見えてる王子と、見えない悪役令嬢の話
「君と僕とはもう終わったはずだ! 君が何故まだここにいる!?」
ああ、また始まった――。
フィオナは絶望的な気分で王子を見た。
婚約者であるディートリッヒ第一王子。
王子は青い顔で、虚空に向かって喚いている。
「き、君と僕とはもう何の関係もないんだ! それなのに何故宮殿をうろつく!? 僕に何の恨みがあるんだ! きっ、君が悪いんじゃないか! 全部全部、君がしたことだ!」
怯えたように言う虚空を見つめる王子の焦点は合っていない。
フィオナはその背中にそっと寄り添い、耳元で優しく囁いた。
「ディートリッヒ殿下、落ち着いてください。ダニエラ様は――」
「僕を恨んでいるのか!? あっ、あれは僕のせいじゃないじゃないか! 君にも説明したはずだ! そ、それなのに……そんなに恨んでいるなら、君は何故あんなことをした!?」
「殿下、殿下。ねぇ、私の話を聞いて!」
ディートリッヒは頭を抱えた。
「やめろ……やめてくれ! これ以上、僕の婚約者を傷つけないでくれ……!」
「殿下――」
フィオナは背中を擦ってやった。
ディートリッヒは脂汗をかきながら呻いた。
「君が――君が彼女を階段から突き落とした。君は彼女を殺そうとした……だから僕は……君を……!」
嗚呼――殿下はまた幻を見ている。
フィオナは酷く悲しい気持ちで、苦しそうに目を閉じるディートリッヒを見た。
◆
フィオナは彼――ディートリッヒ王子の婚約者である。
彼にはダニエラという公爵令嬢の婚約者がいた。
魔法学院の卒業パーティの日、ディートリッヒはフィオナに告げた。
『ダニエラとの婚約を破棄し、君と婚約し直したい』――と。
一瞬、聞き間違いではないかと思った。
王子は覚悟を決めたような顔でフィオナに告げた。
平民であるフィオナには、聖なる光の魔力が生まれつき宿っていた。
王家を継ぐ人間は、その破魔の力を持つ人間を庇護しなければならない。
いや、それだけじゃない。
僕は王子としてではなく、一人の人間としても、君を愛しているつもりだ。
ダニエラには悪いが、僕は彼女との婚約は破棄すると。
そんなことを、ディートリッヒは真剣な口調で言った。
彼を愛していない、と言えば嘘になる。
誰にでも優しく、紳士的で優しいディートリッヒ。
平民である自分にも気さくに話しかけてくれたディートリッヒ。
平民である故、なにかと嫌がらせを受ける自分を庇ってくれたディートリッヒ。
フィオナの知らないことはなんでも知っていたディートリッヒ。
いや――違う。
学院にいた三年で、フィオナははっきりと彼に惹かれていた。
フィオナは随分迷った挙げ句、その申し出を受け入れた。
ディートリッヒはありがとう、と微笑んだ。
それから卒業パーティで、ディートリッヒはダニエラに婚約を破棄することを告げた。
突然の宣言に、ダニエラは狼狽した。
何故、と王子に向かって慟哭した。
会場は騒然となった。
そしてダニエラは俯き、涙をこぼしながら会場を飛び出して――。
それが、フィオナがダニエラを見た最後だった。
学院を卒業してすぐ、ディートリッヒとフィオナは王宮に移り住んだ。
だがそれ以来、ディートリッヒは次第におかしくなっていった。
日毎に憔悴し、精神のバランスを失い、どんどんやつれていった。
フィオナの言葉にも耳を傾けず、次第に自分の部屋にこもりがちになった。
そして時たま、今のようにはっと顔を上げ、大声で虚空に喚き立てるのだ。
君と僕とはもう終わった。
君が悪いんじゃないか。
なのに何故君は僕を責める――?
