7話中 怪物
時刻は二十一時を回ったが、信者たちは夜にも務めがあるらしい。昼間見学した部屋のいくつかはまだ明かりが点いており、中から人の声が聞こえていた。
足音を殺して廊下を渡る。階段で二階へ上がった。二階の廊下は電気が点いておらず、薄暗い。
踊り場から廊下に出た時だった。人影に遭遇した。
「あ……っ」
咄嗟に言い訳をしようと身構えるが、目の前に佇んでいた女性は踵を返して消えてしまった。近くの部屋に入ったらしい。
史郎は跳ねた鼓動を落ち着かせようと深呼吸を繰り返しながら、先程の女性に対して引っ掛かりを覚えていた。廊下が暗いので確証はないが、どこかで会ったことがあるような気がする。それはいったいどこでだったか。
どのみち舞原の部屋に向かうには、女性がいた場所を通る必要がある。史郎は恐る恐る進んでいった。
扉が開いていた。先程の女性は確かにこの部屋に入ったように見えたのに、部屋には明かりが点いていない。カーテンの開いた窓から白い月の光が差し込んでいた。
見てしまった。
史郎は叫びそうになるのを必死で堪える。
女性が床に倒れていた。傍らのベッドから転げ落ちたらしい。投げ出された手足に力はなかった。
どこかで嗅いだことのあるような、饐えた臭いと生臭さが鼻に突いた。床に広がった髪の間を赤い液体が埋めていく。
史郎は激しい動揺から、近くの壁に縋りついた。息が上がり、心臓が口から飛び出さんばかりに強く打っている。
女性の顔面に両目はなかった。
抉られているのだ、眼球が。
彼女が着ている寝間着、そして額に開いた大きな傷跡を見て、史郎は彼女が松坂由紀であることを理解した。額に開いた第三の目も、左右の眼球同様抉り取られている。そこから滴った血液により、彼女の痩せた面貌は赤く染まっていた。
死んでいる、と思う。松坂由紀の身にいったい何があったのだろう。血の流れ方からするに、ほんの数分前の出来事だったに違いない。
あれが舞原の言う『手術』の結果なのか。そうだとすれば、あんなものは手術でもなんでもない。
史郎の頭に弥奈子のことが過る。一刻も早く彼女を助け出さなければ。
踏み出した足は震えていたが、史郎はなんとか廊下を進み続けた。
目的の部屋に辿り着く。
舞原の書斎は扉が閉まっていた。中からは光が漏れており、耳を澄ませれば微かな話し声が聞こえてくる。話している二名の内、口数の少ない方は若い女性だ。ここに弥奈子がいるので間違いないだろう。
史郎は思い切って扉を開けた。
驚愕した二対の目が史郎を射抜く。舞原と弥奈子が向かい合って座っていた。ローテーブルを挟んでいるものの、舞原の手は弥奈子の白い手に重ねられている。
怒りが湧き上がった。
「おい、あんた!」
史郎は怒声を上げ、大股で二人のもとへ歩み寄った。舞原が恐怖と困惑を目に映して立ち上がる。
「なっ……なんですか! いきなり入って来て――」
「うるさいッ! その手を離せ!」
史郎が舞原に掴み掛る。弥奈子も立ち上がったが、彼女はオロオロと眉を寄せるだけだった。
「史郎さん、違うんです。あのっ……」
「君は下がってろ!」
史郎は舞原に向かって吼えた。
「あんた、この子に何しようとした? 何を、しようとしていたんだ? 言ってみろ!」
「な、何もしていない! 誤解だ、安宅さん……っ」
その時、もうひとつの人影が部屋に飛び込んできた。
靡いた髪が金の閃光のごとく煌めいて。
一瞬、生臭さが先行したのはなぜだろう。
八塚は史郎を突き飛ばして舞原の前に躍り出ると、その胸に深々とナイフを刺した。
「え……っ?」
史郎は言葉を失っていた。弥奈子は両手で口を押え、大きな目を見開いている。八塚は肩で息をしながら、ゆっくりと舞原から距離を取る。
ちゃちな映画を見ているようだった。それくらい、目の前の光景が理解できない。
よろめいた舞原が自身の体を見下ろしている。鳩尾から突き出したナイフの柄。深々と差し込まれた根本では、シャツに赤い染みが広がりつつあった。
