17:4両目
次の車両に逃げ込めたことで、少しだけ気が抜けたのかもしれない。
全身にじわじわと痛みが広がっていくのを感じる。掌の痛みが強すぎてそちらにばかり意識が集中していたが、よく見れば全身に細かい怪我を負っている。
ほとんどがあの羽虫によってつけられたものだ。これじゃあ風呂に入るのも苦労するだろうなんて、場違いなことを考えてしまう。
ひとまず、4両目の車内にも目に見える危険がないことを確認してから、僕は幡垣さんに向き直る。
「あの、幡垣さんは一人だったんですか?」
ここまでバイト仲間と共にやってきた僕たちとは異なって、あの5両目には幡垣さんしかいなかった。
彼は元から前の車両に乗っていたということなのだろうか?
「ああ、オレは一人だった。お前らは一緒にこの電車に乗り込んだのか?」
「一緒にというか……まあ、同じ電車に乗ったんですけど。気づいたら、他の乗客がいなくなっていたんです」
「私たち、満員の終電に乗ったんです。それなのに、事故が起こったと思ったら……」
「こんなところで悠長に話してていいのかよ?」
幡垣さんに事情を説明しようとしていたところで、福村が口を挟んでくる。
すぐにでも先に進みたそうな福村は、ただの布切れになってしまったコートを放り投げて、眉間に皺を寄せている。
「終点まであと五駅、先頭車両まであと三つ、無駄話するよりさっさと進むべきだろ」
「……お前らの目的は、この電車を降りることか?」
「そりゃ、もちろんそうですよ。幡垣さんも、そうじゃないんですか?」
こんな電車に乗り続けていたいはずがない。先頭車両を目指しているのだとばかり思っていたが、幡垣さんの問いには違和感がある。
「オレは、人を探すためにこの電車に乗り込んだんだ」
「人……ですか?」
「ああ、妹を探してる。千草というんだが……お前、何年生まれだ?」
「え? 生まれですか?」
「見たトコ20歳そこそこだろ、何年生まれだ?」
「ええと、平成13年生まれの21歳ですけど……」
こんな状況で一体なんの質問をされているのだろうか?
不可解でしかなかったのだが、幡垣さんがあまりにも真剣な表情で問い掛けてくるので、思わず正直に答えてしまう。
「オイ、早くしろって言ってんだろ!? いつまで……」
「オレはな、平成11年生まれの23歳だ」
「…………は?」
僕たちのことを急かしていた福村までもが、間抜けな声を漏らしている。
少なくとも、冗談を言い合うようなタイミングではないのだ。ましてや堅物に見える幡垣さんの口からそんな言葉が出るなんて、きっと誰も想像すらしていない。
「えっと……あの、幡垣さんて老け顔なんですね……?」
「喜多川、失礼だって……!」
「え、そういうタイミングじゃないのか?」
普段であればまた空気の読めないことを言っていると思うところだが、生憎と僕も喜多川と同じ感想しか出てこなかった。
だって幡垣さんはどう見ても三十路で、頑張って20代後半といえるかどうかのオッサンだ。
僕だって童顔ではないが、いくらなんでも二つしか年齢が変わらないだなんて考えられない。
「オレはもう何回も、この電車の最後尾をやり直してる」
「それって、どういう意味ですか?」
「言葉そのままだよ。何度も最後尾に戻されては、先頭車両を目指し続けてるんだ」
「戻されるって……どうしてですか?」
幡垣さんの言葉の意味がますますわからなくなる。
終着駅に辿り着くまでに、先頭車両に行かなければ死ぬんじゃなかったのか?
最後尾に戻されるってどういう意味なんだ? そもそも、最後尾は闇に飲まれて無くなっているはずなんじゃないのか?
