈子は史郎を見据えながら、同時にどこか遠くを見ているようだった。
「母は私が嫌いなんです。理由はたぶん、私が嫌な子だから」
弥奈子は嫌な子。
彼女は呪文のようにその言葉を繰り返す。
「両親は私が小学五年生の頃に離婚しました。理由は教えてもらっていないけど、たぶん父の不倫です。母はそれが原因で精神的に不安定になってしまって、度々癇癪を起すようになりました」
史郎は沈黙によって続きを促した。
「私、その頃から上手く笑えなくって。笑えない私のことを見て、母は私が嫌いになっていきました。不愛想な子。可愛くないって。いつも偉そうな顔をしているって」
母は娘の面倒を見ることを放棄した。彼女は夜の仕事を始め、昼間家にいる時はほとんどテレビの前で寝ているようになった。
学校から帰ると、弥奈子はまず洗濯機を回す。一通りの家事を終えると、母のために料理をする。毎日必ず明日の昼までの分を作り置きするけれど、ほとんど手を付けられずに捨てられることが多いそうだ。
「家計はなんとかなっているので、おそらく父が養育費を振り込んでくれているんだと思います。だから、生活に不自由はありません」
でも、と弥奈子は視線を落とす。
「できるだけ、家にはいたくなかった」
昨年、高校に進学した。もともと勉強はできる方だったが、母親の様子から大学への進学は望めなかったので、公立の実業高校を選んだという。
そして、高校一年生の秋。
弥奈子は恋を知った。
「相手は同じ高校の卒業生でした。先輩は……とても、優しくて。初めて人を好きになりました。初めて、この人の隣でなら笑えると、そう思ったんです」
三つ歳の離れた恋人は、同じ市内にひとり暮らしをしていた。すぐに弥奈子は恋人の家に入り浸るようになった。
はじめこそ弥奈子の母は嫌味を言ったが、弥奈子は無視をし続けた。恋人という支えを得た彼女には、母親のヒステリックな叫びも以前ほどは痛くなかったのだ。
幸せだった。
満たされていた。
愛し、愛されているという感覚は、弥奈子に笑顔を取り戻させた。
しかし。
彼女はある日、自身の体の異変に気付く。
「生理が来ないなぁ……って。もともと不順気味でしたけど、まったく来ないのはおかしいなぁって。避妊、してなかったから。もしかしてって思ったんです」
市販の妊娠検査薬を買って、結果を持って恋人を深夜のファミレスに呼び出した。弥奈子はその時の彼の顔がいつまでも忘れられないという。
「喜んでくれると、思ったんだけどなぁ……」
間もなく、恋人と連絡がつかなくなった。アパートを訪ねると、そこは空き室になっていた。
捨てられたのだ。
弥奈子は再び笑顔を失った。
「子供は……?」
「おろしましたよ」
史郎の問いに、弥奈子は表情筋を動かしただけの笑みを浮かべた。
「母に相談したんです。母に相談なんて、中学校の部活をどうするか以来でした。案の定、ものすごく怒鳴られて、叩かれて、嗤われて。私は母の奴隷に逆戻りです」
「ひょっとして、俺が君に初めて会ったあの日って――」
「察しがいいんですね、史郎さん。そうなんです。あれは中絶手術を受けた帰りでした」
結露した紙コップが水溜まりを作る。いつもなら食欲をそそるはずのポテトの油の匂いが、今ばかりは胸をむかつかせた。
史郎はどんな顔をしていいかわからず、ただただ弥奈子の視線を受け止めていた。暗い視線。それは若くして絶望を知った者の瞳だった。
「だからね、お金を貯めてるんです」
弥奈子は声だけを上ずらせて言う。
「援助交際。結構お金、もらえますよ。このまま順調にお金が貯まれば、母から離れてこの街を出て行くことができるようになります」
「……自立、したいんだ?」
「はい。この街には嫌な思い出しかありませんから」
ふと、弥奈子は眉を顰める。再び顔を上げた彼女は、泣き笑いのような表情を浮かべていた。