そして最後に、いつも同じことを叫んだ。
「君が彼女を階段から突き落とした」と。
フィオナには――その記憶がない。
そもそもフィオナは、ダニエラとは数えるほどしか会話したことがなかった。
平民と公爵令嬢、どう考えても親しい友人になれる間柄ではない。
ましてや、王子を奪い合えるほど対等でもなかった。
だが王子は必ず言うのだ。
君が彼女を階段から突き落とした、と。
だからあんなことをしなければならなかったと。
すべては王子の妄想だったのではないか――。
王子の怒声を聞く度に、フィオナの疑念は徐々に確信に変わっていった。
フィオナには、ダニエラに階段から突き落とされた記憶はない。
フィオナを階段から突き落としたというのは、ディートリッヒの妄想ではないのか。
ダニエラは冤罪だったのではないか。
王子は――本当はダニエラを愛していたのではないか。
だから良心の呵責に苛まれる。
だからそこにいないダニエラに向かって叫ぶのではないか。
ディートリッヒはよろよろと立ち上がった。
「殿下――」
ディートリッヒは無言で立ち上がり、よろよろと自分の部屋に入っていった。
ドアに内鍵をかける音が、やけに大きく響いた気がした。
◆
ある日のことだった。
ディートリッヒがどこかへ外出し、宮殿に帰ってきたときのこと。
フィオナはディートリッヒの身体から、いつもとは違う香りがすることに気づいた。
「これは――?」
薔薇の香を基調とした匂い。
それにしても、どこかで嗅いだことのある匂いだと思った。
どこでだったか――と思案を巡らせて、フィオナは目を見開いた。
「ダニエラ様の匂い――?」
そうだ。これは――ダニエラの香水の匂いだ。
学内ですれ違う度に、彼女から華やかに香っていた香水の匂い。
平民であるフィオナには一年かかっても稼ぐことができない金額であろう、高級な香水の香りだった。
そんなはずはない。
彼と彼女はもう何の関係もない。
元婚約者同士というだけの間柄だ。
彼自身、そう繰り返しているのだ。
なのに、何故彼からダニエラの香水の匂いがするのだ?
どこかで王子はダニエラと会ったのか――。
フィオナがそう思った、その途端だった。
パーン! という音がして、部屋の花瓶が砕け散った。
驚いたのはフィオナだけではなかった。
ディートリッヒ王子でさえ、粉々に砕けた花瓶を呆然と見ている。
突然、ディートリッヒが宙を見上げた。
「ま――また君か!? 君なのか! 何故こんなことをする! 君は死んだんだぞ!」
耳を疑った。
ディートリッヒを凝視しているフィオナを無視して、ディートリッヒは喚き散らした。
「僕を脅そうというのか!? 何故だ! 君は――自ら命を絶ったんじゃないか! 自分でやったことだ! どうしようもなかったじゃないか! ぼっ、僕に八つ当たりするのはやめてくれ! うわああああああ!!」
王子は狂を発したように喚き散らす。
まるでそこにダニエラが立っているとでも言うように。
ディートリッヒの視線は宙の一点を凝視している。
「ダニエラ様が――死んだ?」
ぞっ――と、フィオナの背筋に悪寒が走った。
今までフィオナは、王子は幻を見ているのだと思っていた。
良心の呵責に苛まれ。
本当は愛していた女の記憶を追って。
精神を病んだ末に、こうして日がな一日幻を見ているのだと。
だが――今のは?
幻で花瓶が砕けることなどありえない。
妄想が現実化したとでも言うのか。
そして――最も気になるのは、ディートリッヒの今の一言だ。
「君はもう死んだんだぞ」――。
王子は確かにそう言った。
そして「自ら命を絶った」とも。
まさか、王子は。
王子には、私には見えないものが見えているのか――。
婚約を破棄されたダニエラ。
彼女が、失意と恨みの余り自殺したのだとしたら。
死してなお、霊魂となって彼につきまとっているとしたら。
憎き泥棒猫であるフィオナをディートリッヒから引き剥がそうとしているなら。
それなら、全ての辻褄が合う。
それなら、ディートリッヒの身体から発する香りは――死人のものか?
