第4話 正
(変わらない……)
教壇に立ち、おはようございますと挨拶する桂は普段と何も変わらない。朝日に照らされ、完璧な笑顔を浮かべる姿は絵画のよう。その瞳の奥底は冷たい。
昨日の出来事が、刺々しさ溢れる彼が夢だったのではないかと思うほどに変わっていないのだ。
が、校舎裏で突き飛ばしてきたあの4人組はちらちらと多希に視線を向けている。この状況が昨日あったことは現実だと告げている。
内心どぎまぎしながらも多希は微笑む。形を忘れていた仮面は元に戻り、何もなかったように着席している。ホームルームが進む中、彼女は思考の海に入っていた。
(先生が言ってた考えって何だろう。……本当に、何だろう)
桂の企むように嗤う姿が目に浮かび、びくりと体を震わせる。その時、彼の鋭い視線が多希を射抜く。嘘や隠し事が通じないその瞳は、突然震えた多希を案じていた。
(変わってる……)
変わっていない、なんてことはなかった。一瞬だけ、彼の表情から完璧な笑顔が消える。多希はわずかに目を見張る。普段であれば桂がこれほど分かりやすく感情を出すはずがない。
それに気づいた者は多希以外にも3人いた。昨日多希を取り囲んだうちの3人、千代以外の3人は、動かなくなったり、ぷるぷると震え出したり、気のせいかと二度見をしていたり。その反応は三者三様だ。
(先生のことだから、あの3人だけが気づくようにしてたり……? まさか、ね?)
朝のホームルームが終わり、授業が始まり、昼休みが過ぎ……、呆気ないほど何もなく、気づけば放課後の時間。
(久しぶりにこんな平和な1日だったかも……。このまま穏やかに終わってくれないかな)
そうも都合よくいかないのが現実というものだ。つかつかと近づいてくる足音は多希の机の前で止まる。
「多希さん、着いてきて」
絞り出すように言った千代は、必死の形相をしている。その表情は溢れ出しそうな感情を堪えるようにぎゅっと力が入っていた。
普段であればその横にいるはずの3人は、教室の引き戸のそばからこちらを窺っている。昨日とは対照的な不安気な表情を隠せていない。
(え……、何かあったの?)
桂が何かをしたのかもしれない、過った考えを確かめるにも、当の本人の姿はこの教室に見えない。
「……着いてきて!」
びくりと多希の体は震える。
しびれを切らし、突然大声を出した千代にクラス内の視線は集まった。
(大丈夫、……大丈夫だから。あの時とは違う)
「分か、りました」
多希は、かろうじて外れていなかった笑顔の仮面を被り直し、震える左手を右手で掴む。ぎこちなく立ち上がり、椅子を机に入れ、早足な千代を追いかけた。
「千代ちゃん! さすがにまずいって」
「そうだよ、やめておこう?」
「ほら、糸井先生に言われたでしょ?」
教室を出る直前、引き戸のそばにいる3人に止められる。顔色が悪い彼女らの言葉に千代は何も返さない。
無言で教室を出た彼女に、多希は着いていくしかなかった。
(先生が何かしたんですか? どこに行くんですか?)