「オレは千草を探すために、この電車に乗り込んだ。始まりは最後尾の車両だったから、先頭車両を目指せばどこかで妹に会えると思ったんだが……怪異に阻まれたまま、最後の駅に着いちまった」
「最後の駅に……って、じゃあ、終着駅に着いたら死ぬわけじゃないんですか?」
「オレが生き証人になるっつーなら、今のところはそうだな。だが、先頭車両までは辿り着けていないから先のことはわからん」
喜多川の話す都市伝説によれば、終着駅に到着するまでに先頭車両に行って電車を止めなければ、死んでしまうのだとばかり思っていた。
けれど、それはあくまで噂によるもので、事実かどうかは不明だ。
実際に終着駅まで電車に乗っていたという幡垣さんの話が本当なら、到着がイコール死に繋がるわけではない。
「だけど、死なないとしても降りられるわけじゃないんですよね?」
「ああ、終着駅に着いた途端、オレは意識を失った。目を覚ましたら、また最後尾からのスタートだよ」
「そんな……ここまで来たのに、また最初からだなんて……」
「おまけに、この電車の中は外の世界より時間の進行が早いらしい。最初は気がつかなかったが、ループを繰り返すうちにオレは随分と年を取っちまってた」
「あり得ないだろ、そんなこと」
「福村っつったか。ここに来るまで、お前はその目で散々あり得ないモンを見てきたんじゃないのか?」
「……………」
幡垣さんの言葉を真っ向から否定した福村だったが、続く指摘に押し黙るしかなくなる。
空間がループしているだなんて、僕だってこの電車に乗る前であれば同じように否定していただろう。
それでも、否定することができなくなるだけのものを、いくつも見てきてしまった。幻覚や夢などでないことは、掌の痛みが証明している。
「けど、最後の駅までに間に合わなくても死なないなら、どうにかなるんじゃ……」
「俺たちは平気でも、桧野さんは持たないよ」
「それは、確かに……」
終着駅に着くまでがタイムリミットだと考えていたので、即死というわけではないなら、希望が見えた気がした。
しかし、喜多川の言葉で桧野さんの状態を思い出す。
背中に大やけどを負っている彼女は、一刻も早く病院に運び込まなければならない状態だ。万が一ループなんかして、最初からやり直している時間はない。
「ループは延命じゃない。絶望を深くするだけだ」
「幡垣さん……?」
「どういうわけか、腹が減ることはないから餓死する心配はない。ただ、ループをしてもやり直しになるのは駅と車両の位置だけだ。負った怪我や死亡の事実は覆らない」
「ってことは、ハンデ背負ったまま最後尾からやり直さなきゃなんねーのか?」
「そんなの無理だよ……私たち、ここまで来るのだってやっとだったのに」
「……やっぱり、僕らはすぐにでも先頭車両を目指すしかない」
わかっていたことだというのに、妙な焦りが募る。
もしも桧野さんの怪我が無かったとしても、ループを繰り返す上に普通ではない速度で歳を重ねるなら、加齢に伴うハンデも加わることになるだろう。
そもそも、怪異だってそう何度も見逃してくれる相手ではないはずだ。
あんなものとこの先もずっと対峙し続けていたら、先に心が折れてしまうかもしれない。
「っ、あれ……?」
電車が次の駅に着く前にと、動き出そうとした僕の尻ポケットから何かが床に落下する。
拾い上げてみると、それは画面にヒビの入ったスマートフォンだった。
液晶画面には店長の姿が映っている。これは僕のではなく、間宮さんのスマホだ。
(そういえば、あの時ポケットに入れてたんだっけ……間宮さん、ロックかけてないんだな)
間宮さんと店長がスマホの奪い合いをしていた後、拾ったスマホを反射的に尻ポケットにしまっていたことを思い出す。
5両目で羽虫に攻撃されていた時に、尻ポケットの部分が溶けてしまっていたのだろう。スマホの表面も、焼かれたみたいに歪んでいる箇所がある。
念のためにと上半身を捻って確認してみたが、ズボンが溶けて尻が丸出しになっているなんてことにはなっていないようだ。
持ち主のいないスマホをどうすべきかと考えた僕の指が、画面に触れたことで店長の顔がスライドしていく。
次に表示されたのは、間宮さんが撮影していた、膝立ちの化け物の写真だった。
「……え、これって……」
「清瀬? どうしたんだよ」
できれば目に入れたくないと思ったはずなのに、僕はその写真を食い入るように見つめていた。
だって、これは……。
「鮎川さん……?」
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