3話 異変
それからは何事もなく数日が過ぎた。
あの奇妙な夢はほぼ毎日見ていたが、所詮夢は夢だ。史郎はあまり気に留めず、せいぜい明晰夢とは何かについてインターネットで検索する程度だった。
決定的なことが起きたのは、木曜日の夜だった。
史郎はとある文具メーカーで働いている。所属は総務部という名の何でも屋。メインの事務仕事の他に、社内で困ったことがあれば、どんなことでも呼び出される。縁の下の力持ちとして重要な仕事には間違いないのだが、同期の稼ぎ頭たちと比べるとほんの少し下に見られてしまう。どことなく肩身の狭い立場だった。
そんな史郎のオアシスは給湯室だ。
煙草を吸わない史郎には喫煙室は縁がなく、また共用の休憩スペースはやたらと他部署の人間に話し掛けられるので居心地が悪い。シンクと冷蔵庫があるだけのこぢんまりとした給湯室が、史郎の性には合っていた。
史郎が給湯室にいることで嫌な顔をする者もいるが、最近では女性社員たちの立ち話に混ぜてもらえるようになった。彼女らと手分けして差し入れの菓子を配ったり、来客用のお茶を淹れたりする時間が、日々のささやかな癒しになっている。
その日は他に誰もおらず、史郎はひとりで自分用のコーヒーを淹れていた。「ご自由にどうぞ」と書かれた缶の中に新しい菓子が補充されているのを見つけ、二、三個見繕ってポケットに入れる。
ドリップバッグを捨て、マグカップを手に取る。席に戻る前にコーヒーを一口啜っておこうと、シンクにもたれ掛かった時だった。
冷蔵庫と食器棚の隙間。
何者かと目が合った。
「……え?」
目だ。
血走った目玉が、冷蔵庫と食器棚の間の僅かな隙間からこちらを見ている。
咄嗟に見間違いだと思い目を逸らしたが、再びそちらを向くと、やはり目玉はそこにあった。ぎょろりと動く眼球の下には、蒼白い肌が続いている。
目の前の映像を理解した瞬間、全身から汗が噴き出した。手の中でマグカップが滑りそうになる。
誰かがそこにいる。
だが、そこには人が入れるようなスペースはない。
手が震えた。もう一度目を逸らそうと試みたが、視線は貼り付いたように動かない。隙間から見つめる何者かも、こちらを凝視し続けていた。
目玉が、ぎょろ、と動く。
史郎はコップを取り落とし、弾かれたように給湯室から逃げ出した。
その出来事を境に、史郎は奇妙なものを目撃するようになってしまった。
街路樹にめり込んだ男性。
交差点を歩いている下半身。
毎日決まった時間にビルの上から落下する黒い影。
そんなものを頻繁に見るようになった。
あれが幽霊というものか。生まれてこの方、幽霊なんて見たことがなかったが、霊感というのは後天的にも身に付くものなのだろうか。史郎の検索履歴は霊感に関するもので埋め尽くされた。
かといって、そんなことを騒ぎ立てるような歳でもない。史郎は気味の悪い体験に神経をすり減らしながらも、変わらぬ毎日を過ごそうと努めた。
見えるだけだ。害はない。
ゴキブリやなんかと同じだと思えばいいじゃないか。
見て見ぬふりを続ければ、きっとじきに慣れる。
そう言い聞かせてやり過ごそうとしたけれど。一週間ほど経ったある日、あっさりと我慢の限界が訪れた。
企画部にいる同期たちの飲み会で、史郎は運転手として送迎を頼まれていた。
夜十時。史郎は会場となった居酒屋の前に社用車を停め、参加者たちが出てくるのを待っていた。都合よく使われている自覚はあったが、大きな案件が一段落した打ち上げだと言うので、仕方なく引き受けてやることにしたのだった。
時間になっても同期たちは出てこない。史郎はお笑いの動画を見て時間を潰すことにした。
動画が半分ほど進んだ頃、窓越しに人の気配を感じた。