有り得ない、有り得ない、そんな馬鹿なことがあるはずがない。
フィオナはそれをくだらない妄想だと笑おうとした。
起こりうるはずのないことだと必死に否定しようとした。
だが、ディートリッヒはますます大声で言った。
「お願いだ! 僕はどうなってもいい! お願いだから僕の婚約者だけは助けてくれ! 僕を――僕を殺してもいいんだ! 頼む! お願いだよ……!」
ディートリッヒは懇願するように床にうずくまり、頭を抱えて震え出した。
ダニエラ様は、王子ではなく、私を狙っている――。
フィオナは愕然と、震えるディートリッヒを見つめた。
ふと、ディートリッヒがなにかの気配を感じて顔を上げた。
窓ガラスに写る自分をぼんやり見つめたディートリッヒは、今そこで気がついたというように、隣で肩を抱くフィオナをゆっくりと見た。
「フィオナ……?」
「は、はい。私はここにおりますよ?」
それがなにか……と言いかけたときだった。
ディートリッヒが頭を抱え、悲鳴のように叫んだ。
「で、殿下――!?」
「うるさい! やめてくれ! もう聞きたくない! 僕はもう何も見ないぞ! こんなことはもうたくさんだ! うわあああああっ!!」
その瞬間に見たディートリッヒの顔。
なにかに怯えきった目。
げっそりとこけた頬。
それまるで死人の顔だった。
これが戯れを言っている顔だとは、フィオナにはとても思えないほどに。
その形相の凄まじさに、はっと、フィオナは後ずさった。
ディートリッヒはフィオナを跳ね飛ばすようにしてまろび立つと、私室に駆け込み、無言で内鍵をかけてしまった。
フィオナは呆然と虚空を見上げるしかなかった。
◆
それ以来、フィオナは以前にも増してディートリッヒに寄り添うようになった。
ディートリッヒを一人にしてはおけない。
彼が何に怯えているとしても、守れるのは自分だけだ。
その一心でフィオナはディートリッヒをついて回った。
だが――もはやそれも限界だった。
「なんで君がここにいるんだ! 出ていけと言っただろう! 何遍言わせるんだ! 頼む、出ていってくれ! 僕が弱る姿がそんなに見たいのか!?」
「殿下! 殿下落ち着いて! 誰もいらっしゃいませんよ! 私がついてますから、どうか、殿下……!」
ディートリッヒは腰に縋り付くフィオナの言葉も耳に入っていないようだった。
「きっ、君なんかと一度でも婚約した僕が馬鹿だった! こんな……こんなことをしやがって! 出ていけ! 僕は王子だぞ! 僕の言うことが訊けないのか! 消えてくれッ!」
ひとしきり大騒ぎした後、ディートリッヒは突如、電源が切れたかのように止まった。
そしてそのまま、へなへなと床に崩れ落ち、廊下の壁に背を預けて頭を抱えた。
「殿下……」
フィオナが王子の肩に触れようとしたときだった。
「――君が、彼女を階段から突き落としたりしなければ。僕だって……君が好きでいられたのに」
そうぽつりと言って、ディートリッヒはよろよろと立ち上がった。
「殿下、どこへ……」
フィオナの言葉にも、王子は何も答えなかった。
今や王子は枯れ木のようにやせ細り、目は痛々しく落ち窪んでいた。
炯々と輝く目だけは、常に怯えたようにあちこち動いて定まることがない。
王子は聞こえない声で何かをぶつぶつと呟きながら、自室に入っていった。
近頃、ディートリッヒの発狂はますます頻度が上がっていった。
王子はますます孤独になり、宮殿の人間さえ遠ざけるようになっていった。
あの英名なる王ですら、一人息子のディートリッヒのことを諦めかけていた。
今やディートリッヒには自分しかいない――その思いはフィオナの中で大きくなるばかりだった。
もはや一刻の猶予もない。
彼をこうしている何者かから、彼を守らなければ。
相変わらず、ディートリッヒは日に何度も大声を上げ、見えないダニエラに向かってフィオナの命乞いをする。
こんな彼を放っておいたら、遠からずディートリッヒは――。
だが、どうやって彼を助ける?
フィオナの必死の思索はいつもそこで打ち切られる。
もしあれがダニエラの亡霊の仕業だとしても、自分にはダニエラが見えない。
触れることは愚か、感じることもできないのだ。
こんな自分が、執拗な彼女の精神攻撃からどうやってディートリッヒを救うというのか。
フィオナは悶々と考えた。
「君が階段から突き落としたりしなければ」――。
気になるのはそこだった。
