第2話 白い仮面
まるで居眠りをしていたかのようだった。
(視界がぼんやりと暗い…)
眩い光とともに意識を失ってしまったと思っていた俺は、ほんの短い夢見心地ののちに現実へと意識を戻される。
それは通常の気を失う感覚とは少し異なっていた。
眠りについた感覚も、目が覚めた感覚も無い。
重く倒れた体を床から起こしながら、滞っている脳の細胞を活性化させる。
そして奏の安否確認も兼ねて、ぼんやりと暗い陰が広がっている周囲に目のピントを合わせた。
「…大丈夫ですか?」
得体の知れない突然の俺を心配する問いかけに心臓が飛び出そうになった。
急速にそのペースを上げる心臓の拍動を抑制するように、左胸に右手を軽く添える。
弱々しく今にも消えてしまいそうな程の儚い声がした方を見ると、そこには白い仮面をつけた華奢な少女が尻餅をついて小刻みに震えていた。
目線こそ分からないが、顔はこちら向きだ。
「…だ、誰だ!奏はどこだ!」
目がだんだんと暗闇に慣れてきて、ここが先程の山では無いことに気づく。
仙斎茶色に光を反射している平滑な石の床に、ある意味神秘を感じさせるような神聖な雪白のカーペットが敷かれていて、壁は複雑な紋様の入った翡翠色でまとめられている。
等間隔に配置された黄金色の窓を見る限り、ここはとある宮殿の廊下であるようだ。
知らない土地に、知らない人。
それは、俺が恐怖を感じるには充分であった。
「…カナデ?」
白い仮面の少女は小さく首を傾げた。
そして体の重心を前方に移すと、膝を床につきながら凛々しく立ち上がる。
全身はおそらく百五十五センチほどだろうか。
よくあるカーキ色の軍服に、膝ほどまでの長さのある同じくカーキ色のマントを羽織っている。
ぱっと見は中性的で鯔背な容貌をしているが、しかしその体は身長に合わせて細く、すらっとしていた。
「申し訳ないけれど、生憎と私はその名前を知りません」
「じゃ、じゃあ、ここはどこなんだよ!」
「それも申し訳ないけど、分かりません」
仮面の少女には、先程の震えはもう全く残っていなかった。
少女は既に覚悟を決めたのか、少し低い声で、落ち着いた声音で淡々と言葉を放つ。
「そんなことより、あなた属名は──」
「psqued ghiuz tefforx ont!」
その瞬間、廊下中に怒声が響き渡った。
日本語ではないのかよく聞き取れなかったが、それは思わず耳を塞ぎたくなるほどの大音声であった。
「kolvjee iden!kolvjee iden!」
仮面の少女が立っていた方角とは真逆の廊下の奥から、よくゲームなんかで見るようなゴーレムが叫びながらこちらに向かって走ってくる。
(ええええ、まじで、まじで、こっち来る?まじで??)
遠くてよく見えないが、その体長は少なくとも二メートルはあるだろう。全身は岩で固められているようだ。
もし殴られてしまったら…なんてことは考えるだけで肝が冷える話だ。
また、そのゴーレムは少女のものとよく似た仮面を被っていた。仮面の目の穴の隙間にはギロリと覗く鋭い真っ黄色の眼球がある。
それはこのゴーレムが現実のものでは無いことをいかにもとばかりに象徴していた。
「…あなた、クレーラーではないんですよね。
ここは危ないです。逃げましょう」
「えっ!?に、逃げるってどうやって!」
「そんなの……走るしかないでしょうが」
「はっ?正気か、お前!」
ゴーレムの襲来が刻一刻と迫る中、仮面の少女は冷静に「逃げる」という判断を俺に勧めてくる。
しかし、尻と両手を未だ床につけて怯えている俺が見るようでは、そのゴーレムはこの一秒間の間だけで自動車約五台分ほどもの距離をドタドタと移動しているようだった。
おそらく、ただの人間ごときの俺が走って逃げたって三秒間くらいの時間稼ぎにしかならないだろう。
こいつは俺に囮になれ、とでも言うのだろうか。
「早く立ち上がって走ってください!