振り返ろうとして違和感に気付く。
静かすぎる。
同期たちなら、酔っ払い特有の騒々しさと共に乗り込んでくるはずだ。ならば、店員が路上駐車を注意しに来たのか? どちらにしても、こちらの注意を引くための声掛けくらいはするのではないか。
その人物は無言で運転席を覗き込んでいた。窓枠から顔だけを突き出して。視界の端に映るその顔は、ニタニタと歯を剥き出して笑っていた。
ドッと汗が噴き出した。鳥肌が止まらない。冷や汗が滲み、スマホをきつく握り締める。
動けなかった。動画の中ではお笑い芸人が滑稽なコントを披露しているというのに、何ひとつ頭には入ってこない。すべての音が掻き消えたように、自分の心臓の音だけを聞いていた。
動画が終わる。短い広告が流れて、次の動画の選択画面が表示される。
唐突に気配が消えた。史郎はハッと我に返り、窓の方を見た。
誰もいなかった。
史郎は安堵と猜疑心の入り混じった気持ちで窓を睨んだ。同期たちはまだ出てこない。居ても立っても居られずに車を降りてみたが、やはり誰もいなかった。飲み屋街らしい油の臭いが、室外機の風に乗って漂ってくるだけ。
気を取り直して運転席に戻ろうとして、はたと。動きを止める。
助手席に、いる。
女だ。
髪が長いように見えるが、本当のところはわからない。その姿は闇に溶けて朧げで、黒い粘液を頭から被ったかのように、ドロドロと影を引きずっていた。
女の口が開く。真っ白な舌が見えた。
「……あ」
まずい。
何がまずいのかはわからないが、直感がそう述べていた。
史郎は逃げ出す覚悟を決めた。
「なーにしてんだよ」
唐突に肩を抱かれ、史郎は跳び上がって驚いた。振り返れば、酔っ払って上機嫌の同期が赤い顔で笑っていた。
「どうした、安宅? 何かあった?」
「……あ、いや」
答えに詰まっている間にも、同期たちは後部座席のドアを開け、荷物と酔っ払いを放り込んでいく。
女は相変わらず助手席からこちらを見ている。彼らには、あの女の姿は見えていないようだ。
「乗ったぞぉ、安宅ぇ。出してくれー」
「あ、ああ」
ドアを開ける。座席に尻を収める。シートベルトを締める。
すべての動作がぎこちなく、手が震えてどうしようもなかったが、史郎はなんとか車を発進させた。
その間、女はピクリとも動かなかった。
大きく口を開け、黒い液体を滴らせたまま、女の霊はずっとこちらを凝視し続けていた。
以降、女は定期的に史郎の周囲に現れている。
もう無理だ。限界だ。
史郎は自宅に着くなり頭を抱えた。
日々不可解なモノたちに怯え、昼も夜も安心できる暇がない。加えて毎日の明晰夢で、寝ても寝ても眠った気になれない。身も心も消耗するばかりだ。このまま生活が脅かされ続けるのであれば、きっと本当に参ってしまうだろう。なんとかしなければ。
奇妙な体験を繰り返す中で、気が付いたことがある。
特に、朝起きた時。あの明晰夢を見た後は、決まって額がむず痒くなる。骨と皮膚の間、肉の内側に、虫でも挟まっているかのような違和感があるのだった。
心当たりはひとつだけ。
「もしかして、胎内廻りで呪われたか……?」
史郎は額の中央を手で擦る。
水仙寺弥奈子と胎内廻りに行ったあの日、史郎は確かに額から血を流した。けれど、ぶつけた覚えもなければ、傷そのものも見つからなかった。すべての異変はあの体験の後から始まっている。
早速、史郎は恵山寺と胎内廻りについて調べ始めた。恵山寺についてや胎内廻りに関する事件、いわくなど。しかし、検索に引っ掛かるのはありきたりなまとめサイトばかりで、有力な情報は何ひとつ得られなかった。一応、SNSで「恵山寺に行く」という投稿を発見したので、アカウント主にダイレクトメッセージを送ってみたが、こちらも返信は期待できないだろう。アカウントの更新はその投降を境に途絶えている。
