第2話 性
「どうです、多希さん? 学校には慣れましたか?」
雪椿学園高校に通い始めてから1週間。多希は来るのが習慣となりつつある国語準備室にいた。
教室の半分ほどの広さに、所狭しと辞典や教科書、ファイルが並ぶ。きっちり整理整頓されており、掃除も行き届いているよう。桂が管理する部屋なだけのことはある。
桂はキャスターのついた事務椅子に座り、多希はその正面に置かれた折りたたみ式の椅子に腰掛ける。放課後に毎日呼び出され、その日の出来事を報告させられているのだ。
表面上はお互いににこやかだが、目の奥底は笑っていない。多希は一見和やかなこの時間がどうしても苦手だった。
「少しは……。でも、完全に慣れるまではもう少しかかりそうです」
「そうですか」
そう言った彼に多希は頷く。秒針の音がやけに大きく聞こえる。
笑わない黒い瞳に吸い込まれてしまいそうだ。多希は冷たくなった手に力を込め、ごくりと唾を飲み込む。
(……来た)
最後の質問として、お決まりの言葉をかけられる。
「何か困ったことなどありませんか?」
この質問に、桂の目を真っ直ぐと見て答えられたことはない。鋭い光が宿ったその瞳に囚われた時、全てを見透かされてしまう。
多希は今日も目を逸らした。
「……ありません」
「そうですか」
ゆっくりと瞬きをした彼の瞳からあの鋭さは消えていた。代わりにあるのはいつも通りの冷たさだけ。完璧な笑顔は変わらない。
無意識に止めていた呼吸を再開すると、4月にしてはえらくひんやりとした空気が多希の肺を満たす。
「何かあった時はいつでも声をかけてくださいね」
「ありがとうございます」
多希は、では、と席を立ち、廊下に繋がる引き戸に手をかける。後ろから、ぎ、と椅子の軋む音が聞こえた。
「多希、後ほど家に伺いますね。父さんと母さんにもたまには会っておきたいので」
「……! 分かりました。母さんたちに伝えます」
「お願いします」
「先生」よりも少し柔らかい声で言った「兄さん」に、今度こそ、では、と伝えて引き戸を開けた。
(母さんたちに会いたい、……本当にそれだけですか?)
一人暮らしをしている桂が、多希たちの住む糸井家に来るのは初めてのこと。もっともらしい理由だが、目の奥底の冷たさを思うとそれだけではないのかもしれない。
多希は少し離れたところにある教室へと歩く。遠くから小気味良い音楽が聞こえてくる。いーち、にー、さん、し、と誰かの掛け声が響く。
だんだんと景色がすぎるスピードが上がるが、決して走りはしない。優等生は廊下を走らない。
2年A組の教室はすぐそこだ。多希はほっと息を吐き、固くなった体と表情から力を抜く。
(さっさと帰って、先生が来る前に寝ちゃおうかな)
がらがらと開けた引き戸の内側、多希の席に茶色がかったボブヘアの小柄な少女が腰掛けている。覚えてしまった少女の名前は新宮千代。逃したはずの力が戻ってきた。
(どうして……? もう帰るか部活やってる時間じゃ?)
