魔王の涙
えー、以前活動報告に書いた通り、実験的にではありますが、新しい文章の書き方を試してみました。うーむ…読みやすくなっていればよろしいですがね。
個人的には…こっちのほうがイイのでは? と思った限りであります。
そう、書き方を変えると少しばかり新しい表現が出来たりしたんだよ。ビックリさ。
白い雲は青空に浮かび、空の青を適度に彩る。
昼下がりの太陽から燦々と降り注ぐ陽射しは、一部は雲に遮断されて影を落とし、そうならなかったものはその下にあるモダンなデザインの建造物から成る街。緑と人工物の調和とも言えそうなそれらを分け隔てなく明るく照らす。
その一部を織りなすネオ中野魔術学校。
生まれ持った魔術の才と、一定の社会的な地位を持つ家の人間が通う学び舎。
白を基調とするモダンなデザインの校舎は、授業中と言うこともあって静けさに包まれており、各教室から聞こえるのは教鞭を執る教師たちの声ぐらいのものだった。
その校舎の中に存在する…図書室。通常の部屋よりも高さのあるそこは、白い壁と同色の高さのある本棚、大きなガラス窓、縦長のテーブルとそれを囲う椅子のセットが幾つかある広めの空間。一部の使い魔は自由に出入りできるそこに…何冊かの本が積み上げられた長テーブルの傍の椅子に腰かけた、2つの人影があった。
「ウィンゲルフさん、半裸のゲン9巻を取って貰えませんか?」
そのうちの1人、帯刀した赤い袴姿の少女が問う。今まさに読んでいた本を閉じ、テーブルの上に置いて。
彼女の視線の向かう先には、白地のTシャツとデニムパンツのシンプルな服装の、角の生えた褐色肌の男が居た。己の手の内に開かれた本を注視したままの。
「すまないがそれに応じることができん。この俺が読んでいる真っ最中でな」
その男、ウィンゲルフは己に話しかけてきた少女である小春に対し、言葉を返すとまた1ページ本を捲る。漫画。この世界の過去にあった戦争を描いたそれを夢中になった様子で読みながら。
その真剣な横顔を見、小春はふぅっと息を着くとその小さな背中を椅子の背もたれに預ける。…素直に諦めたようだ。
シンとした室内の中に本を捲る音だけが聞こえる。
長閑な日常。権力者たちの護衛として召喚された者どもの穏やかで安楽な時間。今見える範囲では、きっと彼や彼女が来た世界よりもずっと優しい世界の中の時の中、ふとウィンゲルフが口を開いた。その世界の暗い過去を一方から見、記された本を手に。
「一億の祈りが八百万の神々に届き、顕現したのが魔法…物資も底を付き、本土決戦の間際の状況下で今までなかった全く新しい未知の力が見出されたら、そう思えても仕方がないのかもしれんなぁ」
「あれ? 最初に魔法を確認したのってナチスドイツじゃありませんでしたっけ?」
「ん? そうなのか? この本では――」
お昼寝日和の陽ざしが差し込み、日の当たる部分は眩しく、それ以外はやけに暗く見える図書室にて、漫画を手に得た知識を共有するウィンゲルフと小春。
2人の間で議論が始まろうとしたとき――部屋の出入り口。廊下に続く引き戸がスライドする音が聞こえた。
出入り口は背の高い本棚があって見ることは叶わないが…すぐに、その来訪者の姿はウィンゲルフと小春の目の届く範囲へとやってくる。
「よう、ウィンゲルフ」
ウィンゲルフの前に現れたのはかつての仲間であり、敵でもあった者たちだった。
黒いデニムパンツに紺のTシャツのグラーク、黒スキニーパンツを履き、白いTシャツの上に上着を羽織ったウツシロ、灰色のトップスと薄桃色のスカートのリチアの3人組。
声を掛けてきたのはその中のウツシロで、相変わらず油断ならない胡散臭い笑みを浮かべている。
「ウツシロ…? お前ら…何しに来た」
封印され、こうしてこちらの世界に呼び出されるまでは敵対関係であったがゆえに、ウィンゲルフは警戒した様子で席から立つ。静かに距離を取り…微かに身構えて。
