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夢を見た。
それが夢の中で夢だとわかっていたのは、考えてみれば奇妙なことだ。それだけ不可思議な映像だったということもあるけれど、つまりは明晰夢だったのだろう。明晰夢とは、思考や記憶を司る前頭葉が半覚醒の状態で見る夢のことで、夢を夢だと自覚していることが特徴だ、とどこかで聞いたことがある。
その夢の中で、史郎は真っ暗な道を歩いていた。
目が慣れてくると、それは近所の住宅街だということがわかった。いつもの駅からの帰り道。昨日も歩いた馴染みの道だ。
一目でそうと気が付かなかったのは、街にあるはずのすべての明かりが消えていたからだった。街灯はおろか、自販機の明かりひとつない。車は通っておらず、建ち並ぶアパートの数々も、ひっそりと闇に身を沈めている。
史郎は歩く。
スニーカーがアスファルトを踏み締める、軋んだ足音が響いている。
小石を踏めば、足の裏にその凹凸を感じた。夢にしては細部までリアルだなあなどと、呑気なことを考えた。
ふと、史郎は何かの気配を感じた。
振り返る。
誰もいない。
けれども前を見ると、再びその気配が蘇る。
視線だ、と史郎は気付いた。
何者かに見られている。それは史郎が歩くたびに同じように前進し、こちらが立ち止まると立ち止まる。
気味の悪さから自ずと速足になった。それでも視線は振り切れない。終いには駆け足になり、史郎は無我夢中で暗い住宅街を走った。
角を曲がる。
視界が開けた。
本来なら、そこにはスーパーマーケットがあるはずだった。がらんとした駐車場と照明を落とした店舗。空のカート置き場に、屋外で孤立したATM施設。そんな見慣れた光景が広がっているはずだった。
ところが、夢の中のその場所は、ぼっかり空いてしまっていた。
断崖だ。目の前には何もない。
暗い淵が視界を横断するように横たわり、それまでに続いていた住宅街も、街路樹も、電線も、自販機も、何もかもを呑み込んでいる。
史郎は恐る恐る崖に近づき、深淵を覗き込んだ。生温い風が吹き上がっていた。恵山寺で嗅いだあの香の匂いが、ほんのりと鼻先を撫で去った。
シャン、と涼やかな音を聞いた。
春祭りの行列で聞いたことがある、錫杖を突いた音だ。
視界の右手に白く細長いものが映る。それは子犬ほどの大きさしかないのだが、淡く光り輝いていて、宙に足を着くたびに黄金の花が咲いた。
龍だ。
綺麗だ、と思う。
手を伸ばしたいけれど、手を離したら転がり落ちてしまいそうで怖かった。史郎は龍が去るのを焦がれる想いで見届ける。やがてそれは筋となって消えた。
龍がいなくなってしばらくすると、今度は左手から巨大な手が生えてきた。ぶくぶくと肉を帯びて醜く、黒々とした体毛を生やしている。それは闇の底から昇ってきて、史郎のすぐ目の前を通過した。間近で見て気が付いたことだが、体毛だと思ったものは餓鬼であった。
史郎はその場に座り込んだ。天を見上げれば、真っ暗な世界を見下ろす者が在る。巨大な瞳がひとつ、この世界を監視していた。
「あ」
急激な喉の渇き。
眉間が痛む。
何も見ない。見たくない。見てはいけない。
御方は、目を開いて。
「あ、あ」
史郎は。
目を覚ました。
暗い自分の部屋。窓の向こうを車のヘッドライトが過ぎていく。遠くでバイクが走る音がした。スマートフォンを見る。眩しい。時刻は午前三時五分。
現実に戻ってきた。夢を見ていただけなのだから当たり前のことなのに、史郎は目を覚ましたという事実にむしろ驚いていた。
額に触れる。
傷が治りかけているような、こそばゆさが眉間のすぐ上に残っていた。