フィオナには、ダニエラからそのような仕打ちを受けた記憶はない。
繰り返し叫ぶあの言葉には一体何の意味があるのか。
あれは王子の妄想であるのか。
それとも――なにか意味のある言葉なのか。
本人に訊ねたことは今まで一度もなかった。
ふと――フィオナは王子が消えていった部屋を見た。
王子はいつもあそこで何をしているのだろう。
思えば、あの部屋にいるときだけは、王子は大声で叫び出すことはない。
ダニエラはあの部屋には入ってこられないのだろうか。
それともあの部屋にいる限りは妄想がやってこないのだろうか。
王子は――あそこで何をしているのだろう。
フィオナはしばし、王子が消えていった部屋のドアを見つめ続けた。
◆
そっ――と、フィオナは王子の自室のドアを開けた。
開いた隙間から中を伺う。
部屋からは濃厚にディートリッヒの匂いがした。
フィオナが心から心配する男の香りだった。
「ごめんなさい――」
フィオナはドアの隙間から身を滑り込ませた。
いざとなったらなんとでも釈明はできるだろう。
彼を守るには、何も答えようとしない彼の心の闇を暴くしかない。
広い王子の自室に忍び込んだフィオナは、ベッドがある以外はただの箱となった王子の部屋を呆然と見回した。
窓という窓すべてにはカーテンが引かれ。
床には埃が積もり。
王子の私室だというのに、天井には蜘蛛の巣さえ張っている。
豪華な調度品はすべて叩き割られ、壊されていた。
鏡や銀食器など、顔が映り込みそうなものは全て、すべて割られるか、布がかけられるかしている。
ああいう風になってから、王子はこの私室に誰も入るなと厳命していた。
侍従も、掃除の人間も王子の部屋に入ることはできなくなった。
ベットメイキングさえも、王子が自ら行う徹底ぶりだった。
なにか秘密でも隠しているのだろうか。
いや――違うだろう。
ディートリッヒは明らかにここに避難している。
まるでダニエラの霊がここには入ってこれないことを確信しているかのように。
何がある? 一体この部屋はどうなっているんだ。
更に部屋に進み入ると、足元に何かを発見し、フィオナは視線を落とした。
「なによ、これ――?」
フィオナは独り言ちた。
部屋に描かれていたのは、巨大な魔法陣だった。
強力な魔法だ――ひと目で分かる。
この魔法を組んだ人間は、魔術に関して天才的なセンスを持っている。
学院で学んだ知識を引っ張り出しながら、フィオナはその魔法陣を見た。
この記号が意味するものは、拒絶だ。
この紋と構成式は、緊縛……。
このルーンは、守護。
全てを総合するに、これらが意味するものは――結界?
どうやらこの魔法陣を組んだ人間は、この部屋に一種の結界を張っているらしい。
やはり――フィオナは確信した。
やはりディートリッヒが見ているのは幻なのではない。
何か途轍もない存在なのだ。
しかし、こんな強力な魔法、一体誰が組んだのだろう。
ディートリッヒは座学や剣術には秀でているが、魔法の成績は中間だったはず。
フィオナですら苦労するだろう、こんな高度な魔法の構築ができるはずがない。
それに、如何にこれを描いた人物が天才的な才能を持っていたとしても。
こんな強大な魔法、組むのに数ヶ月はかかるはず――。
なんだ、何者なんだ。
殿下を苦しめている存在はそんなに強力なのだろうか。
魔法陣を見たフィオナが恐怖した、その途端だった。
「とうとう入ってきたわね」
突然声をかけられたことよりも、その声の冷たさに、ぞくっと背中が反り立った。
低く、落ち着いた女の声。
この声には――聞き覚えがあった。
あの日、慟哭した声。
何故、と、王子に向かって泣き叫んだ声。
そして、ほのかに漂う、あの薔薇の香水の香り――。
フィオナはゆっくりと、背後を振り返った。
「久しぶりね、フィオナ」
そこにいたのは、ダニエラだった。
「ダニエラ様――」
フィオナの背筋が凍りついた。
何故、どうしてここにいる。
あなたは死んだじゃないのか。
自ら命を断ったのではないのか。
フィオナを見て、ダニエラは瞬時、俯いた。
「あなたには強力な聖なる魔法の力がある――この程度の結界魔法では長く持たないのはわかっていたわ」
とても静かな声でダニエラは言った。
そして一歩、また一歩と、フィオナに歩み寄って来た。
フィオナも、同じ分だけ後ずさる。
瞬時の沈黙の後。