「まあまあ、お互い戦う理由はねえ。そうだろ?」
ウツシロはウィンゲルフの反応を楽しんだように、揶揄ったような笑みを口元に小春とウィンゲルフの座る席の対面側の席に腰かけ、そのサイドにグラークとリチアが座った。
「バターナイフの扱いが得意なお前が笑顔で近寄ってくると落ち着かないのは当然だろう」
「魔王ともなっても首かっ切れば殺せるわけかい。良く覚えとくよ」
3人が席に着いたのを確認した後もウィンゲルフは警戒した様子のまま、遅れながらに席に着く。引っかかる言い方をするウツシロと会話をしながら。右手にある漫画を閉じ、積み上げられた半裸のゲンのコミック本の上に置いて。
透かさずその本を白い手が攫って行く。小さく白いそれは、小春の手だが…ウィンゲルフは構っていられるほど余裕はない。
「――単刀直入にここに来た要件を言うぜェ。ウィンゲルフ。お前…俺たちに協力しろ」
小春が半裸のゲン9巻を開いた時、一瞬にも長くにも感じられた沈黙の中で、グラークが主語なく要件を告げる。身体を凭れかからせるのには不向きな背もたれに片腕を絡めつつ。
元仲間でありながら、元敵でもグラーク達からの要求にウィンゲルフは当然考える。
――その考え、魂胆を。その間は空白となって時間を作り、その時間は…再度グラークの口を開かせた。警戒するウィンゲルフの態度を揶揄ったような雰囲気で流し目で見やりながら。
「そうビビんなよ。お前を袋叩きにしようだなんて考えちゃいねえ。リチアの恋路の手伝いしろってだけだ」
自分を子ども扱いするような軽んじた風なグラークの態度に、ウィンゲルフがムッとしかけたのも一瞬。グラークの言葉に、ウィンゲルフは耳を疑ったように目を細め、口をへの字に曲げた。
その渋い顔が向けられる方向にはなんだか物憂げな顔をし、心ここにあらずと言った風に良く磨き抜かれ、何も置かれていない白いテーブルの1点をぼんやりと眺めるリチアの姿が在る。
まさにそれは恋する乙女…長らく仲間として歩んできたウィンゲルフ自身…初めて見る顔…一面であった。
「リチアが…?」
息を飲み、微かに震えた声でウィンゲルフは言葉を紡ぐ。揺れる瞳にリチアの姿を映して。
その間のウィンゲルフの反応は只ならぬ物で…その隣にいる小春が心中を察するには十分。きっとグラークも察しては居るだろう。
だが、非情だ。そういった淡い感情とは無縁であろう男。ウツシロは――容赦なく肯定すべく口を開く。いつもの軽いノリで。
「おぉよ。一時好きだった女の力になれるんだ。悪い気しないだろ?」
ウィンゲルフは未だに疑った風な目でリチアを凝視。その確定しきらぬ認識に、釘を打つかのようにウツシロが肯定を促す。
雑念を生みかねない言葉を、悪戯心の宿る悪意と共に。
――その時、ウィンゲルフの頭の中に過るは…リチアが仲間であった時の事。何度も危なくなりながらも共に歩んだ魔王討伐での旅路。笑いかけてくれた控えめな笑顔と死にかけた時に感じた回復魔法の暖かさ。人の社会に報復を誓い、敗れてもなお、心の奥底で淡くも光り輝く思い出だった。
「……あぁ…そうか、そっか…前律法がどうとか言ってたけど…そっかぁ…」
ほんの少しの沈黙の後、ウィンゲルフは顔を逸らした。寂しそうな半笑いからなんだか泣きそうに頬を歪ませつつ。
目元は前髪に隠されて影が落ち、見えなくなってその表情はハッキリとはしなかったが…絞り出すような消え入りそうな声からは視覚的な情報以上の物が確かに伺えて、確かにそれは周囲に伝わった。
…けれど届きはしない。肝心なところには。ウィンゲルフの意中の女性、リチアには。ただただ彼女は心ここに非ず…已然のままだった。
「――嘘だろ? まだ好きだったのかよ? 互いに敵同士になってたってのに。そういや俺らと戦ってるときリチアだけ攻撃してなかった気もしてたけども」
