重圧の調べと恋する乙女、頼りにならない協力者
4月。それは目まぐるしい変化を運ぶ月。微かに残る冬の残り香を、彩り豊かな咲き誇る花々と生命力宿る新芽たち。暖かな陽射しと柔らかな風が…完全に春の物に染め上げる季節。様々な物、事柄、人々でさえも新たなスタートラインに立ち、進み始めるその月は、学校と言う環境に置いてまだ本格的に授業が始まらず、代わりに特別な時間割が組まれる時期でもあった。
その中でも…生徒たちの心に戦慄の萌芽を芽生えさせるもの。体力測定。毎年毎年行われるそれは…今年もやってきた。暖かな春風と共に。ネオ中野魔術学校へと。
午前の部は比較的に時間が掛からないものから纏めて行われた。体力測定が人の心に戦慄を齎す訳。その由縁たる項目を除いて。けれど…誰もが考えるだけで胃が重くなるであろうその戦いを、時には待ち望む勇者も現れる。
「ふふ…猫屋敷さん…午前の部で行われたものなど所詮は余興。真の戦い…真の雌雄を決する戦いはこれからでしてよ?」
ネオ中野魔術学校に2つある体育館。その内の第一体育館の中で、その終わりなき戦いを目前とした灰咲桜子は呟いた。両手を組み、仁王立ちしながら。高い天井から複数吊り下げられる、ややオレンジがかった照明の明かりをテカテカと反射させる体育館独特のフローリングの上で。
彼女の目の前では…今、まさに終わりなき戦い。地獄の中で駆けまわる級友たちの姿が在る。聞く者に精神的な負荷を与え、息苦しさすら感じさせる淡々とした電子音の調べの中に。
「いいわ。別に。アンタが涙ぐましく頑張ったところで全体的には勝ってるし。88回以上やる意味がないわ」
桜子の隣にて、花子は返答を返す。身体を小さく丸め、体育座りをし…いつもよりも辛気臭く余裕のないナーバスな表情で、キレのない返答を返して。
その彼女の碧い瞳に映るは…友人。愛原雫がヘロヘロになりながらも同じ場所を往復する姿。その隣のラインには、涼しい顔をした橙木蜜柑の姿もある。その間、桜子が何か言っていた気がしたが、気にもならない。
『70』
スピーカーから流れるアナウンス。無駄に良い声の女性の声で数字が読み上げられる。それは今走る者が力尽きるまで反復する呪文。その声が、70と言う数字を読み上げた時…雫が足を縺れさせ――
「へぶっ!」
前のめりに倒れた。だが、スピーカーから流れる電子音は止まらず、まだライン上に残っている生徒たちは走る。戦いの終わりを迎えた雫を置き去りにして。
ゴールのない終わりなき戦い。その戦いを今終えた雫は、ゆっくりと起き上がり…花子と桜子の元へと歩いてくる。苦しそうに肩で息をし、けれど戦いが終わったことに安堵した様子で。
「はぁ…はぁッ…ふぅっ……も~走れない~っ…誰だよ~、こんなふざけた測定項目考えた奴ぅ~」
もう戦わなくていい。そう思える心理からか、呼吸を整えている最中でありはするが雫の表情、声はどこか安心したようなものだ。対する花子は雫に目を合わそうともせず、彼女から預かっていた記録を済ませた記入用紙をタオルと共にただ差し出す。喋りもせず。この終わりなき戦い。地獄の持久走。20メートルシャトルランを走る、残りわずかとなった級友たちの方を見据えながら。
だが、この時…落ち着かない様子であるのは、生徒だけに限った話ではなかった。この授業を受け持つ教師。茂呂智成。青いジャージ姿のパステルピンクの髪が目に痛い淫乱ピンクその人は…次に20メートルシャトルランを受ける生徒。そのことを考え…その重圧に押しつぶされそうになっていた。
――…灰咲さん…猫屋敷さん…無茶しないよね…?