ダニエラは何かを決意したように顔を上げた。
「でも――もう終わりよ」
ダニエラがそう言った瞬間。
フィオナの神経が閃光を発した。
フィオナの視界が暗転した。
◆
フィオナは目を開けた。
目の前にいるのはダニエラである。
慌てて逃げようとしたものの、身体が言うことを聞かなかった。
躍起になって腕でも足でも動かそうとしたが、まるで見えないなにかに拘束されているかのように、指の数本がかろうじて動くだけだ。
「な、なによ、これ――!?」
「無駄よ。あなたにもう身体の自由はない」
肘を抱きながら、ダニエラが冷酷に告げた。
「強力な緊縛呪よ。この魔法を組み立てるのに半年もかかったわ。さすがのあなたにも破れないようね」
フィオナはダニエラを見て、それから自分の足元を見た。
そこには巨大な魔法陣が描かれ、自分はその真ん中に立っていた。
今更ながらにフィオナは思い出した――ダニエラは補助系魔法の達人だった。
その力は学院の教授陣も舌を巻くほどで、魔法の成績はいつも学院トップだった。
では、あの部屋に魔法陣を組んだのは、ダニエラか――。
フィオナはダニエラを見た。
血色も普通だし、足もある。
どう見てもダニエラは死んでいるようには見えなかった。
だが――彼女は死んでいる。
死んでいるはずなのだ。
絶対に生きているはずがない。
「ダニエラ様! 死んだはずのあなたが、何故ここに……!」
フィオナは苦しくもそう絞り出した。
「あなたは何故……殿下を殺そうとするんですか……! あなたが憎いのは殿下ではなく……私、で、あるはず……! 彼を殺すぐらいなら……私を……私を殺してください……!」
もはや口を動かすのも辛かったが。
だが、満身の力を込めて腹に力を入れ、フィオナは懇願した。
「あなたは……もう死んだ! 自ら命を絶ったと、殿下が――! 私が、身代わりになります! どうか……どうか殿下を赦して……!」
「ダニエラ! ダニエラじゃないか!」
はっ、と、フィオナは視線を移動させた。
部屋に入ってきたのは――ディートリッヒだ。
ディートリッヒはまるで幽霊を見たかのように瞠目している。
「殿下……!」
「ダニエラ、ここでなにをやってる!? 君は大怪我をしてるんだぞ、なぜ宮殿にいるんだ!」
フィオナは驚愕の目でディートリッヒを見た。
ダニエラはディートリッヒとフィオナを交互に見つめてから、ゆっくりと頷いた。
「なるほど――そういうことね」
「殿下……! あ……! た、助けて……!」
「魔法陣が発動しているじゃないか――!? だ、ダニエラ! 一体何があったんだ!?」
フィオナの必死の言葉も、ディートリッヒには聞こえていない。
ダニエラは重く、長くため息をついた。
そして、俯いたまま言った。
「殿下には――彼女が、フィオナ嬢が見えないのですね」
えっ?
フィオナはダニエラを見た。
「フィオナ!? フィオナがどこにいる! 彼女は――もう死んだ!」
「目の前にいらっしゃいますよ、殿下。私が魔法陣で拘束している。幸か不幸か――私とは会話も可能なようです。そうよね、フィオナ?」
ダニエラが言うと、ディートリッヒが虚空を見上げた。
「フィオナ――?」
ディートリッヒの視線が、フィオナと合わない。
すぐ目の前にいるのに。
こんなにも近くにいるのに。
嘘だ。
そんなことがあるはずがない。
フィオナはがくがくと震えた。
私が――死んでいる?
そんな馬鹿な。
――と、急に視界が赤く染まり出した。
はっ、と下を見ると、ぽたり、ぽたりと自分の足元に、赤い染みが出来ている。
血だ。自分はどこかから出血しているらしい。
「殿下、彼女は何も覚えていないようです。彼女の聖なる破魔の魔法が、かろうじて彼女の霊魂をこの世界に留めているようですね」
「えっ――?」
「けれど、所詮肉体を持っていない霊魂、記憶はとぎれとぎれのようですわ。自分がどうなっているか気づかず、時が経ったことも知らず、それでも――フィオナ嬢はあなたを私から必死に守ろうとしていた」
「君から? どういうことだ?」
「彼女は、私が死んでいるものと勘違いしていたようです。ここから先は直接お聞きください。私が彼女の言葉を代弁します。彼女に――話しかけてあげて」
ダニエラが一歩、その場を退いた。
よたよたと数歩歩み寄って、ディートリッヒは言った。
「ふぃ、フィオナ! 何故君はあんなことをしたんだ?」
あんなこと?
