2話 胎内廻り
翌朝、目が覚めると共に、史郎は酷い後悔に襲われた。
なぜあんな約束をしてしまったのだろう。どこの誰とも知らない未成年の女の子を隣の県まで連れて行くなんて、傍から見れば立派な誘拐ではないか。親御さんにきちんと許可は取っているのか?
しかし、史郎には当日になって「やっぱりやめよう」と言い出す気概もないのである。メッセージアプリの真っ新なトーク画面を睨み付けているうちに、とうとう家を出る時間になってしまった。
史郎は簡単に身支度を整え、重い足取りで待ち合わせ場所に向かった。
十時ちょうどに駅に着くと、弥奈子は既にロータリーで待っていた。昨日と違って私服姿なことに安堵する。膝丈の紺色のワンピースは女子高生には上品すぎたが、すらりとした背の高さもあってよく似合っている。彼女が実年齢より大人びて見えることは、正直言って有難い。
「おはようございます、史郎さん」
弥奈子は早速史郎を下の名前で呼んだ。それがなんだかこそばゆく、途端に罪悪感で喉が絞まる。
「えーっと」
視線を泳がせる史郎に、弥奈子はじっとりと視線を注いだ。
「……史郎さん、車は?」
「それなんだけど」
史郎は改めて今日の中止を切り出そうとしたが、弥奈子は鋭く史郎を睨み付けると、何も気付かなかったふりをしてレンタカー屋へと歩いて行ってしまった。
「あっ、おい。弥奈子ちゃん!」
店に入られてしまったことで、なおさら断ることができなくなってしまった。史郎は流されるままに軽自動車を借り、気が付いたら運転席に収まっていた。弥奈子も平然と隣に乗り込んでくる。
弥奈子の澄まし顔のおかげでレンタカー屋には怪しまれなかったけれど、後々誘拐犯として通報でもされたりしたら、警察はここにも捜査に来るだろう。その時、レンタカー屋は嬉々として自分たちのことを証言するのだろうか。そんな妄想をするだけで溜息が出た。
「なあ。やっぱり恵山寺に行くのはやめないか? せめて市内でさ、パフェかなんか驕るから――」
弥奈子が無言でシートベルトを締める。そして、こちらを向いてにっこりと笑った。
「運転お願いします」
史郎は精一杯睨んだが、彼女は梃子でも動きそうにない。
バックミラー越しに、レンタカー屋の店員がまだ出発しないのかと様子を見にきたのが見えた。史郎は店員に顔を覚えられたくないあまり、観念してエンジンを掛けた。
本当に、どうしてこうなってしまったのだろう。
史郎はハンドルを握りながら眉間に皺を寄せる。
若い女性特有の押しの強さだろうか。もともと断ることが苦手な性格ではあるけれど、社会人として、きっぱり断れなかった自分が情けない。
思えば、過ぎたあの日、弥奈子に傘をやらなければよかったのだ。あのまま他の通行人たちのように放っておけば、きっとこうして声を掛けられることもなかったのに。
だが、史郎にはどうしても、雨の中で泣いている女性を放っておくことはできなかった。あの日、あの瞬間、蹲る弥奈子の姿には史郎の過去の過ちが重なっていた。この後悔がある限り、史郎には彼女を無視することなんてできるわけがなかったのだ。
諦念が複雑に湧き立った感情を押し流していく。街並みの向こうに見える絵に描いたような入道雲が、自分を嘲笑っているようで空しくなった。
「高速に乗る前に、一応聞いておきたいんだけど」
史郎は赤信号で停車しながら、横目で弥奈子を見遣った。
「親御さんに今日のことは伝えてあるんだよな?」
「いいえ」
「えっ」
思わず横を見ると、弥奈子は真顔でこちらを見返している。
「……帰るぞ」
「ダメです。行ってください」
「行けるわけないだろ! あのなあ、弥奈子ちゃん――」
「うち、ネグレクトなんです」
史郎は言いかけた言葉を呑み込んだ。弥奈子は長い髪を耳に掛け、やはり無表情で前を向く。
