16:羽音
僕は自分の手が痛むのにも構わず、羽虫を必死に払い除ける。
それが一ノ瀬だなんて、どうしてそんな風に思ったのかはわからない。
それでも、得体の知れない気味の悪さが背筋を這い上がってくるような気がして、考えるよりも先に扉の傍から飛び退いた。
「清瀬くん、大丈夫……!?」
「だ、大丈夫です」
後方から聞こえる高月さんの声に、こんなところで立ち止まっている場合ではないと思い出す。
僕が扉を開けなければ、この車両は羽虫の大群に埋め尽くされてしまう。
盾として使っていたコートは、もうまともに使えるとは思えない。けれど、無いよりはマシだろう。
本当は扉に近づくこともしたくなかったけれど、僕は残った布地を取っ手に被せるようにして、扉を開こうと試みる。
「っぐ、ああああ……ッ!!」
ジュワ、と音が聞こえた。気休め程度だった布地はあっという間に溶けてなくなり、握り締めた掌が焼かれているのを感じる。
実際にやったことなんてもちろん無いが、硫酸の中に手を漬けているような気分だ。
おまけに、握った布地の向こうから羽虫の潰れる感触までもが伝わってくる。
怪異の身体がどんな構造になっているのかなんて、僕には知る由もない。知りたくもないのだけど。
パキ、パリパリ、ブチュリ。そんな音が聞こえてきたような気がする。
虫を怖いと思ったことなんかなかったけれど、僕の人生で触れてきたものの中で、間違いなくトップクラスに気色の悪い感触だった。
少しだけ扉を開けることができたというのに、あまりの痛みと不快感に耐えきれず、僕は手を離してしまう。
自動的に閉まる仕組みになっている扉は、無情にも再びその行く手を閉ざしてしまった。
「い……ってえ……!」
強く握り締めたせいで、黒い液体が皮膚の内側へと浸食してきているような気がする。
震える手を見下ろすと、焼け爛れた皮膚は所々が溶けて剥がれ落ちている上に、未だ付着した液体が肉や骨を溶かそうとしているのがわかる。
空気に触れているのだって涙が出るほど痛いが、背に腹は代えられない。
黒い液体を拭うために、僕はまだ羽虫の付着していない優先席のシートに掌を擦り付けた。
「ぐっ……う、ちくしょう……」
「退いてろ、目に入るとヤバイぞ」
「え……うわっ!?」
そんな僕の所にやってきたかと思うと、無精髭の男は貫通扉の横で何かをやっている。
壁に設置されていた真っ赤な消火器を手に取った彼は、黄色い安全栓を抜き取った。そのままノズルを持って、取っ手に向けて消火剤を噴射する。
ブシュッと音がすると同時に、真っ白な煙が目の前を覆い尽くしていく。咄嗟に顔を背けた僕は、腕で自身の口元を押さえた。
「……よし、お前は扉開けとけ。オレは向こうを片付けてくる」
「わ、わかりました……!」
男の指示に扉を見れば、取っ手に張り付いていた羽虫は消火剤によって殺虫されたのか、黒い塊が地面に落ちているのが見える。
僕は慌てて扉に駆け寄ると、痛みを堪えて取っ手を掴んで隣の車両への道を開くことに成功した。
踵を返した男は、消火器を使って周囲の羽虫を追い払っている。
コートで応戦していた高月さんや喜多川たちは、武器として使っていた布などほとんどが溶けてなくなっていた。
男が消火剤を撒き散らしている隙に、みんなが一斉に移動してくる。お陰で命拾いができた。
それでも、広い範囲に噴射できるとはいえ、消火器一本で防げる時間などたかが知れていた。
「チッ、弾切れか」
噴射する力が弱まったかと思うと、消火剤の量が減り空気だけが漏れ出す。消火器の中身が空になってしまったのだろう。
舌打ちをした男は、用済みとなった消火器をそのまま車両の後方へと投げつける。
噴射される消火剤によって退治された羽虫たちの群れは、足元に灰色の山となって積み重なっていた。
けれど、車両の外からは次々と新たな羽虫たちが乗り込んでくる。無尽蔵に湧き出る奴らを相手し続けるのは時間の無駄だろう。
「い、急いでください!!」
対抗手段を失った男は、僕が声を掛けるよりも前に走り出していた。
その背後からは、まるで大きな波が押し寄せているみたいに、大群となった羽虫がなだれ込んでくるのが見える。
すべてが黒い液体を纏っているのだ。あれに飲まれれば抵抗するどころか、人間なんてひとたまりもないだろう。
扉を開いて待つ僕の手元に、小さな群れとなった羽虫が邪魔をするように飛びついてきた。
単なる羽虫なら叩き潰せば済む話だというのに、指や手の甲に熱した油でも跳ねている感覚に襲われる。
「痛い、って……ああッ!!」
このまま手を離してしまえば、あの男は雛橋さんと同じように、闇に飲まれてしまうのかもしれない。
一度閉じた扉を開けることはできるだろうが、羽虫の波も後を追っている。彼を助けるチャンスは、この瞬間だけしかないだろう。
けれど、これ以上痛い思いをするくらいなら、いっそこの手を離してしまいたい。
僕にとってあの男は、今さっき初めて出会ったばかりの赤の他人で、申し訳ないが命を張る義理もない。
あの男がこの場で命を落としたとしても、悲しむ人間はこの場にはいないのだ。
この扉を閉じてしまえば、僕たちは前に進めるし、これ以上羽虫に襲われることもないのに。
(……な、にを……考えてるんだ)
痛みと血で手が滑りかけた時、僕は自分の中に生まれた非情な考えを振り払う。
見ず知らずの赤の他人である彼は、僕たちを助けてくれたというのに。彼をこのまま置き去りにしていいはずがない。
こちらの車両へ駆け込む男のすぐ真後ろに、車両の天井までもを覆い尽くすほどの黒い波が迫る。
彼が飛び込んでくるのとほぼ同時に勢いよく扉を閉めると、追いつきかけていた波の先端が分断された。挟まった羽虫が耳障りな音を立てている。
「うわっ、やめろ……!!」
ちぎれた拍子に個々の羽虫となって飛び散ったそれらは、僕の顔の周りで不快な羽音を立てている。
両腕を振り回してどうにか叩き落とすと、ようやく車内に静寂が訪れた。――そうはいっても、耳の奥にまだ羽音が聞こえているような気がするのだが。
「あの……ありがとうございました」
「礼はいい、オレも助かった」
「僕、清瀬蒼真っていいます。それと高月さん、喜多川、桧野さん。……あと、福村です」
順番に紹介をしていくと、福村以外は男に向かって軽く会釈をする。
和気藹々と自己紹介をしているようなタイミングではないが、共に行動するのならお互いに名前くらいは知っておくべきだろう。
「……オレは、幡垣翠だ」
冷たくあしらわれたらどうしようかとも考えたが、男――幡垣さんは、今度こそ僕たちに名乗ってくれた。
幡垣さんは片手を差し出してくれたのだが、僕は出しかけた右手が血まみれだったことを思い出す。
無我夢中で忘れていた痛みが一気にやってきた気がして、思わず顔を顰めてしまう。
それに気がついたらしい彼は、引っ込めかけた手で僕の肩をポンと叩いたのだった。
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