そこで史郎は、恵山寺について地元の図書館のレファレンスサービスに問い合わせてみることにした。郷土史などをあたれば、何か手掛かりがあるかもと考えたのだ。
結論から言えば、こちらも不発だった。
「比較的新しい寺院のようです」
返答のメールには、このように述べられていた。
「正式名称は寂真院恵山寺です。現在の場所に建立されたのはおよそ四十年前。仏教系統の寺院だと謳ってはいますが、全日本仏教会には属していません。新興の宗教だと言えます。また、本尊は今日まで非公開にされており、詳しい縁起などをお調べすることはできませんでした」
レファレンスサービスの担当者は、直接寺院を訪問することをやんわりと勧めて締め括っている。
やはり再訪するしかないのか。
気は進まなかったが、他に手立ては思い付かない。
悩み抜いた挙句、史郎は弥奈子に連絡を取ることにした。
こうなっているのは自分だけではないのではないか。または、胎内廻りを言い出した彼女なら、何か知っているのではないかと望みを懸けて。
メッセージアプリで様子を訊ねると、弥奈子からはすぐに返信が来た。できれば会って話したいという。
次の土曜日、史郎は駅前の喫茶店にて、水仙寺弥奈子と再会した。
彼女の姿を見た途端、ホッと溜息が出たのはなぜだろう。それは彼女を心配していたというよりも、史郎自身が彼女の存在に安心を得たような、そんな溜息だった。
弥奈子はふわりとしたブラウスに紺のフレアスカートを履いていた。前回も紺のワンピースだったから、紺色が好きなのかもしれない。確かに白い肌にはよく似合っていた。いつも腕を見せないようにしているのは、日焼け対策なのだろうか。
「こんにちは。またお会いできて嬉しいです」
「あー、うん……」
弥奈子は大人びた微笑で言うけれど、やはりその目は笑っていない。対する史郎も煮え切らない返事になってしまう。できればもう会わない方がいいと思っていたし、会うにしても、こんな理由は両者とも望んでいなかっただろう。
史郎は弥奈子の顔をじっと見る。少々草臥れた風に見えないこともないが、彼女の様子は以前と変わっていないように感じた。むしろ、その憂いを帯びた瞳には、以前にはなかった奇妙な輝きがあった。
どう切り出すか躊躇っていると、弥奈子が先に口を開いた。
「あれからどうですか。史郎さんは、何か変わったことはありませんでしたか?」
「え」
史郎は身を乗り出した。
「あった。沢山あったよ。弥奈子ちゃんも?」
弥奈子は嬉しそうに目を細めた。
「どんなことがあったんですか?」
「俺は――」
史郎は今日までに体験したことを掻い摘んで話した。明晰夢を見ること。幽霊が見えるようになったこと。それが胎内廻りをしたことに関係があるのではと考えていること。恵山寺について調べたが、さっぱり成果がなかったこと。
弥奈子は胡乱な表情をすることもなく、神妙な面持ちで聞いてくれた。その眼差しに励まされて史郎の言葉に熱が籠ると、弥奈子も熱心に頷いてくれる。
「――というわけなんだ。そっちは?」
「私も同じです」
「やっぱりそうか」
史郎は背もたれにどさりと身を預けた。
「俺たち、呪われちまったんだな……」
「呪われた?」
弥奈子は首を傾げる。長い髪がさらりと揺れた。
「ああ。変なことばかり起きるし、そのせいで俺は心身共に参ってる。こういうのを呪いって言うんじゃないの?」
「そうかもしれませんね」
「だから、もう一度恵山寺に行って、住職に呪いを解いてもらうよう頼もうかと思ってるんだ」
史郎は勢い込んで言った。
「弥奈子ちゃんも来るだろ?」
「……そうですね」
