第四章 夏祭りと命日の街
スクリーンに映る最後の光が消え、暗闇を切り裂くようにクレジットが流れていた。
蓮は椅子に深く沈み込み、涙でぼやけた視界の中で現実に引き戻される。
映画の中で過ごした時間は終わり、天音の声はもうどこにもない。
胸に残る温もりと、あの日の夜の記憶――
抱きしめた感触、花火の光、提灯の揺らめき――
それらを胸に刻みながら、蓮はゆっくりと立ち上がる。
足取りは重く、意識は霞んだまま。
まるで身体の芯を抜かれたように、無気力なまま映画館の扉へ向かう。
扉を押し開けた瞬間、夏の熱気が頬を撫でた。
通りには色とりどりの提灯の骨組みが吊り下げられ、櫓の準備をする人々の声が響く。
――ああ、そうか。今年も、この時期が来たんだ。
この街の夏祭りは、天音と最後に歩いた夜。
そして、彼女が帰らぬ人となった――命日でもある。
「……今年も、一緒に行きたかったな」
独り言のように漏らした声は、騒がしい街のざわめきに紛れて消えた。
胸の奥は重く、足取りは鉛のように鈍い。
映画館で涙を流した後の現実は、焦燥と無気力だけを残していた。
空を仰ぎ、提灯の赤や、まだ灯されていない電球の白を眺める。
それらはあの日と同じ景色で、夏の匂いを運んでくる。
蓮は無意識に深呼吸をし、記憶の波に身を委ねながら、街を歩き出す。
そんな蓮の姿を、映画館の奥から一人の女がじっと見つめていた。
館のオーナー。
年老いた瞳に、若者の背中が小さく映り込む。
「……なんだ、この若者は」
ぽつりと呟いた声も、夏の空気に溶けて消えた。
⸻
五日後、八月七日。
蓮は花束を抱え、墓前に立っていた。蝉の声がうるさいほどに鳴いている。
静かに手を合わせていると、背後から足音が近づいた。
顔を上げると、スーツ姿の男――天音の父だった。
「……君は、天音の友達か?」
その声音は、どこか事務的で、感情はほとんど感じられない。
蓮は返答できず、唇を噛んだ。
(……やっぱり。何も知らないじゃないか)
――その瞬間、映画の世界で話した天音との会話が鮮やかに蘇る。
「ねえ、蓮」
浴衣姿の天音が、夏祭りの帰り道でふっと真顔になる。
「うちね、母さんは私が小さい頃に死んじゃって……ずっと父さんと二人だったの」
「……そうだったんだ」
「母さんの顔はもうよく思い出せないから、絵の中の母さんは、いつもぼやけてるけど……描かずにはいられなくて」
街灯の明かりに照らされたその横顔は、泣き出すのをこらえているように見えた。
「でも、父さんは仕事ばっかで、ほとんど家にいなかった。朝出て、夜中に帰ってくる。
だから、私はいつも一人で絵を描いてたの。
絵を描いてるとね、少しだけ寂しいのを忘れられたから」
――墓前に立つ父親の無表情な横顔が重なる。
蓮は拳を握り、胸に突き刺さる思い出と向き合った。
「……あんた、知らないだろ!
天音は、一人でずっと、寂しさを紛らわすために絵を描いて、待ってたんだ!
誰もいない部屋で、誰にも見せずに、ただ孤独に――!」
声が震え、嗚咽まじりに続く。
「ずっと一人で……!
なんであんな映画にしたんだよ!
天音の人生を、金儲けの道具にするために……!」
涙が頬を伝い、胸の奥の怒りと悔しさが全身を揺さぶる。
蝉の声がやけに大きく、夏の空気に押しつぶされそうになる。
父親は、墓の向こうで微動だにせず、表情を変えない。
長年の抑圧と無感情、頑なさがその顔に刻まれている。
その沈黙が、逆に蓮をさらに追い詰めた。
蓮は拳を握り、肩を震わせながら最後の力を振り絞る。
「天音は……ずっと、寂しかったんだ!」
その瞬間、父親の脳裏に一枚の絵が鮮やかに浮かんだ。
父、母、天音自身の姿が画用紙に並び、夜空には花火が大きく描かれていた。
窓の外から差し込む夏の光が、紙の上の色彩を温かく照らす。
その笑顔と絵に、孤独ではなく小さな希望と幸福が混じり合っていたことを、父は鮮明に思い出した。
父親の頬を、一筋の涙が静かに伝う。
無表情だった顔に、初めて感情の揺らぎが映った。
蓮は息をのんだまま、父の目に浮かぶ涙を見つめる。
蝉の声が途切れることなく降り注ぎ、木漏れ日が墓石に差し込む。
重くも温かい夏の空気が、二人を包んで流れた。
父親はしばらく空を見上げたまま、言葉を探しているようだった。
蓮の怒りと涙が落ち着くのを待つかのように、静かな時間が流れる。
やがて低くつぶやく声。
「……あの映画を作ったのは、決して金のためじゃない。
天音の人生を、永遠に残したかっただけだ。
あの子が、どんな小さな瞬間にも輝きを持っていたことを、誰かに知ってほしかった」
蓮は言葉を飲み込む。怒りはまだ心に渦巻いているが、父の口から初めて届いた気持ちに、わずかに息が詰まった。
父親は続ける。
「もし……もし天音に、もう一度会えるなら……
『ありがとう』と言いたい。
あの子がいてくれた日々のすべてに、感謝したい」
そして、ポケットから小さな箱を取り出す。中には、細いブレスレット。
「これは……昔、天音が私にくれたものだ。
よければ、君に預けてもいいかな」
蓮は目を見開き、息をのむ。手に取ったブレスレットは、微かに温かさを残しており、胸にぎゅっと迫った。
その声は、墓前の蝉の声と夏の光に溶け込むようで、静かに蓮の胸を打った。
長い沈黙の後、二人はただ並んで立ち、蝉の声と木漏れ日に包まれた。
怒りと悲しみ、そしてわずかな和解の感覚が、夏の空気の中に溶けていった