「っ…うっ…うわぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
ウツシロの茶目っ気。彼が揶揄うつもりで言った冗談はウィンゲルフの心を深く、深く傷付けた。
ウィンゲルフは走り去る。泣き声を静かな図書室の中に響かせて。彼の背、窓から差し込む眩しい日差しに煌めいて見えたのは、きっと彼の涙であっただろう。
「あぁっ…! ウィンゲルフさんッ…!」
廊下の向こう側に消えていくその背に手を伸ばすのは…彼の同僚。小春。その気遣うような声は届かない。帰ってくるのは悲痛な泣き声だけだったが――
「ちょっと、授業中ですよ! 静かにしてもらわないと――」
「うるさぁい! そんなものこの俺が知るもんかぁ!」
「あっ…お前ッ…誰の使い魔だ! 身分証明書見せろオラァッ!」
開け放たれた図書室と廊下を繋ぐ引き戸の向こう側からは、さらなる面倒の予感を感じさせる、女教師の声が聞こえる。
けれどそれは小春が引き戸に手を翳すまでの間の事。彼女がそうしたことによって、引き戸は閉じられ、ウィンゲルフの泣き声が引き起こす問題に付随するものは聞こえなくなった。
その暫くは再起できないであろうその有様は…小春とウツシロの顔に引き攣った笑みを齎し…そんな後者の横顔にグラークの冷めていて、且つ非難がましい目が向けられる。
「…おい、何やってんだ。話が拗れたじゃねえか」
「いや~…こうなるとは思っても居なかったんだよ。へへっ、旦那ぁ、堪忍してくれよォ」
小声で非難するグラーク、それに向けて両手を合わせ、ヘラヘラしながらも平謝りをするウツシロ。始まりかける説教の流れ。その時…パタンと響く本が閉じられる音が辺りに響いた。注目を促すかのような音が。
グラークとウツシロの視線が音源の方へと向く。そこに腰かけるは…深刻そうな顔をし、両目を閉じる赤い髪の…ちんちくりんな少女だった。
「話は聞かせて貰いました。これも世の為人の為…ここは私も一肌脱がせて頂きましょう」
薄く小さな身体の前で両手を合わせる形で閉じた本。それをゆっくりとした動きでテーブルの上に置きながら、その少女…小春は閉じられた瞳を開いた。
まるで介錯人の様な強い意志を感じる深紅の瞳で。
――直後に辺りを支配するのは沈黙。そのしじまの中でグラークとウツシロは互いの顔を見合わせ…再度2人の視線は小春へと向けられる。
「お嬢ちゃん、ウィンゲルフの仲良しさんかい?」
「私は花子ちゃんの使い魔の1人…ウィンゲルフさんの同僚の1人。敵わぬ恋に苦しむ彼を介錯してやるのもまた、仲間としての優しさでしょう」
先を読み、且つ、無駄な会話を省くような話の進め方はウツシロとグラークのの目的を見透かした風な物。
聞いていた話の内容からヤマを張っただけか、本当に見透かしたかは解らないが…その悲壮感の宿る瞳は、あれだけウィンゲルフが騒いでも頭の中のお花畑から返って来ず、ほわほわしているリチアへと向けられていた。
「丁度いいじゃねえか、旦那。ターゲットの情報が得られるんでありゃあ誰だっていいだろ?」
「…まぁ…そうだな。うん…お前は反省しろ」
走り去ったウィンゲルフを一切気に掛けない物言いのウツシロに促されるまま、グラークは同意を示す。
目に焼き付く悲しき後姿。差し込む陽の光に舞う涙の輝き。ウィンゲルフを微かに気に掛け、後髪引かれる思いをグラークは抱く。心に湧いて出た哀れみの気持ちは…彼の思い人が一切反応を示さない事実によって拍車が掛かる。まるで枯草に付いた炎の如く。
本当に…ただ、不憫であると。
そんな中、握りこぶしを唇に当てて小春が1つ咳払いをした。
「ターゲットはイグナートさんですね?」
「なんだいお嬢ちゃん。人の心読む魔法でも使えるのかい?」
「ウィンゲルフさんを探しに来た時点で大凡絞り込めてましたし、まあ順当に考えてその辺りだろうなと」