「だから、許可を取る必要はありません。そもそも、報告しようとしても聞いてもらえません。なので、そこは気にしないでください」
「気にしないでって、そういうわけには……」
史郎は弥奈子から視線を逸らし、深々と溜息を吐いた。姿勢を伸ばして座る弥奈子の姿は、まるで見えない壁で己を守っているかのようだ。そこにティーンエイジャーならではの痛々しさを感じ、史郎はそれ以上何も言えなくなった。
「わかった。今回は連れて行ってやるけど、これだけは言わせてくれ。今日は例外として、これからは絶対に知らない人の車に乗るんじゃない。わかったな?」
「……はい。肝に銘じます」
弥奈子は女子高生らしからぬ返事をし、再び顔を前に戻した。
移動中、弥奈子ほとんど前を向いたまま動かなかった。スマートフォンを見ることもしない。途中立ち寄ったコンビニでも飲み食いはしなかった。あまりに彼女が落ち着いているので、段々と史郎はどこぞの令嬢を送迎しているような気持ちになってくる。
やがて史郎は、家庭環境に恵まれない少女の「面白いお寺に行ってみたい」という純粋な望みを叶えてやっているだけだ、と自分を納得させるようになった。つまり、善意のボランティア。何もやましいことなどないのだ。
高速を降り、黙々と車を走らせること一時間半。
ついに恵山寺が見えてきた。
恵山寺は住宅街の真ん中にあり、周囲を白塗りの塀に囲われていた。立派な門を構えているが、鐘楼もなければ墓地もない。塀で囲われた敷地内に、ただお堂だけが建っている。
「えらくシンプルだな」
開け放たれた門を見上げ、史郎は感想を口にした。
「本当にこんなところで胎内廻りなんてやっているのか?」
「そのはずです」
見渡しても、歴史的価値を伝える看板などは見当たらない。土曜の午後にもかかわらず、他の参拝客もいないようだ。境内には木が植わっていないからか、蝉の声すら鳴りを潜めているように感じられる。うなじを焼くじりじりとした日差しだけがそこにはあった。
弥奈子は躊躇せず玉砂利の庭を歩いて行く。史郎も胡乱な目つきで後に続いた。
まずは二人で賽銭を投げ、本堂に向かって手を合わせる。それから弥奈子は本堂の中を覗き込んだ。
「ごめんください」
外目には質素に見えたお堂だが、内部はそれなりに華やかだった。外陣には緋毛氈が敷かれ、内陣への立ち入りを阻む仕切りが置かれている。須弥壇の前には御簾が掛けられており本尊は拝めなかったが、天蓋は巨大で絢爛な物が設えられていた。
何気なく全体を見回して、史郎はギョッと首を縮めた。
なんと気味の悪い天井か。格子状に板を組んだ組入天井になっているのだが、格子目ひとつひとつに人の目が描かれているのだ。
「なんだこれは……」
無数の目に見降ろされている。まるで監視されているかのように。史郎は落ち着かない気持ちで身を引いた。
「こんにちは。ようこそいらっしゃいました」
それまでどこにいたのか、境内の奥から初老の男性が歩み寄ってくる。紺色の作務衣を着用しているが、剃髪しているところを見るに、彼がこの寺の住職だろう。
「こんにちは。胎内廻りをさせていただきたいのですが」
弥奈子が礼儀正しく頭を下げる。住職はにっこりと微笑んだが、一瞬値踏みするような目つきをしたことを史郎は見逃さなかった。
「かしこまりました。では、こちらへお上がりください」
靴を脱いで本堂へ上がる。通されたのは脇陣だった。冷房などはないはずなのに、ひやりとした空気に全身を包まれる。奈子と史郎が揃って畳の上に正座すると、住職は正面に座り、二人の顔を順番に見た。
「本日はお越しくださりありがとうございます」
弥奈子に倣い、史郎もぎこちなく頭を下げる。
「胎内廻りをご希望とのことですが、今までにご経験はおありですか? うちではなく、別のお寺さんでも」
「ありません」
「そうですか。では、軽くご説明差し上げましょうねぇ」
