第5話 それでも国は回ると思っていた
最初の異変は、些細なものだった。
「殿下、今月分の支出が合いません」
補佐官の声に、王太子は眉をひそめる。
「そんなはずはないだろう」
「……ですが」
帳簿をめくる。
数字が合わない。
赤字が、じわじわと浮き上がってくる。
――以前なら、こんなことはなかった。
「アリアンナがいなくなっただけで……?」
思わず口に出ると、周囲の空気が凍った。
***
問題は、連鎖する。
地方からの抗議。
貴族同士の衝突。
支援金を約束された平民の不満。
「リュシア様が助けると言ってくれたのに!」
「話が違う!」
彼女は困惑した顔で、王太子を見る。
「殿下……私、そんなつもりじゃ……」
――“つもり”では、国は回らない。
その言葉が、喉まで出かかって、飲み込んだ。
***
重臣の一人が、静かに告げる。
「殿下。アリアンナ様が担っていた調整役は、誰も引き継げておりません」
「なぜだ」
「……誰も、やりたがらないのです」
嫌われ役。
責任を引き受ける仕事。
感情を切り捨てる判断。
それを一手に引き受けていた人物が、消えた。
「彼女は……」
王太子は、拳を握る。
「彼女は、国のために、あそこまで……」
気づくのが、遅すぎた。
***
一方、リュシアは眠れずにいた。
(私は、悪いことをしたの?)
優しくしただけ。
助けたかっただけ。
なのに、
感謝よりも、責める声が増えていく。
「アリアンナ様なら、こうはならなかった」
誰かのその一言が、胸に突き刺さる。
***
数週間後。
王太子は、空になった執務机を見つめていた。
そこには、
きっちり整えられていたはずの書類も、
的確な助言も、
冷静な声も、もうない。
「……国は、回ると思っていた」
小さく呟く。
けれど、現実は違った。
回っていたのではない。
彼女が、回していたのだ。
王都は、静かに、確実に、傾き始めていた。