「おぉ~? こりゃお利口さんだな。賢いお嬢ちゃんにはお兄さんが飴を上げちゃうぜ」
話は進む。魔王関係者と早々に打ち解けるウツシロと…彼から白い包装で包まれた、苺ミルクの飴を受け取る小春によって。
頭の中の花畑から帰還する。恋する乙女、リチアが。イグナートの話をし始めた小春の顔を淡い空色の映して。
気に掛けはしない。ウィンゲルフの事など。
「まずはどう攻略したいか…どうなりたいか。聞かせて貰いましょう。本丸ではなく、本丸に到達するまでの最初の足掛かりを」
膝の上に置いていた手をゆっくりとテーブルの上へ。両肘を付き、顔の前で両手を組む。その向こう側を片目で、小春は見据えた。ようやっと物思いに耽るのを止め…話し合いに、作戦会議に臨む姿勢のリチアの凛々しい姿を。
ただ凛々しいのはほんの一瞬。小春からの問いかけにより、リチアは目を逸らす。頬を染め…視線を斜にし、両手を胸元で握りしめて。
「そのっ…まっ…まずはお友達から…」
リチアは絞り出す。最初の一歩を…どうなりたいかを。微かに上ずった声で。
その何とも淡く、純粋で…穢れのない最初の目標は小春にいろいろ察させた。きっとこの恋には彼女の傍にいる男どもでは手に負えそうにないことも。
故に小春は目を閉じ、思い描く。助っ人に成り得る存在の姿を。
刹那それは姿を現し、小春にいろいろと思いの丈を話そうとしていたリチアを黙らせる。
灰色のライトジャケットを羽織り、黒いインナー。黒く長い動きやすそうなカーゴパンツとブーツ。艶やかな黒髪に左耳に輝くピアス。そんな姿の女が…突如として現れたことによって。
その女、ベウセットはウツシロ、グラーク、リチアの3人に視線を滑らせ、最後に…小春で目を止めた。淡々とした表情のまま、説明を求めるかのように。
「富も名声も変な下心もなく、惑わされたわけでもなく…真剣に、ただ純粋な愛からの恋愛経験を持つベウセットさんに助言を仰ぎたい案件があります」
説明を求めるベウセットの前で、小春が要件を告げる。先ほどまで己の顔の前で組んでいた手を、テーブルの上に乗せつつ両目を閉じ、微かに眉間に皺を寄せながら…なんだかとっても深刻そうな雰囲気を醸し出して。
対するベウセットはそれに辟易したような顔をしてため息を吐き、胸を下から持ち上げる形で両腕を組んで、本棚に背中を預けた。なんだか…参ったように。
「先生、なぜ私がそんなことを…」
きっとその話をしたくないのだろう。ベウセットは明らかに乗り気ではない様子で、何かを言いかけるが――途中でため息を1つ吐き、口を閉じた。
――先生は自分の恋愛経験とやらを必要としている。一体どんな用途かは解らないが…話さなければオルガに話が行くだろう。
心の中でベウセットは呟く。目に見える結末を予測して。何かを諦めたかのように。なんだかものすごくバツの悪い顔をし、己の顔に片手を当てながらも。
そんな…初めて見るウィンゲルフの関係者。滅多に居ないであろう…深みを感じる美貌の持ち主に、ウツシロは片肘を立て、頬杖を突きながら眺めていた。
「ほぉ~…こりゃすげえな。目が覚めるような美人だ。ねぇ、旦那」
「お前さんは…リチアに協力する気はあるのか?」
「ハハハッ、もちろんありますって。もう。でも良い女目にすると…ねぇ?」
良くも悪くも傭兵。余りお行儀のいいところでは育ってこなかったウツシロの軽口はベウセットの目を引いた。
眉間に皺を寄せ、辟易した表情と共に、まるで…しつけの成っていない動物でも見るかのような視線を。
「飼い主はその犬っころが無駄吠えしない様に良く躾けておけ」
言葉では多くは語らない。だが、彼女の中にあるごく自然な…悪意のない選民意識。揶揄ではなく本気で言葉通りに思っていそうな雰囲気は…ウツシロの顔に引き攣った笑みを浮かべさせ、その口を閉じさせた。