ゆっくりと、膝をつき。
舞原は床に肢体を投げ出して、激しく痙攣を始めた。
「う……そ、だろ……?」
囁いたのは史郎だった。
「あんた、何してんだ……っ!」
史郎は八塚に向かって怒鳴ると、ポケットからスマートフォンを取り出した。救急車を呼ぼうとするが、震える指では上手く番号を選べない。
「あっ」
史郎の手の中から端末が奪われる。八塚が目の前に立っていた。
「駄目だ。こいつは死んでいい」
「死んでいい? なんてこと言うんだ。このままじゃ本当に――」
「こいつは悪党だったんだよ、安宅さん。死んだ方が世のためだ。だから、殺したんだ」
「そんな馬鹿な話があるか! 仮に悪党でも、警察に突き出すのが筋ってものじゃないのか!」
八塚は諦めたように目を細めている。史郎はスマートフォンを取り返そうと手を伸ばした。
突如、酷い頭痛。
史郎は両手で頭を押さえた。真っすぐ立っていられずに、体を丸める。
「あ……ッ、がっ、うう……ッ」
すぐ傍で弥奈子も蹲っているのが見えた。だが、その視界は涙で滲んでいく。
頭痛は脳髄を揺らし、痛みはやがて頭の前面へと移動した。額の皮が、頭蓋骨が、裂けるように痛む。ミシミシと鈍い音が頭蓋に響き、激痛が骨を伝って背筋を貫いた。
「あっ、あああっ……ああああぁぁぁッ――……!」
「いやああぁぁぁぁ――……ッ!」
二人の悲鳴が重なった。
ミシリ、と。
額が割れる。弾力のある球体が弾けるように顔を出す。
第三の目が、開いた。
まるでダムが決壊するように、史郎の脳内に大量の映像が流れ込んできた。濁流は渦を巻き、体の中心に凝縮される。かと思えば、それは際限なく膨張を続け、全身を内側から圧迫した。
花だ。花だ。花だ。
蝶が舞う。鳥が遊ぶ。淡い色の風が吹き、水の音が世界を支配した。小川のせせらぎ。寄せては返す波の音。
混沌の中に、一点の光が生まれた。それは卵形をしており、内部に海を宿していた。巨大な手が針を刺し、それはプツンと破裂する。
奔流。
耳は歓声に満たされる。誰もが歓喜に涙していた。雄叫びだ。戦士が上げる鬨の声は呱呱の声に取って代わり、ひとりの赤子が宇宙の果てで泣き叫んでいた。花が咲く。花が咲く。真理の目は赤子を見つめ、無限が彼に与えられた。
ひとつの文明が始まって終わり、ひとりの人間が生まれて死んだ。太陽が祝福し、月がその死を嘆いて抱いた。
映像は繰り返し、繰り返し。
生と死はぐるぐると巡り、廻り、やがて神の胎内へともどっていった。
神の顔は未だ見えない。
史郎は喘いだ。
頭痛は治まっている。いや、痛みなど超越していた。脳髄へ絶え間なく注ぎ込まれる映像の奔流に、視界も思考も何もかもが揺さぶられている。
生まれ持った目を開ける。
史郎は声も出せずに打ちのめされた。
世界は激変していた。
部屋という存在は失われた。壁も、床も、天井も、絶えず蠢き脈動する肉壁のようだ。視界は極彩色に彩られ、燐光を帯びた蓮の花が咲いては枯れてを繰り返している。天女の集団が床から顔の上半分だけを覗かせて、何かの歌を唱え始めた。
窓があった場所を見れば、月光の下で手招きをする赤い日本の腕が見えた。腕はあまりに巨大なために、持ち主の全貌を窺うことはできない。
そんな歪な世界の中で、唯一姿形を変えないものがあった。
八塚である。
彼は相変わらずのファストファッションに身を包み、ポケットに手を突っ込んで高笑いを上げていた。
その口がニマリと開き、鋭い歯を見せる。
「あーあ。目、開いちゃったね」
彼はとうとう這いつくばってしまった史郎の前にしゃがみ込むと、その顔を嬉しそうに覗き込んだ。
「舞原が死んじゃったから、抑えるものが完全になくなっちゃったんだ。そのうえ俺が傍にいるもんだから、一気に呪いが加速しちゃったんだね」
「な……に、言ってんだ……?」
史郎は酸素を求めて上体を起こした。動に満ちた視界の中で、八塚の顔だけが静を保っている。史郎は吐き気を抑えるために、彼の顔だけを凝視するように努めた。
