第三章 花火は二度と同じ空に咲かない
夏の夜の匂いが肌にまとわりつく。
屋台の灯りが揺れ、提灯の光が通りをオレンジに染める。
空には花火がぱっと開き、火薬の匂いだけを残して散っていった。
「……蓮?」
振り向くと、天音が立っていた。
浴衣の裾が揺れ、風に乱れた髪が頬にかかる。
その表情は驚きよりも、少し呆れを含んだようなものだった。
「え、なに? どうしたの?」
――俺の胸の高鳴りを、まるで他人事みたいに受け止める声。
言葉より先に体が動き、俺は駆け寄っていた。
肩が触れ、胸が重なる。心臓がぎゅっと痛む。
「ずっと……逢いたかった……!」
震える声とともに涙がこぼれ、俺は天音を抱きしめた。
天音はびくりと肩をすくめ、少し笑った。
「え、えっと……なに、急に……」
それでも彼女の手は、拒むでもなく、受け入れるでもなく、ただそこにあった。
背中の温もりが確かに現実を刻む。
――嬉しい。
心も体も跳ねるように喜んでいる。
だが同時に、胸の奥に小さな違和感が芽生える。
――なんだ、この既視感は。
どこかで見た景色。聞いたことのある声。
忘れてはいけない何かを、俺は思い出せずにいる。
川面に映る花火が揺れ、二人の影を絡める。
ざわつく感覚を押し殺し、ただ彼女を抱きしめた。
夜風が浴衣を揺らし、夏の匂いが鼻をくすぐる。
天音は肩越しに小さく笑った。
「……ほんと、なにしてるの、蓮?」
その声を胸に刻みながら、俺は彼女を強く抱きしめた。
花火が弾けるたび、二人の心臓も少しだけ弾んでいるように思えた。
――あの日の夏祭り。あの夜の香りと音が、ふと蘇る。
「ねえ、蓮、かき氷食べようよ!」
天音が目を輝かせ、屋台の前ではしゃぐ。
「え、でも……俺、甘いのあんまり……」
「もう、ほんと臆病なんだから! 一口だけでいいから!」
笑いながら差し出された手に、俺は仕方なく従う。
冷たく甘い感触が口いっぱいに広がり、夜空へと溶けていった。
「……あ、意外とおいしい」
「でしょ? ほら、笑ってごらんよ」
その笑顔に釣られて、俺も思わず笑っていた。
浴衣が揺れ、花火の光が頬を照らす。
「蓮、花火、きれいだね」
「……ああ、本当に」
心臓が小さく跳ねる。言葉にできない感情が胸を締めつけた。
けれど、その昂ぶりの裏でざわめきは強まる。
――俺は大事なことを、忘れている。
祭りの帰り道。
並んで歩いたあとにたどり着いた分かれ道。
左が俺の家、右が天音の家。
「じゃあね」と笑って手を振った彼女の後ろ姿。
――そうだ。あのとき俺は立ち尽くしていた。
本当は呼び止めたかったのに。伝えたい想いがあったのに。
ただ笑って返すことしかできなかった。
記憶が押し寄せ、胸を締めつける。
そして理解する。
――そうか、この後、彼女は――
慌てて振り向く。
「天音ッ!」
その瞬間、眩しい光と金属のきしむ音。
赤いライトが彼女を包み込む。
――事故。交通事故。
次の瞬間、目が覚めた。
スクリーンにはエンドロール。館内の静けさの中で、映画の光だけが揺れている。
頬を涙が伝っていた。
――思い出した。俺がこの作品を嫌いだった理由。
結末は変えられるはずなのに、天音の父は彼女を死なせる道を選んだ。
彼女は救われない。
胸の奥から、あの日伝えられなかった想いが込み上げる。
「……俺はまた、伝えられなかったんだ」
涙は止まらない。スクリーンの光に反射してきらめく。
あの夏の夜の風景、花火、提灯――すべてが焼きついて離れない。
もう一度、彼女に触れることはできないのだ。
静まり返った映画館で、俺は拳を胸に押し当てた。
――それでも心の奥で、あの夜の温もりを強く抱きしめていた。