彼は呟く。心細そうに、心の奥底で。その時、彼の脳裏に思い浮かぶは5歳の娘の笑顔だった。
そんな中、スピーカーから89回目のアナウンスが掛かった時…ライン内に残っていた3人の蜜柑含める女子生徒はピタッと走るのを辞め…そして終わった。蜜柑と雫が走っていた20メートルシャトルランが。
「さっすが蜜柑番長。全然疲れないじゃーん。まだまだ走れたんじゃないのぉ?」
「88以上で満点だからそれ以上走る意味ないよ。疲れるし」
蜜柑は直ぐには止まらず、歩きながら雫によって差し出されたタオルを受け取ってそれを肩に掛け、両端に手をやって汗を拭う。大して息も上がらせないまま、まだまだ余裕窺える様子で。
背後を振り向く蜜柑の視線の先には、緊張により余裕のない表情をし、心ここに非ずと言った様子で視線を斜に落とす花子と相変わらず己の実力を疑った風なく、自信満々な桜子を含む10人がスタートラインに並ぶところだった。
「猫屋敷さん、尋常に勝負と参りましょう」
「今話しかけないで。口から内臓が出そうなの」
間も無く鳴り響く。スピーカーから…5秒前を知らせる声が。前へと上向く。花子の視線が。
「さぁ、いざ行かん! 最終ラウンドですわ!」
「あぁ…もう最悪。最悪の気分よ…」
体験した者であれば解るであろう。胸を押す重圧が。始まるまでに感じる戦慄が。淡々と読み上げられるカウントダウンの中、一切の精神的な負荷を感じた風のない強メンタル…ただ花子との競争を望む桜子とそれどころではない花子の戦いが――
『スタート』
今、火ぶたを切った。
けれど地味な物だった。この終わりなき地獄の測定は…本来、他者とではなく自分自身との戦いなのだから。精神的に追い詰められた状況から始まるとはいっても、肉体的には全く疲れていない状態。危なげなく、カウントダウン中に対岸のラインまで誰もが辿り着く。
上がる呼吸。疲れと入れ替わる形で紛れる緊張。淡々と続く不毛な戦い。読み上げられる数字と音楽とは形容できそうにない効果音の中、50のアナウンス以降、ちらほらと脱落者が現れ始める。心身ともに疲れ果て、終わりなき戦いの螺旋を降りた者たちが。
戦いは続く。脱落者たちを置き去りに。淡々と。
暫くしてシャトルランの点数を事前に調べた小賢しい者どもが足を止める節目。88回目が終わり、89回目に差し掛かる時がやってきた。その時には既に走る者は花子と桜子。その2人だけとなっていた。
「終わりにしなくてよろしくてッ?」
「アンタがくたばった後にでも…そうしようかしら」
返ってくる答えの解り切った桜子の問いに、彼女が望む形の返事を返す花子。走り始めてそこそこ時間が立っているが故か、もう既に精神的な重圧を感じた風は無く、桜子が望むいつもの花子になっていた。それを流し目で一瞥した桜子は、口を閉じて走ることに集中し始める。一つの目的。ただ、花子の記録に勝つことを目指して。
2人の間で短い会話が交わされてから、また淡々とした時間が流れる。単調な効果音と数字を読み上げるアナウンス。一番変化が見られるのは、今走っている2人の少女の様子だけ…と思われたがそうでもなかった。一番の変化。それは…この授業の担当教師。淫乱ピンクの顔であった。
『130』
不安により、子犬のように瞳を揺らす淫乱ピンク。彼の瞳には…未だに走り続ける2人の少女の姿がある。男子が走ったとしても一目置かれるであろう記録を、未だに更新し続ける2人の姿が。
スピーカーから流れる効果音のテンポは速くなる。走る者を振るいに掛けるかのように…徐々に。けれど、花子と桜子…2人は脱落する気配がない。確かに表情こそ苦し気であるが、ペースは落ちず、危なげなく対岸へと行き着く。
『135』
カウントはあっという間に上がっていく。淫乱ピンクは迷う。根性の桜子。体力の花子…2人をこのまま放っておいていいのかと。もし何かあれば…己の管理責任を問われるのではないか。学校からならまだいいかもしれない。
