エピローグ 相
忙しい足音が聞こえなくなり、階段の踊り場に静寂が訪れる。こちらを振り向いた桂はその整った顔から完璧な笑顔を消す。
(あれ、兄さんってこんなに背が高かったっけ?)
多希は冷たさを感じ、足元に視線をやった。気づいた時にはもう、その場にべったりと座り込んでいた。立ちあがろうにも上手く力が入らない。
すたすたとこちらに来た桂は膝をつき、多希に目の高さを合わせる。黒い手袋をつけた手でさらりと頬を撫でられた。
(あの……? くすぐったいです)
そう言おうにも口が動かない。表情筋が機能を失っている。
「立てるか?」
刺々しく、怒りが滲んでいる桂の声に、先ほどまでの分かりやすい心配はない。その怒りの矛先は千代に向けられているのだろうか。
もう一度チャレンジしてみるが、やはり力は入らない。
多希はふるふると首を振る。
「そうか。……行くぞ」
(え?)
立てないのにどうやってと考える前、もう一歩近づいてきた桂に補助され立たされる。体が上がったと思ったら、背中と膝裏で抱え直された。
突然の浮遊感に驚き、近くにあったものに抱きつく。すると真横から、ふっ、と笑い声がした。
「そのまま抱きついておけよ?」
「……ぇ?」
多希が抱きついたもの、それは桂の首だった。顔が熱くなり、ぱくぱくと口を動かす。
(この状況ってどう考えても……え? これ、いわゆるお姫様抱っこだよね? どうして? あ、私が立てないからか。でも他にもやりようありましたよね?)
心の中でぐちぐちと言っている間にも、多希を抱えた桂はすたすたと階段をおりていく。危なげがないどころか、安定感が抜群だ。
放課後の時間、生徒は部活動に行ったり帰ったりしているおかげか、誰ともすれ違うことはない。職員室の前にある焦茶色のベンチに降ろされる。
「少し待ってろ」
桂はぶっきらぼうに言い、完璧な笑顔に切り替えて職員室へ入っていく。
(切り替えが早すぎる……)
数分後、黒い手提げカバンを持った彼は、校長を連れて職員室から出てきた。校長は気遣わし気な表情をして、こちらへ歩いてくる。
「多希さん、糸井先生から事情は聞きました。大丈夫……ではないと思いますので、ゆっくり休んでください。私も他の先生も、困った時など、いつでもお話を聴きますからね」
座っている多希に目線を合わせ、校長は言う。多希はぺこりと頭を下げ、感謝を伝えた。
校長が職員室に戻ると、隙のない笑顔を浮かべる桂が近づいてくる。その後ろからいくつか心配の視線が向けられていた。
(……なるほど)
桂の刺々しい姿はそう易々と明かしているものではないようだ。同僚の教師にもそれは変わらない。
「さあ、帰りましょうか」
黒い手袋が似合うすらりとした手を差し伸べられる。
声色は多希を気遣っているようだが、漆黒の瞳は手を取れと言わんばかりに冷たく光っていた。
(兄さ……先生の手を取らない選択肢なんてないのに)
散々「兄さん」と呼んでいたが、ここは学校。一応「先生」と心の中で言い直した。
この学校で多希に手を差し伸べる人はただ一人、桂だけ。他の人は皆、手を振り払うか、他人事として傍観するのみ。
多希は差し出された左手に迷うことなく右手を重ねた。
「——お邪魔します」
「ああ」
教室に置いていた多希のカバンを回収した後、桂に連れてこられたのは、雪椿学園高校から車でおよそ15分のところにあるマンションの一室。桂の家だ。
ダークブラウンのフローリングに白とアッシュグレーの壁。家具は黒、グレー、白でまとめられており、ほこりひとつ見当たらない。一人暮らしをするには少し広めの部屋は隅々まで整っている。
(帰るってそういうことだったんですか!? 確かに兄さんからしてみれば帰ってますけど……? これは、……大丈夫な状況ですか?)