制服をきっちりと着た千代は多希を一瞥して窓の外に視線を向ける。転校初日から毎日のように「糸井先生に近づくな」と言ってくるあの子だ。
(忘れてくれてはなかったか……)
何も言われない日はないらしい。れっきとした困ったことではあるが、桂には話していない。
(下手に騒がない方が良いよね。きっと、そのうち飽きてくれるだろうし。9年前ほどじゃない、よね)
心も体も殴られ、蹴られる日々が続いた9年前よりも、何十倍もましだ。学校に一切居場所がなかったあの時と違って、今は話を聞こうとしてくれる桂がいる。
何も見なかったことにして去ることもできなくはないが、机に掛かっているカバンを置き去りにしてしまう。
困ったような微笑みの仮面を被り、多希は千代に近づいた。
「あたし、あなたに糸井先生には近づかないでって言ったわよね?」
「……言われましたね」
「それで? どうして近づいているの?」
「それは……」
(私からじゃなくて、むしろ先生の方から近づいて来てるんだけど……)
事実だが、それを言っても聞く耳すら持ってもらえないだろう。多希は言葉を飲み込む。
こちらを一切見ない彼女は、それ以上何も言わなかった。そっとカバンを取った多希は早足に教室を出る。おそるおそる確認したカバンの中身は何も減っていなかったし壊れていなかった。
「——ただいま」
カバンから出した鍵で、グレーの扉を開ける。鍵についているピンクグレーの皮でできたキーホルダーは、つい先日、義兄からもらったもの。使うと言った手前そうするしかなかったが、案外気に入っている。
最近引っ越してきた一軒家には新築の匂いが漂っている。
靴を揃え、洗面所で手を洗い、リビングのドアを開ける。
「おかえりー」
間延びした声の持ち主はソファに座って読書をしていた。多希と同じ色の黒髪とピンクグレーの瞳を持つ女性。緩くカーブがかかったミディアムヘアが柔らかな雰囲気を出している。
「ただいま、母さん」
「学校どうだった?」
「まあまあだよ」
多希は苦笑して言う。その瞳にはうっすらと疲れが浮かんでいた。
「あ、そういえば、せんせ……桂兄さんが今日うちに来るって」
「桂くんが? 本当?」
「うん、来るって言ってたよ」
「よし、分かった!」
母はしおりを挟んで本を閉じ、横に置いていたエプロンを嬉々としてつける。鼻歌を歌い出しそうな勢いだ。
新たに増えた家族に誰よりも喜び、誰よりも積極的に関わろうとしている。そんな母に義兄が怖いだなんて言えるわけがない。
(私も素直に喜べたらな……)
「そうだ、桂くんに夕ご飯用意するよって連絡してくれない?」
「うん、するね」
「お願い」
多希はスマホを取り出し、メッセージアプリで、数日前に追加されたばかりの黒猫のアイコンをタップする。ゆっくりとフリック入力を始めた。
多希:母さんが、夕ご飯用意するよって言ってます。
メッセージを送ると、すぐさま既読の表示がつく。
(早くないですか? ……スマホ見てたのかな)
K.Itoi:「ありがとうございます。楽しみにしていますね」と伝えてください。
「せん……桂兄さんが、『ありがとうございます。楽しみにしていますね』って言ってる」
「おーけい、任せて!」
母はリビングと繋がっているキッチンからそう言い、手元の作業に戻る。
多希:伝えました。「おーけい、任せて!」とのことです。
K.Itoi:【にこりと笑う黒猫のスタンプ】
K.Itoi:多希も伝えてくれてありがとうございますね。
多希:いえいえ。
会話は終わっただろうとスマホを閉じ、カバンと共に2階の自分の部屋へ行く。
(先生が来る前に寝ちゃうのは無理そうかな)
ジャンバースカートの制服を脱ぎ、だぼっとしたライトグレーのパーカーと細身の黒いズボンに着替える。ひどく重かった肩が嘘のように軽くなった。
カバンから教科書とノート、プリントを取り出し、宿題に取り掛かる。
「——よし、できた」
多希が宿題を終える頃、日はすっかり落ちていた。しっかりと明日の準備まで終わらせて、1階へ下りる。
リビングのドアの内側からわいわいと何かを話す声が聞こえる。
(父さん帰って来たのかな。もしかしたら先生もいる?)
がちゃりとドアを開けると、ソファに座った3人が一斉にこちらを向く。そこには予想通り義父と義兄の姿があった。
義父は、纏う雰囲気こそ柔らかくて違うが、真っ直ぐな黒髪と整った顔立ちが桂とよく似ている。
黒いジャケットと黒い手袋を脱いだ桂はほんの少しだけ幼く見えた。
「宿題は終わりましたか?」
思わず立ち尽くしていると、桂に問いかけられる。
「……終わらせました。いらっしゃい、です。父さんもおかえりなさい」
「うん、ただいま」
「多希も来たことだし、ご飯食べよう? 桂くんが来てくれたから、ちょっと張り切っちゃった」
母の言葉に頷き、キッチンからダイニングテーブルに食事を運ぶ。
(わ、久しぶりのハンバーグだ……!)