「よし。そうと決まれば、今日行けるかい?」
弥奈子はちらりとスマートフォンに目を遣った。
「はい。大丈夫です」
「よかった。じゃあ、すぐに出発しよう」
史郎がアイスコーヒーを飲み干す。弥奈子もストローに口を付けたが、彼女はアイスティーをほとんど残していた。
二人は喫茶店を出るなり、並びにあるレンタカー屋に入った。先日と同じ軽自動車を借りる。
道中はやはり互いに何も話さなかった。史郎は世間話くらいすべきだろうかと悩んだものの、弥奈子の横顔はそれを望んでいないように見えたので、黙っていた。
午後三時過ぎ、恵山寺に到着する。二人は近くのコインパーキングに車を停めて、そこから歩いて境内に入った。景色はあの日と変わらないはずなのに、飾り気のない境内が以前より一層寒々しく感じられる。日差しはこんなにもじりじりと肌を焼くというのに。
今度は参拝はしなかった。史郎は先に立って本堂を覗き込み、声を張り上げる。
「ごめんください」
静まり返った堂内。
香の匂いが漂ってきて、史郎の鼻腔を撫で回す。その柔らかな香りには、やはり焦燥感を掻き立てられた。
「誰もいませんか?」
声を掛けながら、史郎は靴を脱いで畳に上がった。弥奈子も後に続く。
史郎が向かったのは、脇陣にある例の地下への階段だった。先日と同じように仕切りで囲われており、今日はさらに階段そのものも木の蓋で閉ざされている。蓋は二枚の板を合わせる形になっており、紫の組み紐で取っ手部分を縛られていた。
史郎は無意識に手を伸ばそうとした。
「いらっしゃいませ。何かご用ですか?」
ハッとして振り返る。住職が背後に立っていた。
今日の住職は袈裟を纏っていた。柔和な顔立ちに笑みを貼り付け、僅かに首を傾げている。弥奈子も驚いた素振りを見せたので、本当に音もなく現れたらしい。
「おや。あの時のお二人ですね。遠くからよくぞお越しくださいました」
住職はにこやかに言う。
「あれからいかがですか? 順調に進んでおられますか」
史郎は眉を顰めた。
「どういう意味ですか?」
「言葉のままですよ。ああ、順調なようですね」
住職は歓喜に身を震わせて、揉み手をするように手を合わせた。
「おめでとうございます。ええ、ええ。実に喜ばしい。おめでとうございます」
「は? あの、何を言ってるんですか」
史郎は総毛立つのを感じながらも、住職に向かって一歩踏み出した。
「何がめでたいんですか。こっちは困っているんですよ。毎日毎日悪夢ばかり見るし、得体の知れないものを見るようになるし」
「悪夢だなんて。真理ですよ、安宅さん。真理です」
「真理?」
史郎は腕を掻き毟った。爪先から体温が奪われていく。
「ちょっと待ってください。どうして俺の名前を知っているんだ? 弥奈子ちゃん、君が教えたのか?」
「いえ……」
弥奈子も目を見張っている。
「大丈夫ですよ」
住職は史郎の質問など聞こえていないかのように囁いた。その目は三日月のごとく弧を描き、怪しい光を湛えている。
「初めは誰でも不安なものです。でも、ご安心ください。あなた方は選ばれた。祝福を授けられた。受け入れてください。それがあなた方の救われる道なのですから」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
史郎が叫ぶ。
「選ばれた? 祝福? 何のことですか? こっちは本当に困ってるんだ!」
史郎は住職に詰め寄り、袈裟の上から老いた腕を掴んだ。
「方法があるなら教えてください。この呪いみたいのを解いてくれ!」
しかし、住職は答えない。
彼は何事もない様子で史郎を脇に押し遣ると、弥奈子へと目を向けた。彼の眼光に射抜かれて、弥奈子がビクリと身を縮める。
