6話前 本部
自身の悲鳴と共に目が覚めた。腕の中で弥奈子がビクリと震えたのがわかる。
「史郎さん?」
暗い個室の中で弥奈子がおずおずとこちらを見上げている。
「大丈夫ですか?」
「ごめん。起こしちゃったね」
「いえ……」
スマートフォンを確認すると、時刻は朝の七時近かった。窓のない個室では昼夜の感覚は掴めない。
目ぼけ眼で体を起こし、そういえばネットカフェにいるのだったと状況を思い出す。ディスプレイの電源は昨日寝る前に切ったのだった。
史郎は寝癖の付いた髪を掻き毟りながら、個室の電気を点けた。隣で弥奈子が身動ぎする。薄っすらと開いた瞳に光が落ちる。
「ん……」
弥奈子は猫のように丸くなり、揃えた腕の間に顔を埋めた。
史郎はスマートフォンに連絡が入っていないかを確認したが、あるのはしつこいアプリのキャンペーン通知だけだった。あとは「今日は出勤できるのか」と問う上司からのメッセージ。素早く「休みます」とだけ送り、通知を切った。
あの後、八塚はどうなったのだろう。言われるがままに彼を置いて逃げて来てしまったが、あれだけ沢山のバケモノを相手に無事でいられるとは思えない。
一応、メッセージアプリで八塚に連絡を入れてみる。しばらく待っても既読の文字は付かなかった。
やはり駄目だったのか。
申し訳なさに目を伏せる。
八塚を外見で「信用ならない」と判断してしまった自分が恥ずかしかった。こうなってしまっては謝ることもできないではないか。せいぜい無事であってくれと祈るけれど、気持ちは酷く空虚だった。
「史郎さん……」
弥奈子が上体を起こそうとして顔を顰める。額に手をやっていた。
「頭が痛いです。割れそう」
「そうだね……。効かないと思うけど、後で鎮痛剤でも買いに行こうか」
痛みで無意識に奥歯を噛み締めていたことに気付き、史郎は意識して緊張を解いた。
ふと見れば、弥奈子の首には赤く帯状の痕が付いている。白い肌に浮かぶコントラストが痛々しかった。史郎は弥奈子の首に手の甲で触れ、悲しげに目を落した。
「それは隠してもらわないとな。包帯か何かも必要だね」
弥奈子は頷き、膝を抱えた。
「……あ」
小さく声を漏らし、彼女はさらに足を引き寄せた。足元を見ないように顔を背ける。
「八塚さんは……退治できなかったみたいですね」
「どうした?」
弥奈子は疲れ切った目で史郎を見上げた。
「あそこ。台の下に、何かいます」
「……本当だ」
ネットカフェの個室は床にマットレスが敷かれていて、テーブル代わりの台の下に足が伸ばせるようになっている。その奥に、黒い泥を纏った何かが蹲っていた。白っぽい肉の塊は水死体を連想させる。同時に強烈な生臭さが鼻を突いた。
「行こう」
史郎は彼女がそれを見ないで済むよう、体で遮りながら言った。
「そうですね……」
ブースを出る。通路にも窓はなく、個室の扉がひたすらに連なっている。どこかから聞こえる掃除機の音だけが、この階に他にも人がいることを実感させた。
「八塚さん、大丈夫かな……」
弥奈子がぽつりと呟いた。それを聞いて史郎はスマートフォンを確かめるが、やはり連絡はない。史郎はあえて答えず、話題を変えた。
「ついでだし、シャワー浴びて行こうか」
「はい」
シャワールームの入り口に設置されていた物販自販機で、下着とレンタルタオルを購入する。頭痛は相変わらず酷いけれど、体に残る汗のベタつきを洗い流すと、だいぶ気分がよくなった。
ネットカフェを出ると、ちょうど駅から通勤通学の会社員や学生たちが出てくるところだった。真っすぐ自分の目的の場所へと向かう彼らを見て、なぜだか悲しみが込み上げた。
「史郎さん、今日のお仕事は?」
弥奈子が史郎を見上げて言った。
「休むって連絡入れた」
「大丈夫なんですか?」
「まあ、今は繁忙期でもないし。こんな状況で働く気になんてなれないしな」
頭痛は酷くなる一方だ。体調不良という言い訳は嘘ではない。
「弥奈子ちゃんは? 学校に連絡入れなくていいの?」
「いいです。サボるのはいつものことなので」