本来対等な相手…近しい相手。同じ人に対する暴言ならば、相手側の影響を見ていい気分になったり、ムカついたりするところであろうが…そんな素振りは一切なく、ベウセットの視線は小春の方へと向く。気を取り直したような、淡々とした表情のままに。
「先生。まずは状況の説明を」
「そこにいるリチアさんがイグナートさんに一目惚れ。我々はその恋のキューピッド役をしようと言う訳です」
小春は両手を組んだまま、視線を前へと固定したまま。深刻そうに答えた。
ベウセットは小春を良く知っている。間違っても人の恋路だとかに面白がって首を突っ込むタイプではないことを。
頭に幾つか彼女がこうしている理由について思い浮かぶが…本人に直接聞いてみることにする。
「一応聞きますが、なぜそんなことを?」
「敵わぬ恋に苦しむウィンゲルフさんを楽にしてあげるためです」
深刻そうに言う小春の言葉に嘘偽りがあるようには思えない。本当に真心から…そう思っているようだった。
けれど…ベウセットにはさして重要な物には思えなくなった。彼女に取って…ウィンゲルフなど取るに足らない存在なのだから。むしろ、今のままの方がいいのではと思えていた。
「先生、お言葉ですが…別にそのままでもいいのでは。あの駄犬が敵わぬ恋にのた打ち回る姿は肴にはぴったり。さぞかし酒も味わい深くなることでしょう」
「認めた人以外にはとことん辛辣ですね…」
「それに、あの抜け殻同然のイグナートが誰かに興味を示すとは思えませんし」
形の良い顎に手をやりつつ、ベウセットは消極的ではあるが、非協力的な態度を見せる。
現状維持ならば恋愛遍歴を語らずに済み、ウィンゲルフの苦しむ姿を見ることができる…ベウセットに取って、行動を起こす利点が何一つないのだから。
ただ、小春も理解はしていた。この道のりの険しさ。イグナートと言う人物が一体どういう存在なのかを長い間見てきたがゆえに。
しかし――可か不可か。そういう次元の話を小春はしているわけではなかった。
故に小春は手招く。ベウセットを。彼女は近寄り、身を屈める。小春へと。
「私も攻略不可能だと内心思っています。しかし、結果は次へ繋がります。リチアさんの初恋は潰えますが、ウィンゲルフさんには可能性の芽が芽生えます。もしかしたらリチアさんもウィンゲルフさんに振り向くかもしれません」
結果を残し、可能性を摘み、新たに芽生えさせる。破壊と創造。そういう次元の話で小春は囁く。
ベウセットの耳元に手を立てて。それは、リチアの表情を不安な物にさせては居はしたが、小春もベウセットも気にはしない。
そしてベウセットに伝わる。小春の意志が。その協力しなければオルガに話が行くという暗なる警告はベウセットの選択肢を一択に絞った。彼女の顔に…苦いものを残して。
「…仕方ない。先生には沢山の借りがありますし…貴女に免じて協力しましょう」
ベウセットは鼻から息をふうっと吐き出し、姿勢を元に戻すとテーブルの上へと両手を付いた。
キシリと上からベウセットに両手を付かれたテーブルは微かに軋む。黒く艶やかな一糸の乱れのない長髪は重力に引かれ、ベウセットの胸の前に垂れて。
テーブルの上に手を付き、前のめりになったベウセットはリチアを見据え、相変わらず気乗りのしない不機嫌そうな顔をしていたが、面倒を見てやる気にはなったようだった。
リチアもそれに応えるかのように今の今まで心ここに非ずと言った風ではなく、真剣な眼差し、表情でベウセットに視線を返し、交差させる。
…今もどこかで泣いているかもしれない、ウィンゲルフの事など一切気にも留めず。
「まずはこちらの戦力を把握したい。お前は何だ?」
先ず、言葉を発したのはベウセット。元の素性。それがありありと窺える言葉遣い。命令は…リチアにこれが一種の戦いである事を理解させ、その上で彼女の口を開かせた。
「教会騎士団所属、ディバインナイト! リチア・フォールンフェインです!」
