3.さよなら
コンクリートの階段を降りて、建物の外に出ると、
ほんの少し太陽は西側に傾いていた。
だいぶ日が長くなっていたので、
夕方近いこの時間でも、まだとても明るかった。
駅に向かって、猫は歩き出した。
駅は、南へほぼ一直線の所にある。
そう、あの新宿の高層ビル群のある方だ。
マンションの一辺が終わる角まで来ると、そこはT字路になっていて、
そこから今までいた部屋のベランダが見える。
猫は、立ち止まって、ベランダを振り返った。
誰も猫を見送る人はいない。
赤茶色の金属の手すりだけが、そこにはあった。
ご主人様が仕事に行くとき、猫はいつもベランダで見送っていた。
ご主人様は、今猫が立っているところまで来ると、
こちらを振り向いて、手を振ってくれた。
猫が、「ここを出て行く」とご主人様に告げたときから、
ご主人様は振り向かなくなった。
見送られているのを知っていて、わざと足早に通り過ぎて行った。
猫は、ご主人様は絶対に振り向かないとわかっていたが、
最後まで、あのベランダで見送っていた。
もう、愛することも、守ることも止めて、傍を離れようと決めたご主人様を。
なぜ、振り向かないのをわかっていて見送っていたのか。
習慣?
そうじゃないよ。
義務?
それもあるのかもしれない。
ただ、
最後のときまで、あそこで見送っていたかった。
それが猫の最後の使命、だった。
そう思っていた。
やっぱり、今朝も振り向かなかったよね。
今日が最後だとわかっていたはずなのにね。
猫がご主人様なら、最後とわかっていても、やはり振り返らないだろう。
当たり前だよ。
そう呟いて、再びベランダを見る。
猫を見送るものは、何もない。
だが、手すりの下の方に目をやると、
赤茶色の中に、小さく緑色が混じっているのに気がついた。
置いてきた植物の緑の葉が一枚、はみ出しているのだった。
猫は悲しくなった。
再び罪悪感が沸き上がってきて、胸を締め付ける。
置いていくのに、
見送ってくれるんだ?
赤や青のアネモネ。
赤いハイビスカス。
ピンクのブーゲンビリア。
ピンク、紫、色々な色の花を咲かせてくれたアルストロメリア。
そして、今も咲き誇る赤いチューリップ。
大輪のバラの様なラナンキュラス。
つらいときも、世話をしていると自然に心が和んだ。
一生懸命世話をしていれば、ちゃんとそれに応えてくれた。
ありがとうね。
『今生の別れ』。
突然それはやってきて、知らずに過ごしてしまう。
後になって、あのときがそうだったのだと気付く。
あの子達とは、これが今生の別れになる。
・・・ごめんね。
さよなら。
向きをかえ、足早に歩を進める。
両サイドに家の建つ、車一台分の幅の道を真っ直ぐに行くと、
突き当たりに公園の入口がある。
ベランダからは、大きく育った数本の桜の木の、上の方しか見えない。
もう、花の時期はとっくに過ぎ、今は青々とした葉が繁っていて、
公園のほぼ全部を、葉の陰で覆っていた。
点々と木漏れ日が、公園の地面の上に落ちて、葉のざわめきと共に揺れていた。
遊具はあまりなく、ジャングルジムと滑り台、
広い砂場と木でできたベンチが二つあるくらいの小さな公園だった。
誰もいなければ、公園の中を通って行こうと思っていたが、
小さな子供達の楽しげな声が響いていたので、公園の入口の手前で左に折れた。
再び同じ広さの道を歩いて、一つ目の十字路で、今度は右に折れる。
ここからは駅まで真っ直ぐだ。
車道の広さは変わらないが、歩道がだいぶ広くなった道の右側には、
あの三階建ての、白い壁が眩しい公営住宅がそびえていた。
見上げて猫は思う。
ここの三階に住んでたら、あの景色は無くならなかったね。
ため息を一つついて、呟く。
でも、今はもう、あのベランダからの景色もなくしちゃったんだから。
そんなこと考えてもしょうがないか。
再び猫は駅に向かって歩き出した。
何度も歩いた道。
駅前のスーパーへ行くのに、池袋へ買い物に行くのに、歩いた道。
もう、ここを歩くことはない。
悲しいのか、寂しいのか、ほっとしているのか、
色々な気持ちがごちゃ混ぜになり、猫はうつむき加減で歩いていた。
俯いて歩いていると、再び罪悪感が頭をもたげてくる。
こんなんじゃ、だめだ。
自分で決めたんだから。
そう心の中で呟いて、猫は顔を上げた。
前方に、ありえないはずの光景を見つけて、
思わず足を止めそうになった。
真っ直ぐの道の、ずっと先に、ご主人様の姿があった。
建物の影、その間を斜めに差し込む日の光。
不規則に、交互に受けながら、ご主人様はこちらに向かって歩いてくる。
俯いていた猫は気がつかなかったが、
