第1話 笑
(さすがお嬢様学校……私、これからここに通うんだよね?)
ぼんやりとした晴れ空に遅咲きの桜が舞う。
閑静な住宅街の中、一際存在感があるここは雪椿学園高等学校。私立の女子校だ。窓の細工が美しいクリーム色の校舎には汚れひとつなく、八重桜が咲き乱れる敷地内は綺麗に舗装されている。
多希は、学校指定のカバンをぎゅっと握った。さあ、と吹いた風に真っ直ぐな長い黒髪をさらわれる。一歩踏み出した時、鼻から入ってきた空気は花の甘い香りを含んでいた。
校舎内、ざわざわと聞こえる誰かの話し声から少し離れたところを歩く。廊下にある数々のトロフィーや賞状は、何も言わず、ガラス張りの棚の中に佇んでいた。
(変じゃないかな)
そのガラスに、制服であるくすんだ赤のジャンバースカートを纏った少女の姿が映る。数時間前、家を出る時に母と義父からこれでもかと褒められたが、きっと身内贔屓だ。実際に似合っているのか、それは彼ら以外に聞かないと分からない。
ふぅ、と息を吐いた多希は不安気な表情から一点、穏やかな笑顔の仮面をかぶる。
校長室と書かれた扉をノックすると、はい、と声が返ってくる。ほんの少しの色気が混じった落ち着く低音。多希の心臓はどくんと音を立てた。
(……兄さん?)
今朝の夢に出てきた人。9年前、多希の心を助けてくれた人。名前すら忘れてしまったけど、優しい手で頭を撫でられたことは忘れていない。扉の内側から聞こえた声は、彼によく似ている。
静かに開けられた引き戸から、20代後半くらいの男性が出てくる。
身長160センチの多希よりも20センチほど背が高く、肩につかない長さの黒髪を額の中央で分けている。すっとした鼻筋と輪郭に薄い唇、儚げな瞳と左右対称の眉、口の右下には小さな黒子。シャツ、ジャケット、ズボン、手袋、靴……。ネクタイ以外の身につけているもの全てが黒い。
彼は、細い楕円形フレームのメガネ越しに漆黒の瞳を見張る。顔立ちが整った人はどんな表情をしても絵になるとはよく言ったものだ。
(兄さん……じゃなさそう。痛いくらいに刺々しくて、それでも優しい人だったはずだから)
数秒見つめあった後、微笑みを浮かべた彼に入室を促された。どうぞ、と招くその姿勢も笑顔も指の先まで、全てが様になっている。
(こんな完璧な笑顔なんて浮かべる人じゃなかったはず。私と同類じゃなかったよね)
男性の笑顔にはどこか違和感がある。よく見ると目の奥底が笑っていない。その温度のなさにゾクリとするのだ。
にこやかな様子を取り繕っている多希もまた同様である。果たしてそれに気づいた人は何人いるのか。もしかしたら多希以外誰もいないのかもしれない。
失礼しますと入った校長室は味のある深い焦茶色でまとめられていた。同じ色のデスクとチェア、中央にはソファがある。
その一席に腰掛けているのは人の良い笑みを浮かべた男性。髪の毛には白が混じり、側には杖が立てかけられている。その年齢と経験から出てくるものなのか、不思議な迫力がある人だ。背中がすっと伸びた。
勧められるがまま向かいのソファに座ると、完璧な人は老齢の男性の横に腰を下ろす。
初めて会う人、初めての場所、それも学校は特に緊張する。おくびにも出さないが、息をするのにも気を遣うほどだ。
「初めまして。ここで校長をしている如月といいます。雪椿学園高校へようこそ。こちらは——」
自己紹介をした老齢の男性——校長に促され、完璧な人は話し出す。
「僕は2年A組、多希さんが所属するクラスの担任、糸井桂です」
(やっぱ絵になるなぁ、……じゃない! そうじゃなくて、気をつけないと大変なことになりそう)
にこりと笑った桂は整っているを超えて美しい。目を奪われてしまいそうになる。だが目の奥底が笑っていないことは確かだ。気づかないうちに彼の手のひらの上で転がされていた、なんてことにならないように気をつけなければ。
向かい側の二人にはもちろん知られているようだが、この流れで多希だけ名乗らないのは違和感があるというもの。彼女は自己紹介をしようと口を開く。
「……糸井多希です。どうぞよろしくお願いします」
(糸井、で合ってるよね)
名字が間違っていないかと確認したくなるのも仕方のないことだろう。2週間ほど前に突然変わったのだから。
母親の再婚、その再婚相手との同居を機に、多希の生活は大きく変化させられた。
ある日母から緊張した面持ちで、家族が増えても良い? と聞かれた時にはすでに色々な手続きが終わっていたのだろう。
多希は、心配や苦労を必要以上にかけてしまった母の願いを断るわけもなく、二つ返事で了承する。次の日には名字が変わっており、その早技には驚くを超えて感心した。
名字の他にも家、生活、学校……、何より変わったと感じているのは家族構成。これまで母と二人暮らしだったのが、義父ができ、義兄ができたのだ。
一人暮らしをしている義兄とは、全くと言っていいほど予定が合わず、まだ会ったことはない。母たち曰く優しくてかっこいい人らしい。
一般的に家族になるのに会ったことがないなんてことはありえないが、それが気にならないほどに目まぐるしい2週間だった。
(そういえば義兄は高校の先生だって言ってたような……?)
全身が黒に包まれており、違和感のある笑顔の持ち主に視線を向けるとばっちり目が合う。慌てて見ていないふりをするがもう遅い。
(この人、名乗ってたよね? 絶対に名乗ってたよね? ……糸井桂って)
「よろしくお願いしますね。何やら糸井先生は多希さんのお義兄さまとなったのだとか。先生、生徒としても、義兄妹としても仲良くしてくださいね」
「……ぇ」
(本当に義兄だった……。……え? この違和感のある笑顔な担任の先生が……? 本当に義兄なの?)