図書館と言う静けさを保たねばならぬその一室に、それは大きな声が響く。
座ったままではあるが、背筋をピンと伸ばしたリチアの口から。この場所が、まるで訓練場であるかのような張りのあり、聞き取りやすい声が。
けれど誰も気にも留めはしない。今この学校の生徒たちは授業の真っ最中。図書館に居るのは関係者のみなのだから。
「ほう、僧兵か。一応聞くが恋愛経験は?」
ベウセットは更に詰める。黒く大きな瞳を上目遣いに、厳しい視線をリチアに向けて。
「そのっ…それは…」
聞かれれば誰しも直ぐには大っぴらにはしないであろう、答え辛い質問。それとは別に何か思い出したかのように…違った部分で戸惑いと迷いの色を色濃く浮かべ、リチアは顔と視線をベウセットから逸らした。
宗教。それに追随する律法。そこから生じる迷い。リチアの心を縛る鎖の存在を、誰もが察することの出来る様子。しかし彼女は迷いを振り払うかのように顔を横に振った。目を強く閉じて。
そして瞼を開く。澄み切った水面の様な淡い水色の瞳を携えて。
「――教会の律法によって恋愛、結婚は禁忌とされていました。なのでそのような経験は一切ありません」
「いつでもどこも似たようなものだな。聖職者と言うのは。その末端は本当に真面目なものだよ」
背信。ある種の洗脳を打ち破った瞬間とも言える瞬間。
皮肉っぽいベウセットの呟きを耳にしつつ、強い意志の宿る目でリチアは続ける。
「なのでぜひ、清い恋愛の経験者と言われるベウセット様のお力添えを頂きたいと思っているのです」
悪意がない真直ぐな、真摯な淡い空色の瞳。発せられるは聞いていて恥ずかしくなるような問い。
リチアのその目に見つめられ、ベウセットは思わず顔を背けて視線を斜にした。
――私が何でこんな目に…。
覚悟を決めながらも…そう、心の中でぼやいて。
心に色濃く宿るは己の運命への呪い。どうかしていた過去への自分の後悔。
――そう思おうとしている強がりや意地…素直になれない気持ち。不本意にも思える…思いたがっているのかもしれない、初恋の相手との否定しきれぬ思い出。
やきもきする気持ちを抱きながら、ベウセットは不機嫌そうな決まりの悪そうな顔をしつつ、テーブルの上から手を離して姿勢を元に戻す。
「先にお前が好いたイグナートと言う男について、私が知っている限り教えてやろう」
「はい、お願いします」
ふっ…と雰囲気が変わる。
ベウセットは表情をいつもの…淡々と刺々しく不愛想な近寄りがたいものに。
リチアは凛とした、心を引き締めたものに。
そしてベウセットが口を開く。イグナートと言う男の素性を話すべく。
「イグナートは咎人だ。それも生半可な物じゃない」
切られる言葉。置かれる間の中で、ベウセットは反応を窺うかのようにリチアの顔を見下しつつ、胸の下で腕を組む。
リチアは一切動じず、話の続きを促すようにベウセットに視線を動かさずにいたが…その傍で、グラークが大きくため息を吐いた。
「あの面構え…まともじゃねえとは思ったが案の定だ。やめとけ、リチア。男なんて星の数ほど――」
「続けてください。きっと何か訳があるはず。私には、あのお方が理由なく誰かに危害を加える人には見えませんでした」
苦楽を共にした仲間。その身を、将来を案じたグラークの声は、リチアには届かない。ただ、彼女はベウセットを見据えてその先を聞こうとするだけ。額に手を当て、参った風に鼻から息を吐き出すウツシロの視線を感じながら。
それは初恋が成す盲目か…本質を見抜いたものかはわからない。リチアが諦めた様子がないことは確かであり、ベウセットは鼻から軽く息を吸い込み、続行する。
「元戦奴でもある。見世物として凄惨な戦いを強いられてきた奴隷だ。10歳の頃には既に客を楽しませていたという話も聞く。悪趣味な権力者共を相手にな」
戦奴。その聞き慣れない響きにウツシロとグラークは流し目で、互いの目と目を見合わせたのち、その前者がベウセット方へ視線を向ける。