「よくないなぁ」
弥奈子は聞こえないふりをした。
「それで、今日なんだけど」
史郎は交通系ICカードに入金しながら、隣に控える弥奈子に話し掛けた。
「亞慈那導会に行ってみようと思う。どうかな?」
「亞慈那導会って、昨日の新興宗教ですか」
史郎は頷いた。
「他に頼れるところもないし……」
探せばもっとマシな相談相手はいくらでもあるだろう。けれどもう、限界だ。事は一刻を争っていた。頭痛は耐え難いし、再びあの怪物に出会ったらと思うと、怖くて頭がどうにかなりそうだった。弥奈子も反論しなかったので、おそらく彼女も同じ気持ちだろう。
二人は駅舎の隅に寄り、昨日松坂にもらったパンフレットを取り出した。
電話を掛ける。
明るい女性の声が応答した。
〈おはようございます! 亞慈那導会です〉
「恐れ入ります。ええと……」
史郎は少し考えてから切り出した。
「松坂さんという方にそちらをご紹介いただきまして。松坂由紀さんのお母様なんですが」
松坂の名前を出すと、電話口の女性は「ああ」と呟いた。彼女は声を潜める。
〈ひょっとして、超常的な体調不良にお困りですか?〉
「超常的な体調不良?」
一瞬何事かと考えて、史郎はすぐに頷いた。
「……ああ、そうです。変なものを見たり、怪物に襲われたり――」
〈額が酷く痛みますか?〉
「はい。最初はむず痒いだけだったんですが、段々と痛みが耐え難くなって」
史郎は食い気味に答えた。相手はそれだけでこちらの状況をすべて理解してくれたようだった。重苦しい口調で労わりの言葉を掛けてくれる。
〈お気の毒に……。さぞおつらい思いをしておられるでしょう。詳しいお話をさせていただきたいのですが、お電話口では難しいですね。恐れ入りますが、こちらの施設までご足労いただくことはできますか?〉
弥奈子がパンフレットの住所を指差す。隣の県だが、聞いたことのない地名だった。地図を見た限りでも山奥だとわかる。
「お伺いするのはちょっと……」
〈しかし、進度によっては一刻を争いますよ。ただちに処置ができるよう、先にこちらにお越しになった方がいいと思います〉
史郎は唾を呑んだ。「進度」という言葉に震えが走る。女性の意図していることは十二分に伝わった。ちらりと弥奈子を見る。彼女は頷いていた。
「……わかりました。お伺いします」
〈ありがとうございます。本日いらっしゃいますか?〉
「できればそうしたいのですが」
〈かしこまりました。では、最寄り駅までは車でお迎えに上がりますので、何時頃に着くかわかり次第ご連絡をいただけますか?〉
電話口の女性は携帯電話の番号を告げた。
〈そうそう、お名前も頂戴しても?〉
「安宅です。それからもうひとり、連れがいます」
〈お連れ様ですね。承知いたしました。それでは、本日お待ちしております〉
電話を切る。
予想以上に話がスムーズに進んだことで、史郎は半ば拍子抜けしていた。弥奈子が「お疲れ様でした」と言ってパンフレットを差し出す。
「結構遠いな。軽く何か食べてから行こうか」
「そうですね」
二人はいつものファミレスに寄り、朝食を済ませた。
段々と減っていく乗客を数えながら、鈍行に揺られる。地方に行くにつれ乗り継ぎが悪くなり、結局三時間近く掛かってしまった。
辿り着いた駅は畑のど真ん中にあった。土地が余っているのか、付近には巨大な倉庫と工場があるけれど、一見して商店などは見当たらない。遠くに連なる山々が見えた。
駅で降りたのは史郎たちだけだった。駅員もいないので、ICカードだけ読み取らせて駅舎を出る。
ロータリーとも呼べない駅前の駐車スペースに、見覚えのある白いバンが停まっていた。史郎が教えてもらった番号に電話を掛けると、運転席に座る人物が電話を取った。彼はスマートフォンを耳に宛てながら降りてきた。
「安宅さんですか?」
「はい。お待たせしてしまったようで、すみません」
「いえいえ」
男性は小山と名乗った。名前を聞いて、そういえば昨日松坂の家に訪ねてきた三人のうちのひとりだと気付く。