住職はわざとらしく咳をひとつした。
「本来の戒壇めぐりというものは、僧侶の行う修行の一環でありました。戒壇とは、正式な僧侶になるために戒律を授ける儀式、授戒というものが行われる神聖な祭壇のことでございます。その祭壇の周りを廻りながら念仏を唱え続ける行が、戒壇めぐりというわけです。現在戒壇めぐりができるお寺さんといいますと、長野の善光寺さんや岐阜の関善光寺さん、京都の清水寺さんの胎内めぐりが有名ですねぇ」
彼は少し体をずらし、背後にある柵を指し示した。そこに床下に降りる階段があるらしい。
「一般的に、床下などを巡るのが戒壇めぐり、仏像の胎内をめぐるのが胎内めぐりと呼ばれておりますが、うちでは『胎内廻り』と呼んでおります」
「ということは、こちらも何かの体の中なんですか?」
住職は史郎に目を向けず、また質問にも答えなかった。
「下へ降りていただきますと、明かりになるものは何もありません。真っ暗闇でございます。壁に鎖が打ってありますので、それを伝って御本尊の真下まで行っていただきます。そこには錠前が掛けてございまして、そちらを撫でていただきますと、御本尊様とご縁を結ぶことができ、極楽へと至ると言われております」
「その御本尊とは? こちらでは何を祀ってらっしゃるんですか?」
先程無視されたことの不快感を声に滲ませながら、史郎は再度質問を挟む。今度は住職も穏やかな微笑で振り向いた。
「それはそれは尊い御方でございます。盲目なわたくしたちを導き、真の理へと導いてくださる御方ですよ」
史郎は怪訝な顔をした。
「お名前は教えていただけないんですか?」
「申し訳ございませんが、お答えすることができません。聖名をみだりに唱えることは不敬にあたりますので」
「はぁ」
変な答えだと思ったが、生憎宗教には詳しくない。史郎はとりあえず住職に合わせて心得顔をしておいた。
住職は立ち上がり、地下への道を塞いでいた柵を退かした。目で二人に近寄るよう促す。
「おひとりずつ、右側通行で降りていただきます。ぐるりと緩やかに渦を描くようになっておりますので、最奥に突き当たりましたら、そのまま鎖を伝って戻ってきてくださいませ。常に右手に鎖を持つようにしていただければ、後の方とぶつからずにすれ違うことができますので」
「そんなに狭くはないんですね」
史郎が言うと、住職は微笑んだ。
「中で声を掛けることはしてもいいんですか? その、ぶつからないようにするために」
「構いませんよ。沈黙を推奨してはおりますが、安全が第一でございますからねぇ」
そして、住職は二人に番号札の付いた袋を寄越した。
「光の出るものはこちらにお預けください。携帯電話やスマートフォンのお持ち込みもご遠慮いただいております」
史郎はスマートフォンを二台と腕時計を預けた。二台のスマートフォンのうち、一台は仕事で持たされているものだ。弥奈子はスマートフォン一台だけだった。
「では、どちらが先に行かれますか?」
「私から行ってもいいですか?」
弥奈子が名乗り出る。
「いいけど、怖いんじゃないの?」
「だから先が良いんです」
それもそうかと思い、史郎は了承した。仮に立ち止まってしまった場合でも、先を歩いていれば後から来た史郎が保護してやることができる。
弥奈子は手早く髪をポニーテールに結ぶと、手摺りを握り締め、慎重に階段を下りていった。彼女が下に着いたところで、微かな鎖の音がした。
「気を付けろよ」
史郎は上から声を掛けたが、弥奈子は既に地下道へ進んだ後だった。
「それでは、あなたは五分ほど経ったら行きましょうか」
住職が言う。
弥奈子が行ってしまってから、史郎は手持ち無沙汰になった。少しの間でもスマートフォンが手元にないと不安になるあたり、我ながら現代人だなと呆れてしまう。
待っている間に住職が内陣に入り、前机に置かれた香炉に火を入れた。