ご主人様はずいぶん前から、猫に気がついていた。
猫と目が合うと、無表情のまま視線を逸らす。
なんで?まだ帰ってくる時間じゃないのに。
猫は動揺したが、ご主人様から目を逸らすことはしなかった。
じっと顔を上げたまま、真っ直ぐ進む。
何か、言った方がいいのだろうか。
それとも、黙ってすれ違った方が。
考えているうちにも、ご主人様との距離はどんどん縮まる。
ご主人様は、猫を見ていない。
真っ直ぐ前を見ていた。
黙ったまますれ違う。
ご主人様も猫も、足を止めなかった。
何も起こらなかった。
ほっと体の力を抜いたとき、
「さよなら!」
ご主人様の大きな声が、した。
その声に、周りを歩いている人々がその声の主をいっせいに見た。
猫が振り返ると、ご主人様はこちらを向いていて、
挙げた左腕を下ろすところだった。
そして、猫の返事を聞くことなく、向きを変え、歩き出した。
あの、猫のいなくなった部屋に向かって。
さよなら。
ご主人様の背中に猫は言った。
小さな声で言ったのに、
ご主人様は、今度は振り返らずに左腕を挙げた。
胸が締め付けられるようだった。
大きな大きな罪悪感が、頭をもたげてきて、息が苦しくなった。
急いで向きを変え、駅に向かって今まで以上の早さで歩いた。
あの背中からできるだけ早く離れたかった。
なんで、こんなに早く帰ってくるの?
あのときと同じだ。
だから、明るいうちに家を出たのに。
『あのとき』。
電車が来るというアナウンスを聞いて、ホームの階段を足早に降りた。
夕方というには、まだ早い時間だった。
猫はいつも階段と階段のアーチの下側から電車に乗る。
そこにはベンチも備え付けられていた。
池袋に近いこの駅は、電車の本数が多いとはいえ、
この時間帯は急行、特急などを優先して、10分位上り電車が来ないときがある。
一本逃すと面倒くさい。遅くなる。
自然に足が早くなる。
だが、ホームに滑り込んできたのは、下り電車だった。
下り電車から降りてくる人々に押し返されないように、
猫は、上り電車側に回り込んでアーチの下まで行こうとした。
階段の壁をやり過ごしてきたとき、
下り電車から降りてきた乗客の中に、ご主人様の姿を見つけた。
いつもだったら、いや、少し前だったら、
嬉しくて、その腕にしがみつくのに、そのときはなぜかそれができなかった。
それどころか、階段の陰に隠れて、
息を殺してご主人様が行ってしまうのを見送っていた。
ご主人様がこちらを振り返らない様に、気がつかない様に願いながら。
しかし、何かを感じたのか、ご主人様は一瞬こちら側に顔を向けた。
ご主人様の位置から、こちらの姿が見えないのをわかっていても、
猫は咄嗟に階段の陰に隠れた。
ご主人様は他の乗客に混ざって、猫が今降りてきた階段を上る列に加わった。
とても嫌な気分だった。
そのときと同じ気持ちが、胸の中に広がった。
駅が近くなるにつれ、人影が多くなった。
商店街に交差する道路を渡り、いつも買い物をしたスーパーの前を通り過ぎると、
駅の階段が見えてきた。
息を切らしながら、階段を一気に上る。
切符を買って、改札を通り抜け、ホームへの階段を降りる。
ホームのベンチに座ると、やっと少し落ち着いた気になった。
すぐにアナウンスが流れ、上り電車が滑り込んできた。
乗客の一番後ろから、猫は電車に乗った。
すいてはいるが、空いている席はなかった。
今閉まったドアにもたれ、マンションのある方角に目をやる。
電車からは線路脇に並ぶ民家しか見えないのだが。
それでも、猫は、長年過ごした町を電車からみつめていた。
ご主人様は。
流れ去る景色を見ながら、猫は思った。
猫をみつけたとき、迷ったんだ。
黙って通り過ぎるか、声をかけるか。
だから、猫がご主人様に気がついたとき、目を、逸らしたんだ。
でも、「さよなら」って言った。
普段だったら、ご主人様はあんなことはしない。
他人がいる所で、あんな大きな声はださない。
でも、最後だから。
これが最後だったから、ご主人様は「さよなら」って言った。
ご主人様と猫が過ごした時間への餞に。
「さよなら」を告げたんだ。
溢れそうになる涙を、猫は必死に堪えた。
とても、愛されていたのかもしれない。
一番じゃなかったとしても。
そんな態度を示さなくても、そんな言葉をいちいち告げなくても、わかっているだろうと。
猫が感じ取れなくなっていただけなのかもしれない。
そして、苦しめた。苦しめたんだ。
嘆き、悲しむほどに。
もう、嫌なんだ。
あんな風に、心がひりつくことが。
猫の乗った電車は、見慣れた景色の中を走り抜けていった。