「でも、本当は違ったかもって、今更になって気が付きました。本当はお金が目的なんじゃなくて、男の人と体を重ねて、相手を試そうとしていたのかも。また妊娠してしまった時に、『よかったね』『今まで辛かったね』『おめでとう』って言って、一緒に苦しんでくれる人を探していたのかもしれません」
史郎は掛ける言葉を失っていた。口を開くも、言うべき言葉は見つからなかった。弥奈子はそんな史郎を見てくすりと笑うと、ようやくアイスティーにストローを挿した。
「胎内廻りもね、同じ理由です」
「え?」
「たまたまネットで噂を見かけたんです。『恵山寺の胎内廻りに行くと呪われる』って話。それを知った時、私は思いました。『そうだ、誰かと一緒に呪われよう』って」
「なんで、そんな」
「きっとね、一緒に不幸になってくれる人を探していたんです。そのことに気が付いた時、史郎さんのことを思い出した。傘、嬉しかったなぁ……。こんなに優しい人がいるんだって、感動しちゃった」
弥奈子は史郎を見つめた。
浮かべたのは、正真正銘の心からの笑み。
「私ね。あなたみたいな人とだったら、不幸になってもいいって思ったの」
長い睫毛に涙が溜まり、赤黒い痣の上を滑り落ちる。それは机の上に水溜まりを作り、大きく大きく広がった。
史郎はただ項垂れた。
胸を締め付けるこの感情は、悲しみだろうか。同情だろうか。
無難で安全な人生を送るために第一に守るべきことは、ずばり、厄介者には関わらないことだ。
遥か遠い昔、自分はそう誓ったはずなのに。
高校生の頃に胸に刻んだ教訓が、今になって鮮烈に思い起こされる。
高校二年生に進級した時、史郎は新しいクラスの中で、ある男子生徒が一部の生徒たちに避けられていることに気が付いたのだ。彼を避けているのはおそらく一年次に同じクラスだった生徒たちで、彼らの間で過去に何かがあったのは明白だった。
その男子生徒は誰彼構わず声を掛けてくるタイプの少年だった。史郎も当然声を掛けられた。当時の史郎は派手でも地味でもない有象無象のひとりだったので、声を掛けるのに心理的なハードルは何もなかっただろう。
「安宅って言うん? 弁当一緒に食べよーや」
砕けた言葉で喋るその少年は、馴れ馴れしく史郎の隣に腰を下ろした。特に断る理由もなかったので受け入れたが、すぐにそれが失敗だったと思い知る。
頻繁に物が消えるようになったのだ。
シャーペンや消しゴムだけではない。購買で買ってきたプリンが消える。友達に貸すために持ってきた漫画がごっそりなくなった。挙句の果てに、その日下ろしたばかりの運動靴が盗まれた。
犯人は簡単に見つかった。例の男子生徒だ。
彼はその場では白を切ったが、後日盗んだ物を平然とした顔で学校に持ってくるので、彼が犯人であることは誰の目にも疑いようがなかった。
関わらないようにしようと思った時には遅かった。その頃には既に担任の先生を含め、クラス中が史郎をその生徒のお守役と認識してしまっていた。席替えでも班行動でも、半ば強制的に同じところにさせられた。
試練のような日々は、その生徒の退学という形で幕を下ろした。彼はついに学校の備品に手を出したらしく、病的なまでの盗癖が大人たちの間でも見過ごせなくなったようだ。
教師たちに追及された時、その生徒はこう言ったそうだ。
「安宅にやれって言われたんです」
幸い誰もその少年の言葉を信じはしなかったが、それを聞いた瞬間、史郎は無闇に他者を受け入れることをやめようと心に決めたのだった。
人一倍お人好しな自覚はあった。だからこそ、意識的に人との関わりを避けようと思わなければならなかった。
「……やっちまったなぁ」
史郎は頬杖をついて弥奈子を見遣る。瞼が重かった。このまま目を瞑って、すべてがなかったことになればいいのに。そんな思いに誘惑される。
「私に手を差し伸べたこと、後悔していますか」
「うん」
史郎は素直に認めた。
「同時に、誰かがその役目をしなければならなかったんだって、思うよ。弥奈子ちゃんには助けてくれる大人の存在が必要だ」
