286 大腿骨一本、肋骨二本が完全に折れたし
ハルニナが怒鳴り込んでくることもなく、新婚初夜と称してランが忍んでくることもなく、無事に夜が明けた。
まずはスペーシアを見舞わねば。
寝所の板戸を開けると狐が座っていた。
寝ずの番をしてくれていた。
お館様の厚意に頭が下がる。
狐に案内されてランを迎えに行き、スペーシアの元へ向かった。
「あ・な・たぁ、よくお休みになられましたか」
「普通にミリッサと呼べ」
「寝れた?」
「いい酒だった。あんないい酒は飲んだことがない。あれだけ飲んだのに、スカッとしてる」
スペーシアが寝ている部屋は、宮殿左翼の最奥部。裏はすぐに山林、という場所にあった。
窓は開け放たれ、木々の芳香が満ちている。
広い部屋で、何台ものベッドがかなりの間隔をあけて並べられている。
その窓際、ひときわ気持ちのいい場所でスペーシアは眠っていた。
血色はいい。
大怪我をしたとは思えない寝顔だ。
看護師なのか医者なのか、事務机に狐が座っていた。
「ありがとうございます」
「今日一日は目を覚ましませんよ」
特別な薬を処方したという。
「明日、患者さんが目覚めたら、リハビリ開始です。きっと、明後日にはサッカーさえできるようになるでしょう」
「え! そんなに!」
速く回復するものなのか。
大腿骨一本、肋骨二本が完全に折れたし、全身挫傷だと聞いた。
「人間の患者さんは初めてなので、日数はちょっと誤差はあるかもしれませんけど」
「誤差?」
「一日程度は。ま、サッカーは大げさかも。でも、ジョギングくらいはできるようになりますね」
「へえええっ!」
妖の医学、恐るべし。
「お館様にご祈祷もしていただきましたしね。ご心配には及びません」
「なるほど。またお館様に礼を申さねば」
「いいえ。お館様はとても気にされていました。無関係の人間を、突き飛ばして大けがを負わせてしまったことに。どんなことでもして、一刻も早く治して差し上げなさいと命じられております」
「そうだったのですか……」
スペーシアが、あんな時間に曽根崎警察署を訪れた理由はなんとなくわかる。
いつもの、あれだ。
見舞ったポーズ。
「今日は、目を覚まさないのですか?」
「はい。絶対に」
それなら、ここにいてもしようがない。
ランが、
「ミリッサ、朝風呂入る? 昨日、入ってないでしょ」
それとも先に朝ごはん?
と、メイメイと同じようなことを聞いてくる。
なんとなく、どちらも申し訳ないような気がした。
新婚旅行でもあるまいし。
しかし、
「じゃ、朝風呂」
差し出された厚意は素直に受けねば。
ここは妖の館。
妖の流儀で。