フィオナは視線だけで問うた。
ディートリッヒは辛そうに顔を歪めた。
「君は――僕の婚約者であるダニエラを階段から突き落とし、殺そうとした――何故だ?」
◆
フィオナは頭が真っ白になった。
「私が――ダニエラ様を?」
ダニエラを見ると、ダニエラが悲しい顔で頷いた。
「あなたは――私があなたを突き落としたと、そう思ってるのね?」
「そ、その通りです。でも私には――」
「その記憶はない。当然よ。あなたは覚えていないんだから」
ディートリッヒはフィオナとダニエラに視線を往復させた。
「ダニエラ、彼女はなんと言ってる?」
「彼女は何も覚えていないと。彼女はあなたを全く恨んでいない。ただ何もかも覚えていなかっただけです。だから勘違いをした。私が死んで亡霊となり、殿下を苦しめ、フィオナ嬢を階段から突き落としたと――そう勘違いしていたようです」
「なんてことだ……。違う……違うんだ、フィオナ……!」
ディートリッヒはがっくりと床に膝をついた。
「君は――死んだんだ。君は、自分の喉を切り裂いて死んだ――。僕に迷惑をかけたくないと、その一心で――」
ディートリッヒが嗚咽を漏らし始めた。
「僕たちが婚約してすぐ、君は重い熱病にかかり――視力を失った。君は、王妃となるべき人間が平民で、しかも目が視えない人間であるのは、王国の未来を傷つけると、婚約を破棄させてくれと――うわ言のようにそう繰り返したんだ……」
フィオナは息を呑んだ。
フィオナの――頭ではない、まさに魂に刻まれた苦痛。
今のディートリッヒの言葉で思い出した。
あの激しい苦しみを。
全身を焼き尽くすような高熱を。
その末に――光を失った絶望を。
「高熱にうなされながら――君は、君は小さなナイフで自分の首を掻き切った。僕が気づいた時には血まみれで――君は……死んでいた。とても安らかな顔で……ああ……!」
ディートリッヒは顔を両手で覆った。
フィオナは自分の身体の下を見た。
まるで赤い染料をぶちまけたかのように、自分の首から下が血に濡れていた。
「それからすぐ、僕とダニエラは復縁した。それからだ。この宮殿に、僕に、奇妙な出来事が起こり始めた。死んだはずの君の声が聞こえたり、君の香りが横を通り過ぎたり、鏡に君が写り込んだり――僕は君が、君が、復縁した僕らを恨んでいるものだと……!」
その先は、言葉にならなかった。
ディートリッヒは魂が張り裂けそうな声で慟哭した。
フィオナは唐突に理解した。
今までディートリッヒが虚空に向かって喚き立てていた、本当の理由を。
あれは幻を見ていたのではない。
ましてやダニエラの亡霊に怯えていたのでもない。
視えない自分を必死に探していたのだ――。
「それからすぐ、ダニエラが宮殿の階段から落ちた……誰かに突き飛ばされたかのように、宙を飛んで……ダニエラは大怪我を負った。それから僕は――僕は君が、ダニエラを殺そうとしていると確信したんだ――ちくしょう、何故、君はあんなことを……」
違う、違う。
自分はそんなことはしていない。
フィオナは涙を浮かべてダニエラに首を振った。
ダニエラは頷くと、崩折れたディートリッヒの肩を抱いた。
「殿下、殿下。彼女は何も覚えていません。そんなことはしていないと言ってほしいと――私に言っています。私だって彼女を恨んでおりませんわ」
「じゃあ、じゃあどうして――」
「彼女には強力な光の魔力があった。なおかつそれは極めて制御の難しい魔法――本人の意志に関わらず発動することもある。ましてや彼女は自分が死んだことに気づいていない。制御などできるはずもありませんよ」
そうか。
ディートリッヒからダニエラの香水の匂いがした時。
部屋の花瓶が粉々に砕け散った訳。
あれは――自分が起こしていたんだ。
自分でも気づかないダニエラへの嫉妬。
どんなに頑張っても手に入れられない力を妬んで。
私は――私はダニエラ様に嫉妬していたんだ。
つう、と、フィオナの目から生温かい滴が流れ落ちた。
「ダニエラ様――」
「何? フィオナ」
フィオナは言った。
「私――思い出しました。私は死んだ。死んでなお、殿下をお慕いするあまり――殿下を今まで苦しめていた。そして、私は……ダニエラ様にひどいことを……」
フィオナは訥々と言葉を絞り出した。
「私はずっと怖かった。平民であるのに王妃になれるわけがない。なってはいけないのだと、愚かにも思い込んでいました。私は貴族であるダニエラ様に嫉妬していたんだと思います……だからあんなことを……。私は、私は本当に、愚かで小さい人間です……」