「俺たちの所とはまた別の世界から来たわけかい。アンタらは」
「ほう。オルガの奴が面白がってその辺りを説明しないで居た訳か」
ベウセットは掌の上に肘を立て、黒く艶やかで滑らかな黒髪を人差し指で弄りながら、ウツシロの発言から状況を理解。肯定と取れる一方的な納得の言葉を発する。
ウツシロはなんだか気に入らなさそうに眉を顰めるが、ベウセットは気にも留めず、その後に、ベウセットの又聞きしたような言い方に背景を察しながらリチアが手を軽く上げる。
「イグナート様は何故咎人に?」
「奴隷が自分の首輪を引き千切ろうと思ったら、それを邪魔する連中をどうにかしなければならんだろう?」
リチアの問いかけに、ベウセットはそれとなく匂わし、視線を小春へと向けた。
「先生。より詳しく聞きたいようですし、私より貴女が説明すべきでは? 私は貴女方よりずっと後の世代ですし…半分神話になったような話しか知りませんよ」
「うーん、それもそうですね」
ベウセットの一言で、リチアの視線が小春へと向く。ベウセットよりも年齢を重ねている風に言われる小春に対しての微かな驚きと共に。
その驚きが収まる前に、発達した鋭い犬歯が覗く、小さな口を開いて小春が語り始める。
「イグナートさんの世界は質が量を凌駕する世界でして、優秀な1個体が万の平凡な個体に勝る…そんな世界です。イグナートさんはその中でも特に優秀と言える個体でして…ね?」
ハッキリとは言わない。回りくどく小春は匂わし、リチアに向けて微笑みと小首を傾げて見せるだけ。
しかし、情報はそれで十分であった。心が壊れて居ないという前提が成立するのであれば、抑圧は憎しみを産み、力はそれを苗床に育つ…自分を押さえつけていた者たちの秩序を破壊できるようになれば、どうなるかは火を見るよりも明らかだ。
「報復の結果、有力者たちを殺め…咎人とされたわけですね?」
「えぇ。その場にいなかった関係者に報復するために旅をしていたという噂も聞きますね」
「その後は?」
「どこかの地方都市の領主に匿われてたなんて噂がありました。この世界よりもずっと物騒な世界でしたし、戦力として見た時、彼ほど頼りがいのある人はいませんから」
リチアは小春からの話を聞いていて…察する。憎しみを杖にしなければ立っていることさえできない強大な力。それによる報復が何を齎すか。報復を経て積み上げられた死体の山から流れ出る血は、決して薄汚いものだけではなかったのだろうとも。
だが…気持ちは揺るがなかった。それだけ執念深く憎めると言うことはきっと優しいから。自分1人傷付いただけではそうはなりはしないだろうから。
心に灯る熱は更に大きくなる。信仰を揺るがす人の闇、残酷な世界の在り方、旅の中で度々垣間見ることの出来たそれらの経験を経た心にとっては、自然なことだったのかもしれない。
リチア自身…動かぬ気持に戸惑いもなかった。たとえ思い人が…無垢な血を流していたとしても。
そんな…昼下がりの一幕。チャイムが鳴り響き、1つの時間の終わりが告げられる。
束の間の休み時間によって、校内は生徒たちの声で賑やかに。
けれど図書館の中での話し合いの区切りにはなりえない。恋する乙女リチアとその仲間たちによる作戦会議はまだまだ終わる兆しは見えなかった。
ホントはね、もっと肩の凝る話だったんですけど…あんまり楽しくなかったんですね。書いていて。途中で方向を転換し、従来の作風に則る形にしたわけです。
オルガさんとその仲間たちは割と血生臭い世界からやってきたシリアス側の住人なんだよ。何時かはその世界の話も書いてみたいと思っているが…ふふふ…何年かかる事やら。
ちなみに…この話はまだ続くぞ。ウィンゲルフ君が動き回って少し話が拗れる感じになります。もちろん…話の路線は肩の凝らないギャグ路線だ。肩の力を抜いて楽しみにしてくれたまえ。