史郎と弥奈子は並んで後部座席に収まった。
「それでは参ります。そうだ、お手洗いは大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「よかった。ここから一時間くらい走りますからね。山道なので、車酔いしないように注意してください」
バンが走り出す。畑の中の道を突っ切って、ぽつぽつと住宅のあるエリアを抜けた。道は徐々に山の方へ向かっていく。
最後のコンビニがある交差点を曲がると、そこから先は緩やかな山道になっていた。道幅は狭く、すれ違うのもやっとといったくらいだが、そもそも対向車はほとんどいない。深緑が木漏れ日を落す中、曲がりくねった道を進み続けた。
道中は誰も口を利かなかった。冷房のゴーッという忙しない音だけが車内に満ちて、車体の揺れが眠気を誘う。いつの間にか史郎は眠りに落ちていた。
呪いは移動中の僅かな時間ですら、史郎に安眠を許さない。
今度の夢は今朝よりも性質が悪かった。本当に。これ以上なく。初めの頃見ていた不可思議で幻想的な夢の数々が恋しくなってしまうほど、今度の夢は史郎を責め苛んだ。
声を掛けられて目を覚ます。
運転席から小山が振り向いていた。
「着きましたよ。どうぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」
史郎は冷や汗を拭う。
相変わらず額は膨張するように痛んだが、今見た夢が現実ではなかったことに安堵する。隣では弥奈子も目を擦っていた。至近距離で目が合って、彼女は恥ずかしそうに目を伏せる。
史郎も目を合わせることができなかった。たった今夢の中で、嬲り、犯し、殺害した相手を間近に見るというのは、誰だって堪えるだろう。史郎は吐き気を覚え、急いで車を降りた。
車から顔を出した途端、山に来たのだと実感した。空気の清涼感が全然違う。蝉の声が反響しているが、それすらもどこか心地いい。思わず伸びをして大きく息を吸い込むと、澄んだ空気が寝ぼけた頭を覚ましてくれた。爽やかな風は嫌な夢の名残さえも吹き飛ばしてくれるようだ。あれほど頭を悩ませていた頭痛までも治ってしまう。
来た道を振り返ると、ちょうど小山が入口の門を閉じるところだった。そこではじめて、史郎は施設の全貌を見た。
亞慈那導会の敷地は山を切り拓いて造られたようで、裏山に半分食い込むような形になっていた。施設の外周は三メートル近くある塀で囲われており、全面が真っ白なペンキで塗られている。今入って来た出入口は鉄格子状の門になっているが、高さがあるので登ることはできないだろう。
気になったことは、塀の裏側にペンキで赤い線が引かれていることだ。それは塀の中央を横断し、塀と共にぐるりと敷地を囲んでいる。ただの模様なのかもしれないが、それにしては無骨過ぎるだろう。
前庭には申し訳程度の花壇があり、敷地の中央にはやはり白く塗られた建物がある。二階建てで、建物自体に目立った特徴はない。一見して、古い公民館か何かのようだ。
正面からではよく見えないが、裏手にも建物があるようだ。そちらも同じく真っ白に塗られている。庭の片隅に物干し竿の群れがあり、何枚もシーツを干しているから、共同の居住スペースがあるのかもしれない。
小山は門に施錠を済ませると、二人を正面の建物へと案内した。
「なんだか随分と厳重ですね」
史郎はさり気なさを装って訊ねた。ついつい視線は塀の方へ彷徨ってしまう。門の左右にはこれ見よがしに監視カメラがあり、人の出入りを制限しているのは明らかだった。
「ああ、あの塀ですか?」
小山は気にする様子もなく答える。
「見ての通り、周りが全部山でしょう? 野生動物が入って来ると困るので。シカやタヌキだったらいいんですけど、クマは怖いですから」
「ははあ。なるほど」
もっともらしい説明だ。しかし、退路を断たれた状態では、真っ当な理由を聞いても落ち着くことなどできはしない。ここが得体の知れない新興宗教の施設内だと意識すればするほど、不安感は募っていった。