前者は猫屋敷家。猫屋敷製作所はこの世界…言わずと知れた軍需企業であり、主に製造開発に纏わるものだが、その実態私兵と言っても過言ではなさそうな民間軍事会社も持っている。後者は灰咲家。日本の中に存在する国と言っても過言ではない規模の企業、灰咲ジェネラルインダストリーを取り仕切る一族。様々な分野に手を伸ばし、産業とするそれには…猫屋敷製作所とはまた別の民間軍事会社と言う名の私兵部隊を内包しており、人を1人2人消すことなど造作もないと思わせてくれるほどのものだ。
故に…淫乱ピンクは案じ、恐れていた。花子と桜子のつまらない意地の張り合いと、それで発揮される執念を。そして…解っていた。娘を持つ父親だからこそ、2人の身に何か起きた時、彼女たちの父親がどう思うかを。
『141』
淫乱ピンクは顔を上げる。どちらかが倒れるまで終わりそうにない戦いに身を投じる花子と桜子の方へ。そして彼は走り出す。懸念かもしれないが…己の身、それと引き換えても惜しくはない家族のため…娘のために。
「ドクターストップぅぅぅぅッ!」
2人の行く間に飛び出た淫乱ピンクは大声で叫び、両手を高く上げて左右に振る。いきなり現れた淫乱ピンクの姿をその目に映した花子と桜子は足を一度止め、その場で軽く歩きながら…流し目で互いの姿を見据えた。
「はぁ…はぁ…っ…引き分けですわね」
「くぅ…はぁっ…ん…そうね、ドクターストップなら仕方ないわ。200ぐらいまで行けそうだったけど」
「そんなものっ…ですの? わたくしは淫乱ピンクが止めに入らなければ…ふぅっ…300ぐらい行けそうな感じなのですけれど?」
「ふぅ…んっ…実は400まで行けそうなんだけどね。…まだまだ余裕よ」
きっと切っ掛けが欲しかったのだろう。体裁を保ちつつ終われるきっかけが。止めに入った淫乱ピンクそっちのけで、額に汗を浮かべ、息絶え絶えになりつつ桜子と花子はマウントを取り合っている。互いに目を離すことなく、闘争心でギラついた瞳と瞳で視線を交差させながら。疲労困憊と言った様子ではあるが…虚勢を張るだけの体力か、気力はまだ残っているようであった。
淫乱ピンクが出口となり、終わりとなった地獄の我慢比べ。見え透いた嘘すら混ざる、まるで男子小学生の自慢話の様な終わりのないマウントを取り合いながら、花子と桜子は友人たちの元へと歩いて行き…残される淫乱ピンクは人知れずそっと胸をなでおろす。この窮地を乗り越えたことに、安堵した風に。
そんな…義務教育を受ける学生であれば1年間の内に必ず受けるであろう地獄の測定での一幕。ネオ中野魔術学校であった日常の、個人的な戦いの一幕が降りる。特に意味もなく、ただ意地の張り合いだけがそこにあったものが。そして新たに地獄のレーンに新しい生贄たちが重苦しい顔をして立ち並び…鳴り響く。重圧の調べ…その始まりの音色が。それは、まだ終わりなき戦いに身を投じる者が居ることを示していた。
*
静かな夜。元の世界の空と比べて綺麗とは呼べず、暗い印象を受ける夜空。星々は頼りなく輝き、月は遠く。代わりに…人工的な明かりが大地を光で満たしている。
異世界。自分たちがやってきた世界と比べ、文明が発達し、成熟した世界。気が緩むほど安全で、平和な。嘗ては命の取り合いが日常であり、死と隣り合わせであった生活からは考えられぬその生活。その中に背中を今まで預けていた仲間と共に身を置く、カジュアルな淡い青のワンピースに身を包む、毛先が丸くカールするライムグリーンの髪が特徴的な1人の少女はため息を吐いた。どことなく切なげな瞳をし、豪勢な武家屋敷の縁側にて、小さい月を見上げながら。鹿威しが岩を叩く音と何者かが縁側に続く廊下を歩き、軋む音を耳にしつつ。
「それで、話ってのは?」
頭右側面を刈り上げた暗い緑色のソフトモヒカンと、整えられた控えめな顎髭が特徴的な男。足音の主、グラークは縁側に座る少女、リチアの隣に座ると要件を問う。無地のTシャツ、ジーパンと言うラフな格好で、その手に握りしめたスカスカのタバコケースからタバコを1本口に咥えつつ。