本当に死んじゃいますよ!」
仮面の少女は俺を鼓舞するように強く叫んだ。
先程までのか弱い声とは違い、腹の底から出しているような、耳を刺すような、そんな調子だった。
俺だって逃げたいさ。でもな──
「すまん!腰が抜けて立ち上がれない!」
ゴーレムは少女の必死の叫び声を聞いても、心に感じるものは無かったのか全く怯む様子は見せず猛進している。
段々とゴーレムが近づいて気づいたこともあった。
ゴーレムがその足をつけた跡に残るは、まるで小さな隕石でも落ちたかのように抉れたクレーター。
やはりそれもゴーレムが計り知れない怪物であることを体現していた。
(やばい。死ぬ。死ぬ。嫌だ、嫌だ、嫌だ!)
「──hnoqy!」
デジャヴ。
またもや廊下中によく知らない言語での大声が響く。
しかし先程のゴーレムの怒声とは違う点もあり、それはこの声の主はおそらく人間だろうということだ。
もっといえば、若い男か。
ゴーレムの呻き声のような叫びとは似ても似つかず、はっきりとしていて威勢がよくて、おまけに爽やかだった。
そんな一瞬の大声によって、先程まで殺気立てて俺に迫ってきていたゴーレムがその動きをピタリと止めた。
そして体は俺がいる方向に向けたまま、白のカーペットの上に膝をついて頭を下げる。
忠誠のポーズだろうか。
「これまたどういう風の吹き回しだ…?
俺に忠誠を尽くすかのようなポーズしちゃって」
変わらず地に尻つけて座り込んでいる俺。
急なゴーレムの寝返りに少し動揺しつつ、二度落ち着いて深呼吸をした。
どこからかコツコツというローファーで石の上を歩いているかのような音が聞こえてくる。
パニックで心臓の音を聞き間違えているのかな。
「何をしてるんですか!
心の内を語る暇があったら今すぐ走ってください」
「え?」
「見えないんですか!?
次の刺客が迫ってきてるんですよ!」
仮面の少女に振り返っていた俺が顔をゴーレムの方へと向き直すと、膝をついたゴーレムよりも近い、俺から数メートルの位置に、魔女のような女二人とその間に囲まれるように一人の男が立っていた。
ほんのりと薄く光を反射するような漆黒の服を纏う謎の男。
体は鍛えているのだろうか。ムキムキとまではいかないまでも男らしい筋肉質の上半身に、がっしりとした腰からは長く逞しい脚が伸びている。
髪の色はまるで染めているかのような綺麗な純白で、顎に届く程長い前髪は自身の左目を完全に隠していた。
目つきはかなり悪くその鋭さからはややクールな印象を受けるが、顔の良し悪しについて問われれば文句無しに美少年と言えるくらいには、顔は整っているように見える。
そしてその両側に立つ魔女のような女は、フード付きの黒いロングマントに身を包んでいる。服装的に唯一肌を露出できるはずだった顔は、これまたあの仮面の少女とよく似た白い仮面が完全に隠していた。
俺が二人を魔女と呼ぶ所以は、彼女らの手に握られたステッキ型の小さな魔法の杖が見えることにある。
ちなみに二人は体格・服装のほとんどが酷似しているが、その瞳はシアンとマゼンタで一様ではない。
「kamver sinazy ont vevup je awtffiels──」
男は何やら俺に話しかけているようだが、日本語ではないのかやはり何を言っているか理解できない。
俺が畏怖の表情を浮かべつつぽかんとしていると、男は何かを察したようにシアンの瞳の魔女に指示を出したかのように見えた。
数秒の沈黙ののちに、その魔女が俺に向かって杖を突き出して、何やら短い詠唱のようなものをする。
(こ、これ、もしや助けてくれるパターンか!)
淡い期待を胸に少し安堵したのも束の間、俺は叫びたくなる程の鋭い痛みを脳に感じながらそのまま気を失った。