「素晴らしい。弥奈子さん、あなたもいい感じですね」
住職は満足そうに微笑みながら、弥奈子に向かって手を差し伸べた。史郎は咄嗟に弥奈子の肩を抱いて引き寄せた。住職はゆっくりと手を落したが、気を悪くした風もなく、むしろ何ひとつ彼の目に入ってはいないようだった。
「あ、あんた……あんた、どうしたんだ……?」
声の震えが抑えられない。
よく見れば、住職の三日月型の瞳は真っ黒に塗り潰されていた。
「おめでとうございます、安宅さん。おめでとうございます、弥奈子さん」
声は組入天井に反響し、塊となって降り注ぐ。
「あなた方は祝福されました」
おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
あなた方は。
「やめろ!」
気が付けば、史郎は叫んでいた。弥奈子が腕の中で震えていた。
「もう、沢山だ」
史郎は弥奈子を連れて本堂を出た。靴を引っ掻け、玉砂利の庭を踏み締める。車に乗り込んだ史郎は、乱暴にドアを閉めた。
「なんなんだ、あれ」
「……史郎さん」
史郎はエンジンを掛けようとした。サイドブレーキに置いた手に、弥奈子がそっと手を触れる。そのひやりとした感触に驚いて顔を上げると、彼女が心配そうにこちらを見ていた。
「史郎さん。お金、払わないと」
「あ、そうか」
史郎は精算機で支払いを済ませ、運転席に戻ってきた。ドアを閉める音は先ほどよりも遠慮がちになった。
「まったく、変な宗教に関わっちまった」
車を発進させながら独り言ちる。腹立たしさゆえ、頭を掻く手が止まらない。
「弥奈子ちゃん。君はあそこがどんなところか知っていたのか?」
車窓を住宅街の景色が流れていく。空と雲のコントラストは今日も鮮やかに目を刺した。
「……いいえ」
弥奈子は前を向いたままだ。
「知らない? 本当に?」
答えない。
史郎は苦い気持ちを噛み締めた。
「その様子だと、知っていたんだな」
「知りません。こんなことになるとは思っていませんでした」
「ってことは、何かが起こること自体は見当がついていたんだろう」
再びの沈黙。
信号が赤に変わる。史郎は乱暴にブレーキを踏み、弥奈子の体が慣性の法則を受けて傾いた。
「答えないのか」
「……はい」
「じゃあ、質問を変えるから、それだけは答えてくれ。君は自分の身に起こっている異変を治したいと思っているか?」
弥奈子が振り返る。彼女の目に初めて縋るような色が見えた。
「はい」
「……わかった」
それからは二人とも話さなかった。
今日は渋滞にも遭うこともなく、途中のサービスエリアで味気ない蕎麦を啜った以外は、寄り道もしないで帰ってきた。スピードを出したおかげで、帰りは行きよりも時間は掛からなかった。
市営住宅の入り口に前に車を着ける。直接弥奈子の家の前に行かなかったのは、なんとなく弥奈子に対するやましさがあるからだった。娘が呪われたと知ったら、親御さんはどんな顔をするだろう。そう考えると合わせる顔がなかった。
車を停めてからも、弥奈子はしばらくシートベルトを外そうとしなかった。
「弥奈子ちゃん?」
こちらを見る。瞳に影が戻っていた。
「……帰りたく、ないです」
「え?」
史郎は困惑して眉を寄せた。
「家に帰りたくないの?」
弥奈子が微かに頷く。史郎は頭を掻いた。
「そう言われてもなぁ……」
史郎は彼女から目を逸らした。日没にはまだ早いが、空は段々と色を淡く変え始めている。
「今日はもう帰んな。ずっと車に乗ってばかりで疲れたでしょ」
弥奈子は何も言わなかった。けれどそれは、史郎が彼女の方を見なかったからかもしれない。西日に目を細めているうちに、助手席のドアが閉まる音が聞こえた。




