すれ違い5センチメートル
第一章:5センチの距離
電車がホームに滑り込むと、彼女はそっと一歩下がる。
その瞬間、彼女と僕の間にできる隙間――5センチ。
「今日も……いるな」
高校1年の春から、ずっと同じ時間、同じ車両。
話したことは一度もない。けれど、朝7:32のホームにはいつも彼女がいた。
耳にはワイヤレスイヤホン。黒髪をゆるく結んで、鞄には小さなくまのキーホルダー。
僕は彼女を、いつの間にか“好きになっていた”。
第二章:届かない声
一歩、話しかけようと思った日。
電車のアナウンスがかき消した。
別の日、手紙を書いたけれど、渡せなかった。
ポケットの中の小さな封筒は、皺だらけになっていった。
僕たちは毎朝、たった5センチを縮めることができなかった。
でも、ある日――彼女が初めてこちらを見て、微笑んだ。
「……おはようございます」
それが、最初で最後の会話になるとは、思ってもみなかった。
第三章:いなくなった朝
春休みをはさんで、新学期。
僕は少しだけ髪を切って、勇気を出す準備をしていた。
「明日、名前を聞こう」
でも――その朝、彼女はもう、ホームにいなかった。
1週間経っても、1ヶ月経っても、姿はなかった。
知らない。名前も、学校も、連絡先も。
僕はたった5センチの間に、彼女を残したまま、春を終えた。
エピローグ:君を探していた
春。
去年と同じ季節、同じ時間、同じ駅。
でも僕は、もう電車には乗っていなかった。
あれからずっと、彼女は現れなかった。
名前も、学校も、住んでいる場所も、なにひとつわからない。
でも“忘れる”という選択肢だけは、僕の中に存在しなかった。
ある朝、ホームを何気なく歩いていたときだった。
改札の外、ベンチの上に――見覚えのあるものがあった。
小さな、白いくまのキーホルダー。
鼓動が跳ね上がる。僕は迷いなくその前へ走った。
そこに、いた。
長くなった髪。ほんの少し、大人びた表情。
けれど目が合った瞬間、1年前と同じ、あの笑顔だった。
「……もしかして、毎朝、同じ電車だった人?」
彼女の声が震えていた。僕の喉も、言葉にならなかった。
「……うん。君をずっと、5センチ後ろで見てた」
「私も……気づいてた。声をかけたくて、でも怖くて。
その日……“名前を聞いてほしい”って思ってたんだよ」
言葉の間に、たくさんの“もし”が溶けていく。
話せなかった過去が、今ようやく、息を吹き返していく。
「私、引っ越してたの。おばあちゃんの介護で急に……。でもずっと、戻ってきたら……また会えるかなって思ってた」
僕はポケットから、あの皺だらけの封筒を取り出した。
「これ、君に渡したかった。ずっと前に書いたんだ」
中には、短い手紙が入っている。
君の名前を知らないけど、
君がいる朝が、ぼくの一日を好きにしてくれます。
もし名前を教えてくれたら、今度はちゃんと“隣”に立たせてください。
彼女はそれを読み終えると、涙をこぼしながら微笑んだ。
「……じゃあ、教えるね。
わたし、“春咲あやか”っていうの。ちょっと変な名前だけど」
「春咲あやか。……覚えたよ。何回でも、呼びたくなる名前だ」
そっと、彼女が僕の横に立つ。
かつての5センチは、もうどこにもなかった。
「これからは、もう“すれ違い”じゃなくて――“並んで”歩こう?」
「うん。となりにいてくれるなら、それだけでいい」
電車が通り過ぎた風が、春の匂いを運んでくる。
僕たちはまだ、名前を交わしたばかりのふたり。
でも、間違いなく“ここから”始まるのだと、確信していた。
――春の出会いは、たった5センチの奇跡から生まれた。




