第0話 プロローグ
「っ…!」
白い仮面をつけた少女が、激しく降りしきる雨に打たれながらその震える手をゆっくりと首に近づける。
少女の身長よりも高い位置にある、おそらく頑丈であろう枝に括り付けて垂らした太い砂色のロープを持って。
薄暗い夜の山の中での表情は、顔に身につけた仮面も相俟って全く読み取れない。
──たとえ死んでも元に戻れるとは限らないぞ。
暗闇の中から何か声のようなものが聞こえた気がした。
脳に直接訴えかけるように。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…!」
雨に濡れて漆黒に輝くショートカットの髪が、彼女の荒い呼吸の音とともに小刻みに揺れ始める。
ロープを持った両手は首の位置から動かずとも微かに痙攣していた。
突如として、その痙攣は収まった。
彼女の両手から同時に力が抜けてすっと腰へと落ちる。
「……やっぱり無理だ」
雨でぐちょぐちょに濡れて泥やら落ち葉やらが混じっている焦茶の地面には、まるで踏み台にするかのような立方体の木箱が置かれていた。
そんな木箱の上から、彼女は生の地面へと尻餅をつく。
その瞬間、「どすっ」という重い音がして、彼女の臀部にじわじわと鈍い痛みが広がった。
「痛っ…はぁ…」
まだ緊張の収まらない騒がしい心臓の拍動とともに聞こえた浅いため息は、先程の荒い呼吸とは少し異なっていた。
人知れず漏れた独り言は、なんとなく安堵しているかのような、少し安心感を憶えるような、そんな声音。
彼女──自らをメランと騙るその少女は、閑散とした静かな山の中で自殺をしようとしていたのだった。
──────────
ようやく、無限にじめじめが続く憎まれの梅雨が明けたというのに、この七月下旬になった今日も未だ土砂降りの雨が落ちている。
そんな嫌な湿気纏って夜冷えした暗闇の中、俺──黒田八はホラー好きの親友に連れられ、嫌々家の裏にある幽霊山に向かっている最中だった。
「やっぱり雨の夜は冷え込むなあ。せっかく今日は記念すべき俺の誕生日だってのに、雨でお祝いムードが台無しだ」
今日が誕生日らしい俺の親友──烏羽奏は、山を目前として生まれたての子鹿のように足を震わせる俺を横目に見て、俺を落ち着かせるかのようにそう言った。
俺は間髪入れずに奏にツッコむ。
「誕生日だって言うならなぜわざわざこんなことを!
肝試しなんかして何が楽しいんだよ!」
「まあまあ、少し落ち着けって。そんなときは深呼吸、深呼吸」
「落ち着いていられるかよ!もし本当に幽霊が出たらどう責任取るんだよ、すーはーすーはー」
「ちゃんと深呼吸はするんだな。まあ誕生日祝いだと思って今日くらいは俺に付き合ってくれ、頼むエイト」
「無理だよお…」
目には雀の涙のほどの文字通り涙を浮かべ、半べそをかいていた俺の足は未だに小刻みに揺れている。
さっきコンビニで買った無色透明のビニール傘もいつもなら全く怖がる対象では無いのに、ボトボトという雨音を鳴らしている今はもはや傘すらも幽霊に見えてくる。
俺がふと山に目を向けると、視線の先には黒洞洞たる果てしない暗闇が広がっていて、またもや総身に鳥肌が立つ。
横殴りの雨に打ちつけられる俺の膝下四十五センチと俺の生半可な心持ちは、既にどちらも正気の沙汰では無かった。
俺は心の底からホラーが苦手なのだ!
「雨も弱まってきたし、そろそろ行くか、エイト」
「本当に行くの?明日にしない?」
「明日じゃ意味ねーだろ。ほら、つべこべ言わず行くぞ」
「うわぁぁぁぁ」
「うるせえ」
ぽこりと軽く頭を叩かれた俺は、こうして有無を言わさず奏によって幽霊山へと連れ込まれるのだった。