第十六話. 日の傾きかけたベンチにて
「それね、宮沢賢治全集の最終巻なんだよね」
重厚なハードカバーの表紙をめくると確かに『宮沢賢治 全集7』の文字。本の匂いがフワッとする。
「これ、全部読むのめんどくさかったらさ、銀河鉄道の夜だけでも読んでほしい。俺が一番好きな話」
『銀河鉄道の夜』言わずと知れた、宮沢賢治の代表作の一つである。わたしも題名やざっとしたあらすじは知っている。でも、改めてきちんと読んだことがあるかと言ったらそうではない。宮沢賢治のイメージは小学校の時、国語の教科書に載っていた『やまなし』でとまっている。不思議な擬音語のイメージしかない。
「ありがとう。読んでみるね」
私は、持ってきていたトートバッグの中に、その分厚い本を滑り込ませた。
「結構歩いたね」
「そうだね」
公園のベンチから見える景色は穏やかで、きっといつもと変わらないのだろうけど、私はなぜかすごく満たされていた。しばらく私たちは黙ったまま、公園に行き交う人々を眺めていた。
「あ、吉良じゃん。何してんの?」
ふと、私たちの間の静寂が破られた。
「あ、田中!」
吉良くんの正面に立つのは、2人の男女。高校の友達らしく吉良くんと彼らは話し始めた。なんとなく居心地の悪くなった私は、その場で小さくなった。
「あ、ごめーーん、デート中だった? てか、吉良彼女いたの?」
男の子の方が私の存在に気づいて吉良くんに問いかける。
「そう,デート中だから邪魔すんなよ〜」
「あーそうですか。すみませんね〜邪魔して!」
軽口を叩きあう二人はとっても仲がいいんだろうな。
「ねえ,どこ高?何年生なの?吉良とはどこで?塾とか?」
男の子が、悪気なくニコニコと私に質問してくる。
「あ,えっと・・・・・・」
どこ高でも,塾にも通っていなくて,言葉に詰まる。わたしはどこにも所属できていない。
「ね、彼女怖がってるじゃない、早く行こうよ〜。じゃあね!吉良!」
「おう、またな!」
男の子は、彼女らしき女の子に引っ張られて去っていった。
「ごめんな、うちの友達騒がしくて、てか、迷惑じゃなかった? その……、デートとかいっちゃって」
「デート」さっき彼が何気なく言った言葉が何回か反芻されて、私はやっとその言葉を認識した。それって、どういうことなのか。自惚れていいやつなのか悪いやつなのか。そもそも私は吉良くんの名前を知ったのはつい最近で、この前までは、コーヒーを買いに来る客と店員だったはずだ。やっぱり、これは違う彼女かと聞かれたから、ついそんな言葉が出てしまったのだろう。自惚れちゃいけないやつ……。心臓がドクドクして、言葉に詰まる。「デート」という響きで、これまで意識していなかった「異性」と出かけているという事実が急に表出する。
「あ、もしかして、彼氏……とかいた? だったらごめん、マジごめん、忘れてほしい!」
「あ、いや、嫌とかじゃなくて、かっ彼氏もいないというか、もういたことすらないというか、あの、デートすらしたことなかったというか・・・・・・」
動揺しまくって、いらない事ばかり口走る。心臓の音が聞こえないか、ただそれだけが心配だ。
「そ、そか! よかった! いたらちょっと落ち込むとこだった」
吉良くんも少し動揺しているみたいで、訳のわからないことを言っている。「いたら落ち込む」とか、そんなこと、言われただけで結構意識してしまう。この時ばかりは自分の恋愛経験のなさが恨めしい。
「なんか、暑いね! なんか飲みながらそろそろ帰ろうっか! 最近、日が落ちるのも早いし!」
なんとなく気まずい雰囲気をかき消すように吉良くんは言った。その声に反応して、私はベンチから勢いよく立ち上がる吉良くんの方をみた。彼が視界に入る。
吉良くんの顔は、傾き始めた日のせいか赤らんで見えて、ぶつかった視線に思わず目をそらしてしまう。
「う、うん」
私はぎこちなく返事して、ベンチから立ち上がった。
「本、帰り際に渡せばよかった。カバンもつよ」
立ち上がった私から、カバンをとり吉良くんはいつもの吉良くんに戻った。
「ありがとう……」
対する私の顔は、多分まだ火照ったままで、私はそれを隠すように、いつもより深く俯いて吉良くんの半歩後ろをついて行った。
いいサブタイトルが思い浮かばない……。
吉良くんの差し出す本をどうしようか悩んでいたらこんなに日にちが開いてしまいました。
読んでくれる人いるかな……。あと、「なんか飲みながら」のところ、危うく「タピオカでも飲みながら」って書きそうになりました。ガラケー世代という設定、忘れがちでヒヤヒヤしますね。危なかった〜。