ダニエラは首を振った。
「私だってそう、あなたに嫉妬していたわ。聖なる破魔の魔法を持った人間は王家が庇護する――あなたとあの学園で出会ってから、私はずっと怖かった。あなたに殿下を奪られるのがね……。私、一回だけ、あなたを階段から突き落とそうとしたことがあるのよ」
えっ? フィオナだけでなく、ディートリッヒもダニエラを見た。
ダニエラはばつの悪そうな顔で視線を逸した。
「……あなた、めちゃくちゃ足腰丈夫よね。それに鈍感。思いっきり突き飛ばしたのにつんのめっただけで、私を不思議そうに振り返ったの。覚えてない?」
「そ、そんなことありましたっけ……?」
「覚えてないの? 呆れた。今日の今日まで罪悪感で死にそうだったのに。他にも教科書捨ててやったり、足引っ掛けて転ばせてやったり、悪い噂流したり、結構必死になっていじめてたのに。あなたは堪えてるどころかそもそも気がつかないんだもの。いつもいつも子犬みたいに殿下、殿下って、周りを走り回って……。最後には根負けしたわ、これはあなたにくれてやる外ないな、って」
「だ、ダニエラ、君はなんてことを……!」
咎めるディートリッヒを、ダニエラがキッと睨んだ。
「私も大概だけど、婚約者を捨てるようなクソ男にだけは言われたかないわ」
その一言に、ディートリッヒはシュン、と項垂れた。
その様がおかしくて、フィオナは泣き笑いに笑った。
「さ、私とあなたはこれでおあいこ。謎解きは終わりよ」
そう言って、ダニエラは魔法陣の一部をハイヒールでかき消した。
瞬間、魔法陣の緊縛呪が消え、フィオナの身体が自由になった。
「フィオナ、大丈夫?」
大丈夫? の意味を察して、フィオナは頷いた。
「私は――ここにいるべきではないでしょう。このまま私がここに残れば、またダニエラ様や殿下に迷惑をかけてしまう。私は――然るべきところにいって、然るべき形に還ろうと思います」
迷いながらもそう言うと、ダニエラは深い悲しみの表情を浮かべた。
その表情を見るのがつらくて、フィオナは精一杯明るい声を出した。
「それと――ダニエラ様! これから殿下を頼みますね!」
そう言うと、ダニエラが困ったような半笑いを浮かべた。
「一応形だけは復縁してやったけどね……ソイツ、私たち二人を弄んだ最低の男よ?」
「うっ……! そ、それは……!」
「わかってますわ。殿下は臆病で、優柔不断で、頼りない人です。だからこそ、ダニエラ様がそばにいてくれれば……私も安心ですわ」
「殿下! フィオナに『殿下は臆病で優柔不断で頼りなくて頭も根性も悪い最低の男だから一生尻に敷いてひん曲がった根性を叩き直してあげて!』って言われてしまいましたわ! あぁどうしましょう! そうでなければ彼女はおちおち天国にも行けないと言ってますわ!」
あてつけのようにダニエラが大声で言うと、ディートリッヒが情けない声を上げた。
「ふぃ、フィオナまで何を言うんだ!? 僕をそんなに悪しざまに言うことないじゃないか! あ、でも、た、確かに、君たちを弄んだのはそうだけど……」
「情けない顔ですわね」
「そうね、全く、お互いこんな奴のどこが気に入ったんでしょうね」
「ええ、全くです」
ダニエラとフィオナは笑い合った。
「あと、ダニエラ様」
「何?」
「最後に殿下にお願いします。私のことはきっと忘れてください、と」
その言葉にも、ダニエラは微笑んだだけで、何も言わなかった。
さて、と、ダニエラはディートリッヒに視線を移して言った。
「殿下、フィオナ嬢は納得してくれました。今、拘束を解いて目の前にいます」
「フィオナ、フィオナ……本当に、そこにいるんだね?」
ディートリッヒの目が虚空を泳ぐ。
フィオナは跪くディートリッヒの首を抱きしめた。
「殿下」
腕に力を込めようとすると――身体が透けてしまった。
フィオナにはもう、ディートリッヒのぬくもりを感じることは出来なかった。
「殿下……彼女を抱き締めてあげて」
そう言ったダニエラの声は震えていた。
ディートリッヒがゆっくりと、そこにいるだろうフィオナに腕を回し、しっかりと抱き締めた。
「フィオナ……僕は君がどんな気持ちでいたかも知らないで、君を恐れ、疑って、罵声を浴びせて……許してくれなんて言えない」
「もういいんですよ、殿下」
「フィオナ……そこにいるかい?」
「えぇ、フィオナはここにおりますよ」
「フィオナ、僕は君を……」
ディートリッヒがその先を言い淀んだ。
ダニエラが顔を背ける。
その目に光っているのが何かを考える間に、フィオナの身体が光に包まれた。