本来なら、それは誰か別の人間の務めだろう。育児の経験もなく、自分の面倒を見るだけでやっとの史郎には荷が重い。
だが、溺れかけた少女を見つけ、史郎は泥舟に飛び乗って助けに向かってしまった。こうなってしまっては、もはや岸まで漕ぎ着ける以外に道はない。生憎、どれだけ舟が沈もうとも、一度助けようとした少女を再び川底に放り投げられるほど、史郎は冷淡な性格はしていなかった。
いや、そうじゃない。
投げ出せないのは、『彼女』がきっと、それを許さないから。
「俺には君にとって何が正解なのかわからない。未成年だし、児童養護施設とかに預けるのが一番なんだろうな」
「嫌です」
「そう言うと思ったよ」
史郎は溜息を噛み殺した。頭に浮かんだ言葉を口にするのが酷く億劫だった。
「家に帰りたくないんだっけ」
「はい」
「わかった。うちに泊めてやる」
「本当ですか?」
弥奈子は目を開いたが、驚いた様子はなかった。念を押すように史郎の目を覗き込む。
「正直、嫌だけどさ。うちに泊めなかったら野宿するんだろ」
「それか、誰かホテル代を出してくれる人を探します」
「そういうのをしてほしくないからさ」
史郎は冷めたポテトに手を伸ばし、摘まんだそれをトレーの上に落とした。指先に残った油と塩のざらつきを捏ねる。
「だけど、泊めるのはこの件が解決するまでだ。呪いの件が解決したら、俺と君は元の通り他人に戻る。君は然るべき機関に相談するか、お母さんときちんと話をつける」
史郎は顎を引いて弥奈子を見た。
「それでいいな?」
「……はい」
「不満そうに見えるけど」
「それは、まあ」
弥奈子はすまし顔で髪を耳に掛け、ストローを咥えた。史郎は目を逸らし、先程落したポテトを食べる。塩を振り過ぎだ、と思った。
「恩に着てくれよ。俺にとっちゃあ、犯罪に片足を突っ込んでいるようなもんなんだから」
「そうですか?」
「そうだよ。未成年を家に連れ込むんだぞ。親御さんに訴えられたら……いや、そうでなくても事件だよ」
「なるほど」
弥奈子の目に意地の悪い色が過る。史郎は急いで睨み付けた。
「脅迫とかするんじゃないぞ」
「しませんよ」
彼女はぽつりと付け加える。
「脅したい相手なら、他にいくらでもいますから」
「……ったく」
史郎はトレーを押し遣った。
「うちに上げるからには、いくつか守ってもらう条件があるからな。その一、このハンバーガーを食べきること」
「食欲ないんですけど」
「じゃあ泊めない」
弥奈子は事務的な様子でハンバーガーを取り上げた。包み紙を開き、感情に欠けた目でそれを見下ろす。齧る一口は小さかった。
流し込むように冷めたハンバーガーを食べ終えて、二人は店を出た。ようやく日も落ちきって、住宅街は薄闇に包まれている。窓から零れる灯りの中に、楽しそうな子供たちの笑い声が聞こえた。
線路を越えて延々と歩く。途中でコンビニに寄り、飲み物と弥奈子の下着類を買い揃えた。
道中で知り合いに見られるのではないかと史郎は気が気でなかったが、弥奈子は終始ご機嫌だった。もっとも、見かけは無表情のままだったけれど。
「誰かのお家に泊まりに行くなんて久しぶりです。小学校の時以来ですよ」
「……よかったね」
史郎はじっとりと弥奈子を睨む。彼女はわざとらしく首を傾げている。
「史郎さんは? お家にはよく女の人を連れ込んだりしているんですか?」
「してませんけど」
「ああ……。そうですよね、史郎さんってあんまり……」
「悪かったな」
弥奈子は楽しそうだ。
「失敗した。せめて着替えてきてもらえばよかった」
史郎が呻くと、弥奈子は意地悪く目を細める。
「制服だと、まさに援交って感じがしますもんね」
「わざわざ口に出さないでくれ」
アパートに着いた。夜なので建物のボロさは目立たないものの、史郎は早くも弥奈子を連れてきたことを後悔し始めた。無駄にビニール袋を持ち替えて、じろりと弥奈子を見る。
「言っとくけど、狭いぞ」
「気にしませんよ」