「…グラーク。貴方は確か…恋愛経験が豊富でしたね?」
リチアに対する配慮なのだろう。縁側に片脚を立て、彼女に背を向ける形で腰かけなおしたグラークが人差し指に火を灯し、タバコの先端に火をつけたところでようやくリチアは言葉を紡ぎ出した。月を見上げたまま、微かに頬を染め…微かにではあるが、己の中にある感情に戸惑った風に。
「…相談する相手間違っちゃいねえか。あんまりピュアなのは経験ねえぞ」
「言葉巧みに幾多の女性を垂らしこむティチェル。爛れた恋愛経験しかないウツシロ。消去法から貴方が一番適任だと判断したのです」
リチアに寄る仲間への評価。タバコのフィルターを噛み、それを聞いていたグラークは唇をへの字に曲げて目つきを据わらせ…やがて苦笑を浮かべた。反論の余地のない評価と、色ごとに対して割とどうしようもない男衆の実情、現実に。その後で、タバコをくゆらせ、煙を口から吐き出す。
「お前が求める助力とはズレてるとは思うが…その相手とやらを良く見定めるべきだと思う。変な男について行っても幸せにはなれねえ。…まっ、勉強と割り切るのもいいのかも知れねえけどよ。そんなの嫌だろ?」
数々の死線を共に潜り抜けて来た仲間に対する思い。幸せになって欲しいと思うからこそ出る言葉。助言。意中の相手に近付く方法ではなく、一度立ち止まって己を客観視させるその言葉は…紛れもないグラークの優しさから出た物。その真意は、リチアの耳に届き、心に染み渡るが…彼女の気持ちを変えることはできなかった。
「…理屈では解っていますが…気持ちが抑えきれないのです。寝ても覚めても思い浮かぶのはあの殿方のお顔。会って間も無く、言葉すら交わした時が無いというのに…この胸の高鳴りは…」
「重症だな。こりゃ。聖なる教会騎士様も人の子か」
話を聞いては居るのだろうが、途中で双眸を閉じ、左胸に両手を当てて物思いに更け始める程度にはイカれているリチア。普段は真面目で冷静であり続けた彼女からは今まで見ることの出来なかった反応は…グラークを微笑ましく思わせる反面、その相手とやらの顔を拝んでみたくなるほどのものであった。当然相手がなんであるか知らなければ対策は立てようがない。故にそれを聞き出さんと再度口を開く。半分はリチアの為、半分は好奇心を満たすため。
「で、相手は?」
核心に迫る一手を打つグラークをリチアは一瞥。すぐに顔を逸らすと顔を横に振った。年頃らしい恥じらいだろうか。どうにもその名を口に出す勇気が出なかったようで。だが、月を再度見上げたその瞳には、決心の様な物が窺えた。
「明日、会いに行きます。…この話はその時に。私には少し頭を冷やす時間が必要なようです」
リチアはそうとだけ言うと縁側から立ち上がり、大きな武家屋敷の廊下を歩き…その先へと姿を消した。迷いと戸惑いの満ちる様子で。グラークに多く語ることもなく。
「…悲恋にならなきゃいいがなぁ」
リチアが去った後、グラークは小さく煙を口から吐き出し…携帯灰皿に灰を落として呟く。自分たちの不確かで脆弱な…薄氷を履むが如し立場を理解しているがゆえに。
異世界での生活が始まり、ようやくこの世界での感覚を学び始めた使い魔たちの1日。灰咲桜子を主とした使い魔たちの1日は、収束、終わりへと向かっていく。残り少ない時間の中で、眠る前に各々明日に備えて。
*
翌日。日は高く上がり、時計の短針が1を指す昼時。空は晴れ渡り、桜の木々には花弁の代わりに黄緑の若芽が目立つようになってきたその日…ネオ中野魔術学校の敷地の約半分を占める施設。建物と巨大なプール、芝生のグラウンドで構成されるこの学園の生徒たちの使い魔たちが過ごすために設けられたそこ。人に近い知的生命体が居つく、校舎と余り作りの変わらない建物の中の画材の並ぶ、差し込んだ光が妙に明るく見える物置部屋に桜子を主とする使い魔たちは集まっていた。赤髪のメガネをかけた色男、ティチェルを除いて。