そう訊ける雰囲気ではない。多希はただ、同世代にしては小さめの背中を追いかける。
無言ですたすたと廊下を歩く二人に、周りの生徒たちは珍しいものを見るひしひしとした視線を向ける。その中から、一つ、刺さるような視線を感じた。
千代が足を止めたのは、3階と2階を繋げる階段の踊り場。ここは校舎の端にあり、放課後の時間帯は滅多に人が通らない。
背中を向けていた彼女はこちらに振り返った。同時に手が伸びてくる。
「っ!?」
多希は肩を押され、一歩後ろによろめく。ばくばくと鳴る心臓を慌てて宥める。
(大丈夫。今は9年前じゃない、ここは校舎裏じゃない。相手に何もかもが敵わないわけじゃない。大丈夫。……大丈夫)
狭まり始めた気道が苦しくて、浅い呼吸を繰り返す。
目の前の千代は泣いていた。ぐちゃぐちゃな表情をしていた。
「どうして? どうしてなの? ねぇ、あなたばかり。あなたのせいであたしは糸井先生に嫌われたの!」
千代が一歩近づく。火山のように溢れ出す感情は止まることを知らない。
多希は一歩下がる。冷や汗が背を伝う。冷たくなった手が震える。
(怖い、……怖い。千代さんは私のせいでこんなにも)
「いじめはよくないですねって怒られた! 失望された! 絶対に嫌われた! 糸井先生から怒られたことなんてなかったのに、あんなに冷たい目で見られたことなんてなかったのに、今までみんなに平等でみんなに優しかったのに……。転入生で義妹だからってあなたばかり。あたしは、ただ、それは良くないと思って注意していただけなのに……!」
また一歩近づく。茶色がかった髪が言葉と共に揺れる。怒りと悲しみと無力感に支配される。
また一歩下がる。心臓がこれ以上ないくらいに動く。酸素が足りない。
(私、私のせい……、え、あ……、どうすれば)
「憧れの糸井先生に嫌われたの! 全部、……ぜんぶ、あなたのせいよ!」
また一歩近づく。思い切り突き飛ばす。
また一歩下がる。肩を押される。重心が後ろに傾く。
「……ぁ」
あるはずの地面がなかった。多希の足は宙を踏む。
こちらへ伸ばされた手を掴もうとするが、数センチのところで届かない。汚れひとつない壁が、天井が過ぎていく。ふわりと体が投げ出される。
(たすけて)
頭に浮かんだのは一人の男性。まっすぐな黒髪はセットされており、漆黒の瞳は鋭い光を宿す。高校の制服を纏った彼も、真っ黒なスーツを纏った彼も、これでもかと整った顔を歪め、嗤う。
(……落ちる)
多希はぎゅっと目を瞑った。
どさっ、と衝撃を感じた背中は予想に反して温かい。近くにある自分のものではない心臓はどくどくと早鐘を打っている。
おそるおそる目を開けた多希は、階段の真ん中辺りで黒い手袋を嵌めた人に抱き抱えられていた。
(助かった?)
「……大丈夫ですか、多希?」
耳の近くから聞こえてきたのは、心地よい低音の声。顔を上げると、荒く呼吸をする桂と目が合った。
「にいさ、ん」
「はい」
桂は相変わらずの完璧な笑顔を浮かべている。その瞳の奥底にはいつもの冷たさと同時に安堵が見えた。
(たすかった? たすけてくれた?)
「にぃさん……、兄さん」
「はい、そうですよ」
(どうして、ここに……?)
「怪我はありませんか?」
微笑む桂から、疑問を口に出す暇は与えられなかった。
優しい声はこの状況が現実だと知らせてくる。階段から落ちた後に見ている幻覚などではなく、現実だ。
全身に意識を巡らせてみるが痛みは感じない。
「大丈夫、だと思います」
「それはよかった……、一人で立てますか?」
ふぅと息をついた桂の手を借りながら、ゆっくりと立つ。千代がいる階段の踊り場まで歩みを進める。
千代は見ているこちらが心配になる程真っ青な顔をしていた。
「多希、少し待っていてくださいね」
(待っていてって何を……?)
多希の返事も聞かず、桂は千代の目の前に移動した。顔面蒼白な彼女の耳元へずいっと近づき、口を開く。
「これ以上俺の多希に何かしてみろ。俺はお前を許さない」
低く、鋭く、温度がない。自分に向かって言われたわけではない多希も震えてしまうほどの怒り。その表情は見えない。だが、「完璧な笑顔を浮かべる桂」がしない表情をしていることは確かだろう。
数センチの距離で言われた千代は、声にならない悲鳴を上げ、その場に座り込んだ。
(『俺の』って、違いますけど。なんて言ってもあの時みたいに『俺のだが?』って返されるんだろうな。……あの時?)
彼女と違い、多希は震えながらも思考に意識を飛ばしていた。
桂は千代から一歩離れ、すぐさま完璧な笑顔を浮かべる。
「では、さようなら。新宮千代さん。気をつけて帰ってくださいね」
彼はホームルームの時のように穏やかに告げる。千代は慌てて立ち上がり、こちらを見ようともせず走り去った。
その背は、多希の瞳にやけに小さく映った。