カンカンと外階段に足音を響かせて二階に上がり、部屋の鍵を開ける。点けっぱなしの換気扇が低い音で二人を迎えた。
史郎は先に家に上がり、部屋中の電気を点けて回った。流しに洗い物が残っている以外は綺麗に片付いている。テレビゲームと電子書籍で漫画を読むことくらいしか趣味がないので、部屋には物自体が少なかった。
「お邪魔します」
か細い声に振り返ると、弥奈子が脱いだ靴を揃えていた。狭い廊下に立つ細い後ろ姿。史郎は頭を掻いた。
「あの、うち、古いから。築三十年超えてるから」
「そうなんですか」
「風呂は追い炊きとかできないから。あとあの、換気扇が汚いのはもとからで、洗い物はその、朝ちょっと急いでただけで――」
「はあ」
弥奈子は興味がなさそうに真っすぐ史郎を見ている。史郎はそこでようやく自分がダイニングへの入り口を塞ぐように仁王立ちしていたことに気が付いた。
「あ、ごめん。どうぞ」
「ありがとうございます」
ダイニングには背の低いソファーとテレビ、設置されたままのゲーム機がある。自堕落な生活を続けるうち、食事はダイニングではなく寝室のテーブルで取ることが常になっていたから、ダイニングは完全にゲームをするためだけの部屋だ。
寝室にはシングルベッドと大きめのローテーブルがある。ローテーブルの下に置かれたノートパソコンは壊れているけれど、捨てるのが面倒で丸一年そのままになっている。壁の一面が大きな押入れになっているので、衣類や雑貨はすべてそこに収めていた。
「適当に座っていいから」
史郎は寝室の押入れに向かい、なるべく新しい綺麗な衣類を探した。
「何がいるんだろう。パジャマ? Tシャツとスウェットがあればいいかな?」
「はい」
「シーツ……あった」
史郎は替えのシーツに鼻を埋めて顔を顰めた。
「ちょっと埃臭いか? この押入れ、どうもかび臭いんだよなぁ……」
弥奈子は両手で鞄を握ったまま、控えめに部屋を見回している。平静を装っているけれど、動作のぎこちなさには緊張が現れていた。史郎はせかせかとその前を通り過ぎ、部屋中から必要なものを掻き集めた。
「はい。じゃあシーツも替えたからね、俺のベッド使ってもらって。あ、これ枕にして」
枕の代わりにバスタオルを二枚重ねて巻き、着替えと共に弥奈子の手に押し付ける。目の前に立つと、改めて彼女の華奢さが意識された。
「トイレはそこ。風呂はそっちで、タオルとかは全部脱衣場にあるからね。弥奈子ちゃんがいる間は、俺はそっちの部屋には入らないようにするから安心して」
史郎は自分でも早口になっていることに気が付いたが、目を逸らすことしかできなかった。「じゃ」と言ってソファーに座り、これ見よがしにスマートフォンで漫画アプリを開く。
弥奈子はそのまま立ち尽くしていた。史郎を見下ろし、長い沈黙を挟んだ後、小さな声で呟いた。
「一緒に寝ちゃ……駄目ですか?」
「は?」
スマートフォンが床に滑り落ちた。
「ベッド、ひとつしかないし。史郎さん、詰めれば二人で眠れますよ」
「いやいやいや。何言ってんの」
史郎は両手で顔を覆うと、意を決して立ち上がった。
「ごめん。俺が気が利かなかった。一時間くらい出掛けてくるから、その間にお風呂とか済ませちゃって」
「え……」
史郎はバスタオルを抱き締める彼女の手に力が籠ったのを見た。懐かしい、嫌な感覚も蘇る。だが、史郎はあえて弥奈子の顔を見ないで玄関に向かい、そのまま靴を履いてドアノブに手を掛けた。
「それじゃ、おやすみ」
立ち尽くす少女の影が視界に揺れる。史郎は部屋を出て、扉に鍵を掛けた。
短い溜息が零れる。
夜気を吸う。
部屋の中から足音が聞こえた気がして、史郎は足早に階段を下りた。
入り組んだ道の左右に民家が連なっている。この辺りは古い住宅も多く、荒れた平屋が目についた。街灯は既にLEDに替わり、自販機だけが煌々とした明かりで虫を集めていた。