「ティチェルは?」
灰色のトップスと薄桃色のスカートをハイウエストに、幅広の長い帯で蝶結びにした…落ち着いた無難な服装。そんな姿のリチアは周囲を見回す。基本的にいつも自分達と一緒に行動している男の姿が見当たらないことが気になって。
「昨日使い魔の女と仲良くお喋りしているのを見たぜ。全く、飛んでもない野郎だよ」
リチアに言葉を返すのは黒髪、糸目の細目の男。黒スキニーパンツと県章の様なデザインの、灰咲ジェネラルインダストリーのロゴが入った白いTシャツの上に上着を羽織った姿のウツシロ。彼は片眉を上げ、己の仲間の信じられぬ適応能力に対し、呆れ、皮肉った様に笑っている。ウィンゲルフと、その後の…彼を始末するために歩んだ旅路の街や村。人やそれに準ずる知的生命体が秩序を作るコミュニティの中で、見ることの出来たティチェルの行動から状況を推測し、何が起きているのか理解した風に。けれど…鈍感なのだろう。リチアは小首をかしげるだけだ。
「リチア、ウツシロ。あのバカがこの学園のお嬢さん連中に手ェ出そうとし始めたら、奴の股にぶら下がってるきかん坊引き千切ってでも止めろ」
その彼女の傍でこの魔王討伐隊。勇者陣営のリーダー的な存在であるグラークは、未知の異世界においても生活スタイルを変えようとしないティチェルの動向と適応能力について初耳だったのだろう。ウツシロの皆まで言わない言葉から状況を理解。なんだか胃が痛そうな顔をし、目つきを据わらせ、額に片手を当てながら声を絞り出す。黒いデニムパンツに紺のTシャツのラフな姿で。
「…それで、リチア。相手ってのは?」
気を取り直し、表情をいつもの目つきのやたら鋭く、不愛想な物にして額に当てた手を下ろしたグラークは、リチアに問う。
けれどリチアは返事を返すことなく、物置部屋の窓際。そこへと…ただ歩み寄るだけ。薄暗い物置の中、窓の外から差し込む眩しくすら感じる直射日光を浴びつつ、彼女は窓の外を見下す。微かに頬を染め…なんだか愛しみ感じる優し気で柔らかい表情で。両手を己の胸元で握りしめて。
「おいおいおい…どんな男目の前にしても眉一つ動かさなかった教会騎士様が…」
「おう、ウツシロ。うちの紅一点の心を射止めた奴のツラァ拝みに行こうじゃねえか」
長き旅路。長き試練。長き時間を共に過ごしてきた仲間。勇者パーティーの中の紅一点リチア。彼女から初めて見ることのできた表情はウツシロとグラークに驚きと、リチアをそうさせてしまう男への興味を生じさせる。そして彼らの好奇心を止めるものなどは一切ない。精神的にも…物理的にも。足は進む。窓の方へ。間も無く行き着く。恋する乙女、リチアの隣へと。
糸目のウツシロと鋭くキツい目つきのグラークの目に映るのは…燦々と照り付ける空の下、ただだだっ広く広がる芝生の庭。いろんな使い魔たちが居る中に混ざる…目に痛いほどのピンク色だった。それの視線の先にはなんだか塊と化した使い魔の集まりも見える。
「淫乱ピンク…?」
「リチアさんよ、冗談キツいぜ。あんなのが趣味かい? つかアイツ妻帯者じゃなかったか」
ネオ中野魔術学校中等部。体育の授業を受け持ち、2年生の学年主任でもある教師。茂呂智成。彼の後姿を窓ガラス越しに捉えたグラークと茶化したように笑うウツシロは、リチアの趣味を疑った風にそれぞれコメント。その後で2人の視線は彼女へと向く。
「はぁ…何を見ているのですか? 淫乱ピンクさんの直ぐ傍に居るでしょう?」
リチアはため息を吐いた。己の仲間たちの着目点が己の見ているものと違うことを理解して。だが、そんなムッとした顔もほんの一瞬…すぐにもの寂し気な顔となる。切なさを感じたような…正に恋する乙女。そう言えそうな。
