第五章 一人の映画館、二人の記憶
天音の父に別れを告げると、空はゆるやかに茜へと染まり始めていた。
夕暮れの街では、通りのあちこちで屋台の準備が進められ、鉄板の油の匂いと木槌の音が漂ってくる。
一年前と同じ夏が、また巡ってきたのだと痛感する。
けれどこの日、胸を満たしていたのは憂鬱や悲しみではなかった。
確かにそこにあったのは――ただひとつの想い。
「もう一度、あの人に会いたい」
その揺るぎない願いだけが、俺を前へと突き動かしていた。
街を歩き、古びた映画館の前に立つと、いつもと変わらない木枠の扉とひび割れた看板が、静かに迎えてくれた。
軋む階段、擦り切れた木製の椅子、壁に染みついたフィルムの匂い――何もかもが、前と同じだった。
外の通りは夏祭りの準備で賑やかだ。提灯が揺れ、子どもたちの笑い声が響き、屋台の呼び声が遠くまで届く。
その音に混じって、夏の熱気が肌を包み、蓮の胸の奥は、不思議と落ち着いていた。
扉を押し開けると、館内から小さな声が聞こえた。
「あなた、こないだ来た子ね……今日はもうやってないのよ」
小柄な70代くらいの女性が、にこりともせず、淡々と告げる。
蓮は一歩前に出て、必死に声を震わせながら答えた。
「どうしても、観たい映画があるんです……」 「ダメだって言ってるでしょ」
女性は腰に手を当て、眉をひそめた。
「映画なんて毎日やってるわけじゃないの。あんた、若いんだから夏祭りでも行ってきなさいよ」
吐き捨てるように言うと、彼女はくるりと背を向けた。
「ほら、もう帰った帰った。ここに居座ったって、何も出てきやしないんだから」
冷たく突き放される言葉。背を押されるように出口へ追いやられる空気。
けれど蓮は、その場から動けなかった。
(……笑われてもいい。頭がおかしいと思われてもいい。馬鹿にされても、哀れまれてもいい。それでも――)
(ただもう一度あの人に会いたいんだ。ただその姿をこの目で見たいんだ。声を、笑顔を、名前を――全部もう一度確かめたいんだ。たとえ一瞬でも、幻でも、二度と触れられなくても、それでもいい。ただ会いたい。ただ、それだけなんだ)
胸の奥に渦巻く思いが、堰を切ったように喉元から零れ出た。
「以前この映画館で……亡くなった人に、出会えたんです」
その声に、女性の足がぴたりと止まる。
わずかに肩が揺れ、振り返った視線が蓮を射抜いた。
「……バカなこと言うんじゃないよ。死んだ人間が帰ってくるわけないでしょ」
女性は吐き捨てるように言った。
けれど蓮は、首を振った。
「それでも……まだ伝えられてないんです」
「え……?」
声が震える。胸の奥から溢れ出すように、言葉が続いた。
「大事なことを、まだ何ひとつ伝えられてないんです。ありがとうも、ごめんも……そして、好きだってことも。だから、もう一度会いたいんです。ただそれだけでいいんです。ほんの一瞬でいい。届かなくてもいい。けど、このままじゃ……一生、取り残されたままなんです」
必死に絞り出すその言葉が、静まり返った空間に重く落ちた。
女性は目を見開き、固まったように動けなくなる。――戦争で夫を亡くしたあの日。
最後の朝に交わした言葉は、どこかすれ違ったままだった。
「また帰ってくるから」と笑った夫に、素直に「行かないで」と言えなかった。
それが胸に焼き付いて、何十年経っても消えなかった。
ある夜、夫を思い出したくて、営業を終えた映画館にひとり残った。
誰もいない暗い館内。古いフィルムを回し、戦争を描いた作品を眺めていた。
画面に映る光と影の中に、当時の記憶があふれ出す。砲声、砂煙、兵士の背中。涙がにじみ、まぶたが重くなっていった。
――ふと、意識が途切れた。
目を覚ましたとき、スクリーンの前に「見覚えのある背中」があった。
軍服の裾、癖のある短い髪、少し猫背の立ち姿。
思わず息を呑む。
それは、夫だった。
彼は振り返りもせず、いつものように身支度を整えると、穏やかな声で言った。
「じゃあ、行ってくるよ」
あの日と同じ、変わらない調子で。
「待って……!」
思わず声が震えた。だが、朝の光と家の静寂に混ざり、かすかにかき消される。――あの日、伝えられなかった言葉が、胸の奥で爆発した。
「好きだよ……一緒に生きたい……もっとあなたと話したい……愛してる……!」
声に出せない言葉は、心の中で渦巻き、熱を帯びる。
目の前の背中は微動だにせず、でも彼の存在が、確かにここにあることを、全身で感じた。
その瞬間、夫は少し照れくさそうに振り返り、目を細めた。
「……そんなふうに言われたら、帰ってこれなくなるだろ。でも、ずっと君の中にいるよ」
思わず、私は彼に抱きついた。
その一瞬で、長く胸に閉じ込めていた後悔も、痛みも、すっと溶けていくようだった。
涙は止まり、背中に伝わる温もりと明るさが、心の奥を満たす。
そして次の瞬間、世界はふわりと揺れ、スクリーンの光とともに現実に戻った。
古びた映画館の木製の椅子、ひび割れた壁、そして朝の光が差し込む静かな館内――
すべてが、確かにここにあった。蓮は深く息をつき、まだ胸に残るざわつきを感じながらも、少しだけ気持ちを落ち着けた。
「……今日は、諦めます。すいません。また後日、来ます」
オーナーは少し驚いたように蓮を見つめ、長くため息をついた。
「……うん。そうか……あんたも、映画の世界に入ったんだな」
蓮は少し驚きながらも、その声の重みを感じた。
オーナーも、かつて自分と同じように、大切な人に伝えられなかった思いを胸に抱えていたのだろう。
頑固なオーナーの瞳に、わずかに柔らかさが浮かんだ。
「……いいだろう。あんた一人で見るんだよ。今日は特別」
そう言うと、オーナーは静かに蓮をスクリーンの前に導き、一言も発さずに館内の奥へと歩き去った。
扉の音が静かに閉まると、館内には蓮ひとりだけ。夏祭りの喧騒も、外の光も、すべて遮られ、映画館だけが静かに呼吸しているようだった。