多希は、案内されたソファーに浅く腰掛ける。徐々に回復してきた笑顔の仮面をつけながらも、これ以上ないほどに混乱していた。だんだんと力が入るようになってきた体と表情は強張っている。
ジャケットを脱ぎ、手袋を取った桂は、黒い棚から両手に乗る大きさの箱を持ってきた。多希の足元にそれを置き、彼自身も膝をついて座る。
「……あの?」
「右足首、怪我しているだろう?」
言われたところに意識をやると、確かにずきずきとした痛みがあった。
「本当だ……」
「歩き方がおかしかったからな」
どうして分かったのか、口に出していない多希の疑問に簡潔に答え、右足の靴下を脱がされる。慌てて止めるが彼は何も言わない。足を引っ込めようにもその手で固定されている。
(これ何言ってもダメなやつだ……)
抵抗を諦めた多希はされるがままだ。桂は立ち上がり、キッチンの冷凍庫から氷嚢を持ってくる。そしてそっと患部に当てた。
じんわりと熱を持っていた足首が冷やされていく。
落ち着いて考えてみると疑問だらけのこの状況。しばらく視線をうろつかせた後、多希は黙々と処置を続けていく桂に向けて口を開いた。
「あの、兄さん」
「ん、なんだ?」
ふっと顔を上げた桂と視線が合う。その瞳には不安気な表情をした多希が映っている。
「この状況って大丈夫なんでしょうか?」
(とても大丈夫じゃない気がする……)
桂が昨日言っていた考え、なぜ階段から落ちかけた多希を助けることができたのか、突然変わった彼の様子……、聞きたいことはいくつもある。多希はその中でも聞きやすいことを選んだ。
真剣な様子の多希に一瞬目を見張った桂は、ふっと嗤って言う。
「逆に聞くが、お前にとって俺はどういう立場の人間だ?」
(どういう立場って、そんなの……)
「担任の先生で義理の兄ですけど……あ」
「そういうことだ」
ただの担任であれば大問題だが、義理とはいえれっきとした家族。家族の家に行くのに何の問題があるだろうか。ぐうの音も出ない正論に多希は頷くしかない。
再びの沈黙に支配される前に彼女は口を開く。
「もう一つ聞くんですけど、昨日言っていた考えって何だったんですか? 千代さん、私が突き飛ばされたと兄さんに言ったことを知ってたような口ぶりだったんですが」
「それはそうだろう。新宮千代たちには分かりやすく言ったらからな。だがまさかあそこまでやるとは、これも想定外だ」
分かりやすく、と言った桂の声を聞いてぞくりと肌が粟立つ。表情は何も変わらなかったが、その瞬間だけ強い怒りが込められていた。
(千代さんたち、兄さんから何言われたの? ……考えないほうがいいか)
その部分についての思考を放棄した多希は、ふとした疑問を口に出す。
「……私が階段から落ちてたらどうするつもりだったんですか?」
「それはありえない。目を離さないようにしていたからな」
(それって監視というものでは)
認めてしまったら何も信じられなくなる、多希はすぐさま首を振って否定した。
もしも見失っていたら、目を離していたら……、一瞬過った考えは目の前の桂を見て消え失せる。彼がそんな失敗をするわけがないのだ。
桂が手を離した足首は綺麗に包帯で固定されていた。彼は、使った包帯の残りとはさみを箱に戻し、多希の隣に腰掛ける。その重さでソファーは少し沈んだ。
ゆっくりと伸びてきた手は多希の頭に着地する。リズムよく優しく撫でられる感覚は9年前の「兄さん」そっくり。
ちらりと表情を窺った桂は静かに笑っていた。その瞳の奥底には穏やかな光がある。
(そっ、か。兄さん、こっちが素の姿なんだ)
完璧な笑顔を浮かべている姿はいわゆる外面だろう。目の奥底が冷たく、感情が見えないのは素の姿を隠しているから。
そう考えついた時、すっと記憶が落ちてくる。
「兄さんってもしかして……」
ぽろりと口に出た言葉に、桂は笑う、くつくつと声を上げて笑う。
「お前を傷つけていいのは俺だけで癒していいのも俺だけだ」
高校の制服を着た彼と、目の前の黒いシャツを着て楕円形のメガネをかけた彼。その表情と声が重なる。
年齢、纏うもの、髪型……、変化したものは多いが、9年前、「兄さん」が言ったことと一言一句同じだ。
「俺が素を明かすのはこれまでもこれからもお前だけだ、多希。まあ、一部例外はあるがな? だが、全てはお前を守るためだな」
「どうして、そこまで……?」
(私、兄さんからそこまで言われるようなことしたかな)
「なんだ、それも覚えていないのか。初めて会った時、俺に言っただろ? 『無理して笑わなくて良いんだ』って」
「……っ!」
9年前、秘密基地で出会った目だけが笑っていない「兄さん」、多希の代わりに怒ってくれた「兄さん」、ぶっきらぼうだけど優しく怪我の手当てをしてくれた「兄さん」……。
堰き止めていた川の水が溢れ出すように、「兄さん」との記憶が脳裏を巡る。
(どうして忘れてたの? あの時、ずたずただった私の心を助けてくれたのは桂兄さんなのに)
握り締めた手はくすんだ赤のジャンバースカートにしわを作る。それをそっと解いたのは温かい彼の手だった。
「聞いてなかったか? お前を傷つけていいのは俺だけで癒していいのも俺だけだ。たとえお前自身であっても、傷つけるのは許さない」
瞳の奥底から微笑んでいる桂が、じわりとぼやける。瞬きをすると温かいものが頬を伝った。
泣くな、と涙を拭われる。その手はどうしようもないほどに優しい。
(言ってること、めちゃくちゃなのにな)
体に入った余計な力が抜けていく。多希は笑って言った。
「9年前も、今も、助けてくれてありがとうございます。桂兄さんがいなかったら、きっと、私はここにいませんから。……だから、ありがとうございます」
「当然だ。お前は俺の唯一だからな。誰にも渡さない俺の多希。……誰にも見せたくない俺だけの多希」
そう言って、桂は嗤う、整った顔を歪ませて嗤う。
その冷たく光る感情が見えない瞳に多希は笑いかけた。
(——全てが仕組まれていたものだとしても、それでも、私には兄さんしかいないんだから)
【end.】