そんな彼女の傍で口をへの字に曲げたグラークとウツシロは互いの顔を見合わせ、再度眩しい窓の外へ。リチアの視線が向けられる先へと目を向けて見た。そこは茂呂智成…彼の視線の先。寄せ集まった使い魔たちの群れが要る場であった。
「…人が愛の対象ではなかっ――」
「待て、ウツシロ…良く見ろ」
早々に結論を出そうとするウツシロを咎めるグラークの視線の先。多種多様な使い魔たちが集まるそこにて…動きがあった。黒いモコモコの毛をもつ…六本脚の巨大な犬。それがゆっくりと退いた向こう側から現れる…人影。それはゆっくりと立ち上がり、淫乱ピンクの方へと歩み寄る。その巨躯、一度見たら忘れないであろう厳つい見てくれは…ウツシロにもグラークにも見覚えがあるものであった。
「あのツルッパゲは…」
「魔王の関係者に教会騎士が恋心を抱く…異端審問官が身内の粛清のために拷問道具の刃を研ぐ音色の前奏にはぴったりの響きだな」
白い肌。スキンヘッドで…青みの濃い赤紫路の縦に瞳孔の長い瞳。切れ長の目、据わった目つき。冒険者ギルドの力自慢たちに混ざっていても不思議ではない立派な肉体。黒いインナーと猫屋敷製作所のロゴのワッペンが付けられた半袖灰色の上着。ネイビーのミリタリーパンツに身を包むそれは、意味があったかいまだに疑問に思われる、ネオ中野休戦協定の議長を務めた男、イグナートの姿であった。
「神が私をこのように導いてくれたことにはきっと意味があるはず。この出会い…この感情の動きにも。それにあのお方のお仲間のウィンゲルフと接する様子を見る限り、ウィンゲルフの配下とも考え難いと見ました」
あまりにも脈絡のない恋心。所謂一目惚れと言う奴だろうか。ほぼほぼ外見と仕草、雰囲気など。俯瞰して得られる情報から相手に恋するそれは…内面を一切加味しない、半丁博打。故に案ずる。苦楽を共にしてきた仲間であるリチアを、グラークとウツシロの2人は。ろくでもない男女関係を送ってきた彼らだからこそ。
「あんな見てくれの奴は酒場や冒険者ギルドに腐るほど居ただろうに。面構えとかは傲慢で陰険な魔術の権威ってな感じでちょっと変わった風に見えるけどよ」
「悲惨な戦場に送られて帰ってきた傷痍軍人を何人か見てきたが、そいつらと似た雰囲気を感じるな」
窓ガラスの向こう側、その下にて淫乱ピンクと何やら話すイグナートを見た印象をウツシロとグラークは述べた後、各々思考を巡らせる。今、窓ガラスの向こう側を熱っぽい顔で見つめる自分達の仲間であるリチアの為に。彼女の意中の男がどんな人間なのかを探るための策を。
「まずは情報収集だ。桜子のお嬢は19時頃まで部活。それまでに奴がどんな男か見極めてやろうじゃねえか。なぁ、グラークの旦那」
「あぁ。とりあえずウィンゲルフの野郎をとっ捕まえるぞ」
「だな。リチアさん、行こうぜ。ここに居ても何も始まらねえや」
人の恋路に首を突っ込むことに楽しみを見出した風に白い歯を見せ笑うノリノリのウツシロ。それに先導される形で不愛想な顔をしたグラークが、その後ろに頬を染めた俯き気味のリチアが続く。埃っぽい物置部屋から廊下へと。
強制的に与えられる平和の中の、何不自由のない暮らし。漠然とした主を守れと言う使命。目的がはっきりしない日常の中で見出された仕事らしい仕事。剣や魔法を使う訳でもないが、頭脳を使う歴とした戦いは、今始まった。流れる敵の血だけが糧であった傭兵共と聖職者の…それは平和な戦いが。
シャトルラン…アレは単に持久力を測定するだけのものではない。心の…精神の強さを測る測定なのだと私は考えているよ。身体が限界を迎えた時…なおも身体を動かすのは精神。強靭な精神なのだと!
自分よりも遥かに強大な敵や恐怖に立ち向かう人の姿と言う物は、何時だって美しいものなのです。だが、この測定方法は滅ぶべきだと思うのが…我々日本人の総意だと思っているよ。
次回は…いい歳こいた大人たちが人の恋路に本格的に首を突っ込む感じのお話になります。用は人物の掘り下げ…恋愛遍歴等の。そういうのが好みな人は楽しみにしててくれよな。