それからの話は全くもって入ってこなかった。覚えているのは、不思議そうな表情の校長と目の奥底が笑っていない桂が対照的だということだけ。気づいた時には、桂と共に廊下にいた。
「さて、行きましょうか」
多希は、2年A組へと歩き始めた桂の背を追う。
左手に抱える学校案内のプリントの隅、よく見るとメモ書きが残されていた。内容は覚えていないが、メモを取るのは忘れなかったよう。多希はほっと息をつく。
「しかし、こうして会うのも久しぶりですね、多希さん。何年振りでしょうか?」
「……はい?」
チャイムが鳴り、静かになった汚れひとつない廊下に、多希の呆然とした声が響く。桂はその様子に目を見開いた。
(先生とよく似た人なら会ったことはありますけど、先生とは会ったことがないですよ? こんな印象が強い人、会ったら絶対覚えてるって)
「覚えていないのですか?」
「……はい。どこかでお会いしましたか?」
多希は少し首を傾げて答える。
「それは都合が良いですね。……いえ、気にしないでください」
「分かりました……?」
(都合が良いってどういうことです? 怪しすぎません?)
説明を求めて視線で訴えるが、返されるのはあの笑顔だけ。言うつもりは毛頭ないようだ。
(まあ別にいいですけど)
思わず溢れそうになったため息を飲み込む。彼女は、早くも遅くもない程よい速さで歩く桂についていく。
「呼ぶので少し待っていてくださいね」
2年A組の教室の前で桂にそう言われる。頷いて答えると、彼は静かに引き戸を開けて入室する。
「皆さん、おはようございます。知っている方もいるかもしれませんが、今日から転入生がやってきました」
どんな子かな、可愛いかな、仲良くできるかな……。教室内からざわざわとそんな声が聞こえる。だが、それは桂のひとことによって止められた。
「ふふ、彼女はとても可愛い子ですよ。ぜひ仲良くしてくださいね」
彼は心底嬉しそうに見える笑顔で言う。
今まで、全員を褒めることはあれども一人だけを褒めることはせず、生徒たちからみんなのジェントルマンと呼ばれている桂。そんな人が突然、誰かを特別扱いするなんて想像もしていなかっただろう。2年A組に衝撃が走る。
それを分かっているのか、分かっていないのか、彼は気にせず続ける。
「多希さん、こちらへどうぞ」
(今、ですか? このタイミングで、ですか?)
まだ教室にも入っていないが、クラスメイトから怒りの感情がひしひしと伝わってくる。逃げ出したいと足がすくむが、ここを進まなければいけない。少々不自然な笑顔の仮面を被り直し、教室へと入る。
多希は、大きな黒板を背に、人ひとり分の距離を開けて桂の隣に立った。教室内にはくすんだ赤のジャンバースカートを着こなした30人ほどの生徒がいる。彼女らの大半は嫉妬や嫌悪といった感情を隠しもしていない。
(大丈夫、あの時ほど怖くない)
微かに震える手には気づかないふりをして、クラス全員を見回し、微笑んだ。
転校初日、午前中の授業が終わり、昼休みがやってくる。
多希は、自分の机で母作の彩りゆたかなお弁当を食べていた。食欲がなく、無理やり口に入れて飲み込んでいる状態である。
(やっと半分)
お弁当の味はとても美味しい。母が丹精込めて作ってくれたのが分かる。だが、今はそれが辛い。残す勇気もなければ捨ててしまう勇気もない。昼休みが終わるまでに食べ終わらなければ、そう思えば思うほど箸を運ぶ手はスピードを落とし、冷たくなる。
突然ぬっと影が差した。目の前にいる一人の女子生徒から敵意をむき出しに睨まれている。身長150センチほどの彼女は茶色がかったボブヘアをハーフアップにして、制服を崩さずに着ている。
(笑わないと、笑顔でいないと……。そうじゃないといじめられる)
多希はしゃらんと効果音がつきそうな微笑みを作る。見え方を研究した笑顔はいつも通り完璧だが、その目の奥底は笑っていない。いや、心から笑う余裕がないのだ。
「何か、ご用ですか?」
「あなた糸井先生の義妹なんですってね?」
(なんでそれを知って……?)
校長や事情を知る先生など、学校側がむやみやたらと話すとは考えにくい。生徒に事情を知っている知り合いはいないはず。ならば誰が話したのだろうか?
(まさか糸井先生が……いや、さすがにないはず)
周囲のクラスメイトのほとんどからもじろりと睨まれている。中には、目の前の彼女へよく言ってくれたと言わんばかりに称賛の視線を送る人もいた。どうしてあんな子が、ぽっと出の義妹のくせに……、明らかな嫌みが聞こえてくる。
下手に肯定も否定もできないこの状況、多希は困ったように笑うしかない。目の前の彼女は肯定と受け取ったのだろう。キッと睨みを強めて言った。
「糸井先生には近づかないで。妹って言っても血の繋がりはないのでしょう? 糸井先生はあなたみたいな人が独占して良い方じゃないの。いいわね?」
黒いクリップボードを持って教室に入ってきた桂を見て、彼女は何事もなかったように去っていく。
桂の方へ視線をやったほんの一瞬、彼が嗤うのが見えた。これが心底嬉しそうなのだ。表情に違和感なんてものはなく、瞳の奥から嗤っている。
(怖い……)
拳に力を入れ、この場から逃げ出したい衝動を抑える。じっとりとした冷や汗が肌に張り付く。
この日のお弁当は食べ切ることができなかった。




