第七話. 番号
番号をもらってから二週間が経とうとしていたが、わたしには彼に電話をかける勇気はなかった。
そして、古本屋での一件でまた外が怖くなってしまい、バイトも店長に事情を話して一週間強の休みをもらい、家に引きこもってばかりいた。その間、『こころ』ばかりを読み返していたから、なんだかさらに病んでしまっていた。あのノートの切れ端は、『こころ』に挟んだままだ。
でも、今日の夜からまたバイトに出なければならない。自転車も古本屋の前に置きっぱなしにしてしまっているから、それもなんとしても取りにいかなければならない。
世間では夏休みも終わった頃だろう。いつの間にか、蝉の声は聞こえなくなっていた。重い腰をあげ、わたしは家を出た。早朝。昼間よりマシだが、やはり少し暑い。顔に張り付いたマスクを取ってしまいたい衝動に駆られたが、人にみられる恐怖が勝った。できるだけ足早に古本屋を目指し、自転車を回収すると、そのまま全力で漕いで帰宅した。
玄関で肩で息をするわたしと鉢合わせた弟が気まずそうに、おはよう、と言った。
わたしは自室のベッドに逃げ込むように倒れた。
◆◆◆
その日のバイトへ行く足取りは重かった。
「お疲れ様で〜す」
仕事を終えた高校生バイトの子たちが、キャッキャと横を通り過ぎていく。後ろから、
「久しぶりにみた〜」 「辞めたかと思ってたね〜」 という、悪気のない言葉が聞こえて、ますますわたしは縮こまってしまった。
そこに店長がやってきて、
「あ、きたんだ。困るよ、もう辞めてね急に休むの。あの子にお礼言っとくんだよ」
と、休憩室の大学生を顎でしゃくった。
「……はい、すみませんでした」
じゃあ、あとはよろしく。と店長も帰宅し、休憩室は大学生とわたしの二人になってしまった。
「あの、ご迷惑をおかけしました。ありがとうございました」
と、大学生にいうと、大学生は「まあまあ、いいっすよ。ダチも稼ぎたかったみたいだし」とひらひらと手を振った。
どうやら彼の友達が代理をしてくれていたみたいだった。
週に3回のバイトも行けなかったなんて、わたしには生きている価値はあるのだろうか。人に迷惑をかけてばかりいる。
「まあ、でも? やっぱアンタがいないとサボれないっていうか、割とやること分からなくて冷や冷やしたっつーか、まあ戻ってきてくれてよかったって思ってますよ」
余程暗い顔に見えたのか、大学生はお世辞でフォローしてくれた。おまけに気を遣わせるなんて、ちゃんとやらなきゃ。
「ありがとうございます」
そう返事をして、レジに向かった。
そこにはまだ22時なのに、そこにはブラックコーヒーの彼がいた。
「え、あ……っと、いらっしゃいませ」
わたしが、驚いてオドオドしていると、彼は、はーーーっとため息をついた。
「あーーもう、辞めたかと思いましたよ。全然電話もしてくれないし。古本屋にもきてないみたいだったし。あーーよかった」
「あ、す、すみません! ちょっと一週間半おやすみをいただいてて」
客がこないのをいいことに、彼はレジ台に腕を乗せて、しゃがんで、わたしの顔を覗き込んだ。覗き込まれた方のわたしは、どうしたらいいか分からなくなって、目線をあちらこちらに泳がせた。
「かけてくんないなら、コンビニしかないなーと思ってずっときてたのに、いないんですもん。番号教えてください。どうせ、かけてくんないでしょ?はい、書いて」
彼は、油性マジックを取り出して、わたしに持たせ、自分の腕を差し出した。
「え、ここに書いていいの…?」
わたしは圧倒されてしまって、マジックを持ったまま、あたふたあたふたした。
「あいつらのせいで、古本屋にいきづらくなってるの?」
ハッとして、彼の方をみた。黒目がちな大きな瞳と目が合う。
「……あたりです」
「じゃあ、尚更、ここに番号かいて。俺がいく時,誘うからさ」
「なんで腕……そして申し訳ないです!」
「紙に書かれるとなくすの! はいちゃっちゃと書いて! 後ろでお客さん待たせてるよ!」
ちょっと膨れっ面の彼にそう言われて、後ろをみてみると、中学生くらいの女の子がこちらを見ていた。あ、しまった。大学生はいつものように外でタバコをふかしている。
「すすすすすすみません!」
わたしはほぼ反射的に彼の腕に番号を書いてしまった。
次のお客さんのレジをしている間に彼は帰ってしまっていた。
その騒ぎが終わったあと、大学生が入ってきて、こう言った。
「あ、さっきの男、アンタのことずっといつ来るか聞いてきてしつこかったんだよねー。ストーカーかと思って相手にしなかったんだけどね〜。よかったよかった」
大学生はそのまま倉庫に入ってしまった。
『わたしが来るのを本当に待っていたんだ』と思うと、さっきの気分はどこかに行ったように、暖かいものが心に染み渡っていくようだった。