史郎はお香の匂いを吸い込んだ。白檀だろうか。嗅いだことのある柔らかな香り。しかし、なぜかそれは嗅げば嗅ぐほど史郎の心を掻き乱し、史郎は段々と焦燥にも似た落ち着きのなさに苛まれていった。
気分が悪いと言って、お香を消してもらおうか。そう考え始めた頃、ようやく住職がこちらを振り返った。
「お待たせいたしました。お下りください」
「あ、はい」
史郎は階段の傍へ行った。
手摺りに掴まり、足元を覗き込む。十段ほどの急な木の階段と、板張りの床。壁に打ち付けられた鎖が見えた。
階段は一段踏み締めるたびに軋んだが、床板に足をつけると不安定さはなくなった。床板は滑りがよく、ささくれひとつなく磨き上げられていることが靴下越しに伝わってくる。
指先だけ鎖に触れながら、史郎はそろそろと暗い道の奥へと歩き出した。
暗いと言ったって、どうせ大したことはないだろう。
そんな悠長な心構えは、数歩踏み出しただけで消し飛んだ。頭上を天井に覆われた途端、視界から完全に光が消えたのだ。背後にあるはずの外からの光は自身の体が遮っている。まるで厚い幕を下ろしたかのように、辺りは暗闇に包まれていた。
史郎は咄嗟に鎖を掴んだ。ヒヤリとした感触を握り込む。前も後ろもわからない闇の中では、壁に打ち付けられた鎖だけが心の支えだった。
呼吸を整え、慎重に歩みを進める。
地下というだけあって涼しかったが、空気の流れは感じない。外の音も随分と遠退いてしまった。現実感がまるでない。
静寂だ。自分の足音すら響かないために、むしろ心音や耳鳴りのような体内の雑音が大きく聞こえる。
あまりの沈黙のために、史郎は急速に落ち着きを失っていった。叫び出さずとも、せめて腕を滅茶苦茶に振り回し、この鎖で大きな音を立てたい。そこに壁が、床があることを確かめたい。自分以外の物体がそこにあることを確認したい。そんな思いに駆られてしまう。
弥奈子はよくこんな道をひとりで歩けたものだ。自分ですらこうなのだから、彼女はもっと怖かったのではないだろうか。終わったら感想を聞いてみよう。だからどうか、一刻も早く終わってほしい……。
ひたすら歩き続けていると、床の感触が変わった。敷物が敷かれているらしい。床板の冷たさがなくなって、布らしき手触りを足の裏に感じる。
おそらくここが最奥だ。
暗闇に手を伸ばす。左手が正面の壁に触れた。
着いた。
壁を探ると、掌に収まる大きさの四角い物体を発見した。下部に穴が開いている。上部は鎖に通されているようだ。
間違いない、錠前だ。
史郎はサッと錠前を撫でた。急ぐ必要などないはずなのに、とにかく気持ちが急いていた。恐怖ではない。本当に、怖いという気持ちはなかった。にもかかわらず、史郎は「すぐにここを立ち去らなければならない」という考えに憑りつかれていた。
反対側の鎖を掴もうとして、ふと。
眩暈のようなものに襲われた。
それは視界を白く染めたが、すぐに消え失せ、史郎はもとの暗闇に取り残される。
「な、んだ……?」
額を手で押さえる。脂汗が手に貼り付いた。
眩暈はすぐに治まった。気を取り直して、来た道を引き返すことにする。
行きはあんなにも長く感じられたのに、帰りは拍子抜けするほどあっさりと出口へ辿り着いてしまった。階段の真下に立ち、仄かとはいえ自然の光を浴びた時には、ついつい大きな溜息が出た。よほど強く握り込んでいたのだろう。鎖から手を離すと、掌に跡が残っていた。
「お疲れ様でした」
階段を上ると、住職に声を掛けられた。彼は正座する弥奈子の前に身を屈めていた。
「どうかしたんですか?」
近づいてみると、住職は弥奈子の額にガーゼを当ててやっていた。傍らには救急箱が置かれている。
「ちょっとぶつけてしまったみたいで……」
言いかけて、弥奈子が口を噤む。
「どうした?」
「史郎さんも」