「ディートリッヒ殿下、フィオナ・サリバンは――あなたをお慕い申しておりました」
「フィオナ――!」
「また、いつかお会いしましょう」
「フィオナ、僕は、僕は――っ!」
「さようなら――」
フィオナの心を、温かな感情が満たした。
目の前の景色が淡い金色の光りに包まれ――。
フィオナの魂は、静かに天に召されていった。
◆
『光の聖女 フィオナ・サリバン ここに眠る』
もう冬も終わろうという三月の始め。
ディートリッヒとダニエラは、そう刻まれた墓の前に立っていた。
「フィオナ、来たよ」
そう言って、ディートリッヒはしばらく無言で墓を見下ろした。
彼女の人生を象徴するような、輝くように白い石の墓。
この墓をこの石で作ろうと言ったのは、他ならぬダニエラだった。
「本当に全く――一年前はあんなにドタバタ騒ぎ起こしてくれて。あなたに階段から突き落とされた時に折った足、まだ痛むのよ?」
憎まれ口を叩きつつも、ダニエラは花束をそっと墓前に捧げた。
真っ白い花弁の花を十七本。
彼女の享年と同じ本数だった。
「フィオナ。僕たち、正式に夫婦になったよ」
その後、なんと続けようか迷って、ディートリッヒは勇気を出して言った。
「君のお望み通り、毎日尻に敷かれてる。もう本当に――くたびれる毎日さ」
ドスッ! と、ダニエラの肘鉄がディートリッヒの脇腹を思い切り突いた。
うっ、と身体をくの字に折ると、ダニエラが氷のように冷たい目で言った。
「あんな程度で尻に敷かれてるなんて抜かすなら、あなたまだまだ恵まれてるわよ」
「は、はい、そうです……」
「本当に明日から厳しく躾けてさしあげましょうか?」
「い、いや……ごめんなさい」
「よろしい」
ふぅ、とダニエラが虚空を仰いで言った。
「あなたが今の私たちを見てたら、なんて言うでしょうね。相変わらずですね、って言うかしらね……」
ダニエラはフィオナの墓前にしゃがみ込んだ。
それから、二人はぼーっとフィオナの墓を眺めた。
なぁフィオナ、と、ディートリッヒは語りかける。
この一年、いろんな事があったよ。
不幸な誤解が解けて僕はまともになった。
父である王は涙を流して喜んでくれた。
宮殿の侍従や友人も、本当によかったと言ってくれた。
でも、正直言えばちょっぴり寂しいんだ。
だってあのときは、僕のすぐそばに君がいたから。
あのときの僕は君に怯えていたんじゃない。
突然君の声が聞こえたり。
君の香りが横を通り過ぎたり。
鏡や窓に、僕に寄り添う君が見えたり。
僕は悲しかったんだ。
そこにいるのに、君と会話したり、君に触れたりできないことが。
僕はそれがたまらなく悔しくて、悲しくて、気が狂いそうだった。
今こうしてダニエラと夫婦になったのに。
まだ僕の心の中のどこかには君がいる。
僕は本当に優柔不断で最低な男だ。
こんなんじゃ、いつか君を忘れてしまうかも知れない。
でもきっと――忘れないよ。
僕はこの先何年生きるかわからない。
けれど、きっと忘ない。
ダニエラも、それはきっと赦してくれるだろう。
たとえ君がそれを望まなくても。
また会う日まで、きっと君を忘れない。
それまで――空から僕らを見守っていてくれないか。
随分長い間、二人はそこにいた。
長い長い時が流れた気がした。
ふと――ディートリッヒは風の冷たさを頬に感じた。
太陽が傾き始めていた。
「戻ろうか、ダニエラ。お腹の子にも障るよ」
ダニエラは、無言で立ち上がった。
ディートリッヒはダニエラの手を取った。
墓に背を向けて歩き出した、その時だった。
「フィオナはずっとここにおります」
ディートリッヒは、思わず足を止めた。
宙を仰ぎ、今聞こえた声に耳を澄まそうとした。
だが、そのとき一層強く吹いた風が、その声の余韻を掻き消してしまった。
幻だったかな――。
そう思った時。
ダニエラがぎゅっとディートリッヒの手を握った。
「聞こえましたわね――」
ダニエラが、空を見上げて微笑んだ。
「ああ」
ディートリッヒの胸を、温かな心が満たした。
「聞こえた」
ディートリッヒは微笑み返す代わりに、ダニエラの小さな手を握る力を強くした。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
千鳥ノブ氏ならきっとこう言うでしょう。
「オチがミエミエなんじゃ」と。
それでももしお気に召しましたら、評価・ブックマーク等よろしくお願いいたします。
【VS】
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