2.猫のいなくなった部屋
息を吐き出すと、猫は最後にもう一度、大好きな景色を眺めた。
すぐ近くに見える公園の緑、赤や青や茶色、灰色の様々な形の屋根。
ちょっと遠くに見えるマンションやビル。
新宿の高層ビル、東京タワー。
そして、ずっと見ていた池袋の。
さよなら お別れだね。
部屋に戻ろうとしたとき、ふと、風に揺れるものが眼の隅に見えた。
それは猫が育てていた植物だった。
ベランダの半分に、通り道を確保しつつ、
色々な大きさのプランターや植木鉢をいくつも置いた。
チューリップ、ハイビスカス、ブーゲンビリア、セッコク、芍薬、
アネモネ、ラナンキュラス、アルストロメリア。
カーテンを踊らせた風に、身を任せているかの様に揺れていた。
水は、さっきやった。
猫は、一つ一つの傍に行き、眺め、つやつやした葉っぱに触れた。
いつもは、この青々とした植物を眺めているだけで幸せになるのだが、
今は暗い気持ちでいっぱいだった。
きっと、ご主人様は水なんて、くれないよね。
連れていかなければ、皆、枯れてしまうだろう。でも。
ごめん。連れていけないんだ。
ごめんね。
つやつやの葉っぱが、茶色くなってしおれている様を想像して、
猫は泣きたくなった。
自分の思いを通すということは、周りを傷つけることなんだ。
ここに猫が残れば、この子達は枯れなくて済む。
でも、それは猫の思いを殺した結果なんだ。
もう、決めた。決めたんだよ、ここから出て行くと。
・・・ごめんね。
逃げる様に部屋に戻り、猫は窓を閉めた。
それと同時に、若草色のカーテンも、舞うのを止めた。
窓を背にしたまま、猫は、ご主人様と暮らしてきた部屋を見回した。
まだ、日が暮れていないので、南向きの部屋はとても明るい。
ベランダから入ると、ここ、六畳の畳の部屋があって、
真っ直ぐに四畳半の畳の部屋と繋がっており、
間は襖で仕切ることができるが、
今はその襖も一部が開け放たれていた。
四畳半との襖の前に、テレビ台に乗ったテレビがあり、
その前には布団をはずしたコタツがある。
いつもご主人様と猫が座るところには、座布団が置いてあった。
そこに猫が座ることは、もうない。
あの座布団は、ご主人様の手によって、今晩、片付けられるのだろう。
テレビの上には、空の写真立てが乗っていた。
あれにはご主人様と猫が並んで、笑って写っている写真が入っていたのだが、
猫がここを出て行くこと決まり、少しの間、家を空けて帰ってきたとき、
もう写真立ては空になっていた。
何も入ってない写真立てを、手にとって見る事はしなかった。
写真立てを見ている猫を見ても、ご主人様は何も言わなかった。
猫も何も訊かなかった。
びりびりに破ったのかな、と思った。
泣きながら、破ったのかな、と思った。
それとも、くしゃくしゃに丸めたのかな、と思った。
灰皿で、燃やしたのかな、と思った。
写真立てから目をそらすと、ご主人様が猫を見ていた。
目が合っても、ご主人様も猫も何も言わなかった。
ご主人様は、猫が何か言うだろうと思っていたようだった。
だが、猫が何も言わなかったので、そのまま目をそらして、
いらないものをビニールの袋に入れる作業に戻った。
あの日も、若草色のカーテンが舞っていた。
明るい部屋の中、カーテンの色と同じにおいのする日だった。
その空の写真立ては、今はただ日の光を反射しているだけだった。
ため息をついて、猫は右側に目を移す。
そこには、パソコンのディスプレイののった机があった。
椅子を引き、ディスプレイを見たまま浅く腰掛ける。
あの夜、月の光を斜めに受けていたディスプレイ。
その前に、猫はぼんやり座っていた。
悲しくて、寂しくて、情けなくて、
こんな気持ちを、一生持ち続けるのかと思うと、とてもやりきれなかった。
何も考えたくなかった。
何か他の事で、気を紛らわせたかった。
自然にパソコンに手が伸びて、電源をONにしていた。
あれが、始まりだった。
静かに立ち上がり、猫は椅子を戻した。
それから180度向きを変え、猫はリビングに向かって歩く。
もう、出なくちゃ。
六畳の部屋を出るとリビングとキッチンがあった。
リビングからもベランダへ出られる様になっているが、
猫は右側に折れて、北側の玄関へ向かった。
持って行く物はそこにそろえてあった。
玄関で、後ろを振り返る。
真っ先に食器棚が目に入った。
その向こうにベランダへ出られる窓がある。
さよなら。
ずっと、楽しかったよ。
玄関のドアを開け、猫は外へ出た。
ドアが開いて、また閉まるとき、若草色のカーテンが一度ふわりと舞った。
そして部屋の空気は動かなくなった。
猫のいなくなった部屋には、
少し西に傾いた太陽の光が差し込んでいるだけだった。