「え?」
「おでこから血が出てますよ。史郎さんもぶつけちゃったんですか?」
指摘されてはじめて、史郎は眉間に滴る何かの感触に気が付いた。手を触れてみれば、確かに額から血が流れている。痛みがないので今まで気付かなかったらしい。
「あれ、おかしいな。ぶつけた覚えなんてないんだけど」
「なんとまあ」
住職は史郎を見て微笑んだ。
「めでたいですねぇ。お二人ともだなんて」
「何がめでたいんですか」
史郎は住職の発言に困惑した。大した怪我ではないとはいえ、二人揃って怪我をするというのは大事ではないか。しかし、住職は穏やかな表情のまま、歌うような調子である。
「ええ、ええ。御本尊様とご縁があったという証拠ですから。こんなにおめでたいことはないんですよ」
「単にぶつけただけですよ。そんな大袈裟な」
答えながら、史郎はどこでぶつけたのか思い出そうとした。軽い眩暈に襲われた際、史郎は額に触れている。その時は確かに怪我なんてしていなかったはずだ。では、いったいいつ、どこで。
考え込んでいると、住職が言った。
「どうです。光は見えましたか」
「え?」
彼は微笑んでいる。
「見ていませんが」
「そうですか?」
住職の態度に史郎は軽く不信感を覚えた。それが向こうにも伝わったのか、住職は取り繕うように眉を下げる。
「光と言いましてもね。もちろん地下は真っ暗闇ですから、日光のようなものが煌々と見えるわけではございませんよ。ただ、時折『光を見た』とおっしゃる方がおられるものですから」
「はあ」
史郎は声に滲む呆れを誤魔化さなかった。変な遊びに突き合わされ、挙句に怪我まで負っているのだ。段々と「もう沢山だ」という気持ちになってきた。
「この後は何かするんですかね」
苛立ちを抑えて訊ねると、住職はきちんと膝を揃えて首を振った。
「胎内廻りは以上でございます」
史郎は弥奈子を振り返った。
「満足した?」
「はい」
「なら帰ろう」
弥奈子は鞄を漁ると、住職に茶封筒を差し出した。傍目に見ても明らかな厚みがある。住職は当たり前のようにそれを懐に収めた。
「ありがとうございました。では行きましょう、史郎さん」
「え。弥奈子ちゃん、それ――」
弥奈子は何事もなかったかのように先に立って行ってしまった。
涼しくて過ごしやすいお堂の中にいたからだろう。外に出ると、あまりの暑さと日差しにくらりときそうになった。汗がドッと噴き出して、一気に体力が奪われる。二人は逃げるようにコインパーキングに戻ると、車に乗り込んでクーラーを点けた。
住宅街から高速道路へと車を走らせながら、史郎は横目で弥奈子を見た。
「胎内廻りって、そんなにお布施が掛かるものなの?」
「さあ。よくわかりません。あれは単なる私の気持ちなので」
気持ち程度であれだけの大金を支払えるものか。金の出所が気になったが、深く追及はしないことにした。
「それで? どうだった?」
「どうだった、とは」
「あれで満足したのかって訊いてるんだよ」
「そうですね」
弥奈子は前を向き直り、薄っすらと微笑んだ。
「ご縁ができたなら嬉しいですね」
「は?」
弥奈子はもう何も言わない。史郎は顔を顰めた。
「人の趣味にとやかく言うつもりはないけどさ。こういうのは程々にしておきな。ああいう人たちは、搾れる人からはいくらだって搾り取るんだから」
ちょうど隣の車線の車が半ば強引に割り込んできたので、史郎はついつい表情を険しくした。
「……史郎さんは」
「ん?」
「いえ」
弥奈子は言いかけて前を向く。その横顔はなぜか嬉しそうに見えた。
「なに?」
「うん……私、史郎さんみたいなお節介焼き、好きですよ」
「は?」
今のは褒められたのか、馬鹿にされたのか。少なくとも、揶揄われていることだけは間違いない。
こんな時に限って、車の列はノロノロ進む。どこかで事故があったようだ。車内には冷房の吹き出し口に取り付けられた芳香剤の匂いが充満していた。