店の多くはもう閉まっている。酒を飲む気にもなれなかった。というより、酔った状態で弥奈子に会いたくなかったので、飲み屋に行くこともできない。結局、先程も行ったコンビニで時間を潰すことにした。
アイスコーヒーとソーダ味の棒アイスを買い、駐車場の隅にしゃがみ込む。久しぶりに食べるアイスは記憶にあるよりも美味しいと思えなかったけれど、火照った口の中に冷たさが気持ちよかった。
「……あーあ」
逃げるように出てきてしまった。
理由は自分でもわかっている。何から逃げてきたのか、その真実も。
物言いたげな顔で佇む少女に、史郎は別の女性の影を重ねていた。かつて自分が愛した人を。
結城梨絵は史郎が経理課にいた頃に雇われていた派遣社員だった。赤いフレームの眼鏡がよく似合っていて、華やかではないが、素朴な魅力のある女性。一緒に仕事をするうちに、史郎はその真面目な人柄に惚れた。思い切って食事に誘い、躓いた拍子に手を繋いだことが、二人の関係の始まりだった。
史郎は恋愛経験が多い方ではない。恋人なんて大学生の時に一回できたきりだ。それだって、自分が両想いだったと思い込んでいるだけで、本当は気まぐれで相手にされただけだったのかもしれないと思っている。
だから、梨絵のことは大事にしたつもりだった。その「つもり」というのが、結果的に彼女を傷付けることになってしまったが。
交際は二年弱で終わりを告げた。別れを切り出したのは梨絵の方だ。彼女は泣きながら、「もう耐えられない」と言った。
原因はセックスレス。
拒んでいたのは史郎の方だ。
性行為をしたくなかったわけではない。梨絵のことは愛していた。でも、だからこそ、初めて体を重ねた時に彼女が言った一言が、史郎の心に突き刺さった。
「痛い」
たった三文字。本当にそれだけのことで、史郎の中で何かが折れてしまった。以来、史郎は心因性の勃起不全を患っている。前戯はできる。欲情もする。けれど、いざ挿入という段になると、決まって萎えてしまうのだ。
それでも梨絵は史郎を受け入れようとしてくれた。時間を掛けて史郎の不安を取り去ろうとし、最終的には専門医に掛かることも提案した。しかし、失敗を重ねるたびに史郎の自信は地に落ちて、ついにはそのような雰囲気に持ち込まれることすら避けるようになってしまった。
「史郎自身もつらいんだってことはわかるよ」
梨絵は言った。
「でもね、これは史郎だけの問題じゃないんだよ。二人の問題なんだってわかってる?」
梨絵は泣くことが多くなった。
同じ布団の中で背を向け合う日々。背中で互いの体温を感じれば感じるほど、二人の間に横たわる冷たいものが意識された。
「あなたは本当に自分勝手よ。自分可愛さに問題から逃げてるんだもの。私のことよりも自分のことの方が大事だから、二人の問題に向き合おうとしないんでしょう」
そうかもしれない。
いや、きっとそうなのだろう。
その通りだと思ったから、史郎は去っていく彼女を引き留めることができなかった。
梨絵が死んだと聞かされたのは、それから間もなくのことだった。交通事故で、横断歩道を渡っていたところを直進してきた車にはねられたらしい。
不運な事故だ。誰のせいでもない。けれど、もしも自分が彼女の愛をきちんと受け止めて向き合っていれば、彼女は今も生きていたように思えて仕方がないのだ。
あの日折れてしまったのは、きっと史郎の自尊心。そんなしょうもないもののために大切な人を苦しめ、泣かせて、追い詰めた。史郎は未だその傷に向き合えないままでいる。
「つらいなぁ……。嫌なこと、思い出させないでくれよ……」
弥奈子はもう床に就いてくれただろうか。
今夜はこれ以上彼女と顔を合わせたくなかった。
「……なんで連れ帰っちゃったんだろうなぁ」
見ず知らずの家出少女を家に上げ、自分はいったい何を期待していたのか。
自身の邪な思いに目が行きそうになり、史郎はぞくりと身を震わせた。
「そんなつもりじゃない。そんなつもりじゃないんだ、俺は――」
俯いた手元から、溶けたアイスが滴った。