多希は、誕生日やテストで満点を取った日など、嬉しいことがあった日に作ってくれることが多いこのハンバーグが好きだった。
母と義父、桂と多希の順に座り、手を合わせる。
「「「いただきます」」」
早速、ハンバーグを口に運ぶ。ふんわりした食感のそれに多希は頬を緩めた。
「美味しそうに食べますね、多希」
「美味しいですからね。先生も食べれば分かります」
学校で話す時よりもほんの少しだけ仮面が剥がれた多希に、桂は笑顔を深める。
「多希? 『兄さん』と呼んではくれないのですか?」
いつも以上に冷たい瞳から見つめられ、多希の心臓は跳ねる。
(……もしかして怒ってたりします?)
内心びくびくしていることは一切表に出さず、困ったような笑顔の仮面を貼り付けて彼女は答えた。
「ごめんなさい、兄さん。つい学校での呼び方が出てしまいました」
一瞬の間の後、ふふ、と笑った声がしたと思ったら、目の前に迫ったすらりとした手が迫る。目を見張り、動けなくなった多希の頭に温かいものが触れた。
桂にゆっくりと頭を撫でられているようだ。その撫で方は心地よくて優しくて、自然と仮面が外れていく感覚がする。頬が緩まり、目が細まっていく。
(何でだろう。すごく、落ち着く。9年前の兄さんもこうやって撫でてくれたっけ)
突然動きを止めた手に手を重ね、上目遣いで桂を見る。
「兄さん?」
(もっと撫でてくれないんですか?)
目を見開いた彼の目の奥底には驚きの感情があった。すぐさまいつも通りの完璧な微笑みに戻ったが。
「……いいねぇ。仲良くなったんだね」
テーブルの向かい側から聞こえてきた声に多希は顔を向ける。にまにまとしている母と、複雑そうな表情を浮かべた義父がいた。
「それはもう。『多希』、『兄さん』と呼び合う仲になりましたからね」
(その仲になったのは3日前のことですけどね)
心の中で補足する。
どこか誇るように言って述べた桂に義父は心臓の辺りを抑えた。
「父さん? 大丈夫、ですか……?」
「大丈夫ですよ。父さんはただ僕に嫉妬しているだけですから」
「え……?」
(兄さんそれは一体どういうことです?)
「言うな、桂。多希ちゃんが可愛すぎる表情を見せたのが俺ではなく桂だった、くそ、桂め……なんて思っているだけだから」
「そうなんですね?——」
仮面の下が見え隠れしながらも、わいわいと夜は更けていく。
***
「多希さん、少し手伝っていただけますか?」
(また来た……。周りからの視線、気づいてます?)
翌日の昼休み、2年A組にて多希は選択を迫られていた。
先ほどまで受けていた授業の片付けを手伝うか、手伝わないかという単純な2択問題である。とある問題点がなければ、即座に引き受けていたことだろう。
その相手が桂でなければ、優等生として喜んでやっていた。
桂に手伝いを頼まれたり呼び出されたりするのが数日に一度ほどであればまだ良かった。が、実際のところ、毎日のように手伝いを頼まれたり呼び出されたりしている。
ここで手伝いを断ってしまったら、優等生としてのイメージが壊れるだろう。そして確実に「糸井先生のお願いを断るなんて」と、他の生徒から批判を買う。
逆に手伝う選択をすると、イメージは守られるが、「どうして多希ばかり」と言われてしまう。
(本当にどうすれば……)
どちらにしても損をするのなら、失うものが少ない方が良い。そう考えて手伝う選択をするまでがここ数日の流れである。
「もちろんです。何をすればいいですか?」
「ありがとうございます。ではこれを国語準備室までお願いします」
「分かりました」
示されたのは3冊の国語辞典、1冊1キロくらいはありそうだ。力を込めて持ち上げると桂から、行きましょうか、と言われる。彼は軽々と6冊の辞典を持っていた。
クラスメイトがぐさぐさと刺してくる視線には気づかないふりをして、多希は教室を出る。背中の方で「糸井先生から離れてよ」と誰かが呟く。
斜め前を歩く桂は相変わらず完璧な笑顔でいる。前を向いている彼の目の奥底は見えない。
(先生、絶対気づいてますよね? それなのにどうして私に構うんですか?)
口に出していない問いに答えが返ってくるわけがなかった。
「……いつでも頼ってくれて良いんですからね、多希」
昼休みの喧騒にさらわれて、桂の言葉は聞き取れない。
「何か言いましたか?」
「いえ、何でもないですよ」
笑顔は崩さぬままこちらに顔を向けた彼の瞳の奥には、どうしてか喜色が見えた。