「絶対これ、俺は付いて行かなくてもよかったでしょ」
進まない列に苛立ちを募らせるうち、ついつい不満が口から零れ出る。弥奈子が振り向いた。
「そんなことありませんよ」
「そんなことあるよ。だってさ、あれ怖かった?」
「怖くは……なかったですけど」
「ほら」
ひとりでは怖いからと言って胎内廻りに付き合わせたくせに、いざ寺を訪れてみると、彼女はちっとも怖がる様子は見せなかった。そのことが密かに史郎の不満を増長させている。階段を下りてからはそんな考えも吹き飛んでしまったけれど、胎内廻りを始める前には、怖がって進めなくなった彼女を保護することだって覚悟していたのに。
「あれだけお布施が払えるんだったら、タクシーでもなんでも呼べただろ」
「はい。でも」
「でも?」
「私、どうしても史郎さんと一緒に行きたかったので」
またしても揶揄われている。
史郎が横目で睨み付けると、弥奈子はふふっと笑った。
「ごめんなさい。私、嫌な子なので」
「はあ」
会話が途切れる。
史郎はこれ以上話すつもりがなかった。駅まで送り届けてしまえば、弥奈子との関係はおしまいだ。そう自分に言い聞かせて、モヤモヤした気持ちを飲み下す。
黙って運転を続ける間に、史郎は奇妙なことに気が付いた。
そういえば、胎内廻りの最中に、自分は弥奈子とすれ違わなかった。
そんなことがあり得るのか?
道は渦巻き型の一本道で、最奥で引き返すようになっていた。つまり、どこかで引き返してくる彼女とすれ違わなければならなかったのだ。それなのに、自分は胎内廻りの最中に弥奈子の気配を一度も感じなかった。物音ひとつ、呼吸ひとつ聞いていない。
じっとりと、気味の悪さが忍び寄ってくる。
史郎はハンドルを握り締め、嫌な考えを払うように頭を振った。弥奈子が奇妙な目つきでこちらを見ていたけれど、それにも気づかなかったふりをする。これ以上このことについて考えるのはよくない気がした。
帰りはすっかり遅くなってしまったので、彼女を家まで送り届けた。弥奈子の家は駅の向こうの市営住宅で、建ち並ぶメゾネットの中のひとつだった。
弥奈子が助手席の窓から車内を覗き込んで言う。
「今日はありがとうございました」
差し出されたのは茶封筒。
「今日のレンタカー代と、高速代とか諸々です」
「いらないよ」
史郎は封筒を突き返した。
「受け取ってください」
「いらないってば。ただ友達と遊びに行ったと思って、そのお金は取っておきな」
弥奈子はしばらく探るように史郎を見つめていたが、やがて折れた。
「わかりました。ありがとうございます」
「うん。それじゃ」
「おやすみなさい」
史郎は車を発進させた。サイドミラーには、いつまでも表に立ってこちらを見送る弥奈子の姿があった。
車をレンタカー屋に返却し、徒歩でアパートへ帰る。
史郎が住むのは築三十七年、鉄骨造のアパートだ。見た目からしてオンボロだが、中は最近フローリングに張り替えたので、住んでいてそれほど古臭い感じはしない。部屋は風呂トイレ別の1DK。いつも寝室で過ごしてしまうので、ダイニングの方はほとんど使っていない。
早速シャワーを浴びて、冷えたビールを飲みながら、史郎はぼんやりと天井を見上げた。シーリングの中には虫が何匹か死んでいる。
なんとも奇妙な一日だった。
本当に、夢だったんじゃないかと思うほど。
史郎はしみじみと額に手をやって、滑らかな手触りに驚いた。ガーゼはシャワーを浴びる際に外してしまったのだが、額には傷ひとつ、瘡蓋ひとつありはしなかった。急いで洗面所に向かい、鏡を覗き込んでみたけれど、怪我をした痕跡は見当たらなかった。
「まじかよ……」
さらりと背筋を撫でる薄気味悪さ。
史郎は缶ビールを飲み干し、すべてを夏の夜のせいにした。




