第三話. パンと牛乳
結局、一文字も書けないまま夕方を迎えてしまった。深夜バイト明けの体が寝ろと言っている。わたしはノートを閉じて、ベットに寝転がった。睡魔はすぐ襲ってきて、わたしは眠りについた。
起きると日付が変わっていた。電気を付けようと立ち上がると、開けっぱなしにしていた窓から吹く風がカーテンを揺らし、机の上に置きっぱなしにしていた水色のノートのページがパラパラと捲られながら月明かりに照らされていた。
わたしは徐に携帯を開いて、以前登録していた小説投稿サイトを検索した。
まだ、アカウントは残っているだろうか。
2年も放置していたのに、アカウントはそのままだった。投稿欄はなし。クラスメートにばれてから、投稿した小説は削除していたことを思い出した。この投稿サイトには掲示板のようなものがあり、自分宛のメッセージが届いているのに気がついた。
『なんで投稿消してしまったのですか? またあげてください』
中三の頃に執筆していたファンタジー小説は、自分で言うのもなんだが、結構人気があった。完結することなく終わってしまったので、読者の中にはモヤモヤしたままの人もいるのだろう。ファンからの復帰を願うコメントもちょうど一年くらいまえにぱったりと止まっていた。
もう,みんな忘れてしまったことだろう。
「でも、もう書けないんだよな」
電気は付けずに、そのアカウントを削除した。
今は誰ももう見ていないはずなのに、あの時のクラスメートに見られているような気持ちになったから。
しばらくぼんやりと携帯の画面を見つめていたが、また、いつの間にか眠りに落ちていた。
◆◆◆
「お疲れ様です」
次の日、深夜バイトに入ったわたしは、いつものように最低限の会話しかせずに、レジに入っていた。
正面の壁にかけられた、コンビニオリジナルの壁掛け時計をちらりと見る。時計の針は午前1時を指していた。
今日はまだ、あのブラックコーヒーの彼は来ていない。もしかしたら、もう当分来ないかもしれない。
彼はあの小説を書き終えたのだから。
小さくため息をついて、商品整理に向かおうとすると、ピロリロリンと入店音がした。
「いらっしゃいませ」
入り口の方をチラ見したあと、わたしは少しその客を見つめてしまった。
「こんばんは」
ブラックコーヒーの青年だ。
「こんばんは……」
挨拶をされたので、わたしも小さく挨拶をする。
彼は店内でパンと牛乳をとると、わたしの方に持ってきた。
「先日はありがとうございました! 無事出せました!」
わたしは、その言葉を聴きながら手早く商品をスキャンし、
「いえ、お礼を言われるほどのことではありませんよ」
と、マスクの下でボソボソ言った。「216円です」
彼は財布からきっちり216円出し、商品は取らずに、
「それ、この前のお礼です。しょぼいけど」
と人懐っこい笑顔でわたしの方へ袋をスライドした。
「いえ、あの、困りますんで」
わたしは驚いてあたふたしながら、商品を突き返した。
「いいんですよ、貰っといてください」
彼は、戸惑うわたしの隙をついて逃げるように店から出て行ってしまった。一部始終を見ていたのか見ていなかったのか、大学生が「あざっしたー」と適当な挨拶をするのが聞こえた。
帰宅後、朝ごはんとなったパンと牛乳を口に入れながら、わたしはぼんやりとあの青年のことを考え、そしてまだはっきりと記憶している角2号の茶封筒の宛名を思い出していた。