「俺らみたいなボウってのは低俗な存在だからさ、バクには太刀打ちできないわけ。だから、一生懸命仲間を食べて、力をつけてるの。それを舞原が邪魔ばっかしてくるからさぁ……。いつか殺してやろうって、ずっと機会を狙っていたんだよね」
八塚は史郎の髪を掴むと、にっこりと微笑んだ。
「ありがとう、結界の中に招き入れてくれて。おかげでやつを殺すことができました」
八塚が僅かに身を引いた。長い前髪を掻き上げて、隠れていた額を見せる。そこには赤い切れ込みが入っていた。
八塚の額に粘り気のある光が差した。秘められた目が開いたのだ。切れ込みが割れ、紡錘形の瞳が露わになる。鉄錆色の眼光が史郎を射抜いた。
だが、八塚の変貌はそこで止まらなかった。
額の眼球が頭蓋の奥に引き込まれる。窄まった肉の穴からは、黒い涙が染み出すように、タールのようなものが溢れ出す。徐々に触手を伸ばしたそれは、石の裏に貼り付いたコウガイビルを連想させた。うじゅら、うじゅらと宙を掻き、八塚の額から身をもたげる。
八塚は言った。
「せっかくだ。あんたたちのことも食べさせてもらおうかな」
黒い触手が数を、太さを増していくたびに、八塚の額は縦に裂けた。切れ目は顔面を、喉を、胸を縦断し、ついには体が真っ二つに裂ける。無数の触手を持ち、全身を粘膜に覆われた怪物が、八塚の抜け殻を踏み締めた。
怪物が天に吼える。あたかも空気中の水分を一気に体に吸い込んだかのように、それの全身が膨張した。
咄嗟に体が動いた。弾かれるように身を引いた史郎。見下ろせば、ついさっきまで自分が立っていた場所に怪物の触手が突き刺さっている。
呆然とそれを見下ろしていると、史郎はさらに別の力によって怪物から遠ざけられた。弥奈子が腕を掴んでいた。
「史郎さん……っ」
彼女の顔もはっきりと視認できた。美しい顔に恐怖を浮かべ、三つの瞳から涙を流している。
弥奈子を守らなければ。
史郎は彼女の腕を掴んで立ち上がらせると、一目散に部屋を飛び出した。
何度も壁にぶつかった。手探りで廊下を進むけれど、咲いては枯れる極彩色の幻影に惑わされ、どこに向かえばいいのかわからないのだ。
焦る二人の背後からは、怪物の愉悦するような咆哮が響いている。怪物、つまり八塚だったものは、なおも体積を増しているらしい。膨張したそれは室内に収まりきらず、窓硝子が割れ、家具を踏み潰す音が叫び声に混じっていた。
史郎は目の前に現れた蛇とも龍ともつかない幻覚を掻き消そうと手を振り回しながら、背後の怪物を振り返った。黒い巨体は舞原の書斎からはみ出して、今にもこちらへ突進しようと収縮している。
「くそ……っ」
悪態を吐き、捨て身で前進する。壁に肩を強打した。
「史郎さん! あれは……!」
弥奈子が彼の手を引いた。見ると、そこに女性が立っている。女性は極彩色の幻影に染まることもなく、悲しげな表情で佇んでいた。
「由紀さん……」
史郎は無意識のうちに彼女の名前を読んでいた。由紀の亡霊は微かに頷き、傍らを指差した。
由紀の口が動く。
逃げろ。
私のようになる前に。
史郎は弥奈子を引っ張って、由紀の示す方へ走った。
八塚は「ボウはボウを食って力をつける」と言っていた。第三の目が開き、ボウに成り下がってしまった由紀は、おそらくここで八塚に食われたのだろう。彼女の傍らを通り過ぎる際、蒼白の顔に浮かんだ無念の表情を見た。
階段を下りる際は、今まで以上に慎重にならざるを得なかった。手摺りにしがみ付き、爪先で探り探り一階まで下りる。何度か踏み外しそうになったけれど、やっとのことで一階に辿り着いた。
階上から劈くような由紀の悲鳴が聞こえた。
怪物はもうすぐそこまで迫っている。史郎は再び弥奈子の手を取って駆け出した。
記憶を頼りに渡り廊下の方へ戻ると、開け放たれた扉から流れ込む生温い外気を感じた。そちらへ走る。




