《稲荷の方》2
翌日。
「あ゛ぁ~、さすがに徹夜はヤバかった……」
凝り固まった身体が重い。背中に鉛でも背負っているような気分だ。
平日昼時の日差しが目に悪い。
こんな時間から化粧ひとつもせず、分厚いメガネに部屋着とマスク姿で出歩いている彼女こそ、リアル油屋とろろこと苅部恭華である。同人界隈ではそこそこの人気を誇るエロ絵描きとして、知るところでは知られているプチ有名人だ。
くりくりと目頭を揉み、人通りも無いのをいいことにだらしなくあくびをする。
しかし、昨晩はあの時間からゲームを始めてしまったのが不味かった。一度始めてしまった矢先に定期イベントに参加してしまい、同胞たちが次々寝落ちする中一人止め時を見失っていたのだ。
フルダイブ型VRゲームが一般家庭向けに発売されてから長い今日。彼女の自宅にもまたそのゲーム機が存在し、数ある趣味のひとつとなっている。
特に熱が入っているのは、仮想世界で銃を撃ちまくるシューティングゲーム。
その内有名タイトルのひとつ『オペレーションジェネシスシリーズ』では、専用サーバーでローカル大会を企画するなどそこそこに活動していたが、先日そのタイトルが突然サービスを終了。現在は仕方なく、別のタイトルを旧OG時代のフレンドと共に放浪している。
「しっかし……首いたい」
近所の夫婦の営む飯屋の前まで差し掛かり、彼女はだらだら首を回した。
別段飯を食うような気分ではないが、なにぶん暇である。この時間なら知った顔が来店しているはずだ。
「こんちわ」
染みの目立つ暖簾を潜りひらひら手を振ると、カウンター席に彼はいた。
「いらっしゃいキョーカちゃん!」
返事をくれたのは、厨房の親父ただ一人。目当ての彼は顔さえ向けてはくれなかった。
猫背、撫で肩、無表情無感動を頑なに貫く顔。それは仮想世界の外でも変わらない。昨晩、黙っているのを良いことに最後までイベント戦に付き合わせた一人。例の彼である。
容姿以外になにか違いを取り上げるとすれば、カウンターの横に立て掛けた杖だろう。本人から直接聞いたわけではないが、事故か何かで片足を悪くしたらしい。
若い内から苦労な話である。
木崎翔真
昨日イベントでスクワッドを組んだうちの一人、あのワンマンキルモンスターである。リアルではふたつ下の後輩の、その友人という体で接している。
という風にこの回りくどい関係を維持しているのも、彼がどうしても他人と距離を詰めることを嫌うためである。
何事もなかったように、食いかけのかけ蕎麦をちゅるちゅるとすすり上げる音。
「なぁんだよおまえ~」
苅部恭華は酔っぱらいよろしくその肩に腕を回し、その頬にこめかみを押し付けるようにする。
「とろろ先生が来てやったんだぞぉ?奢ってあげるかもしれないから可愛くおねだりしてみろよぅ。」
過度と言えば過度なスキンシップだが、この冗談も慣れたものである。例にもよって木崎翔真は目を細めるばかり。
彼には基本それ以外に表情がない。
それでもしつこく絡み続けると、やがて蕎麦を飲み下した口がぼそりと動いた。
「……430円……」
「うん?」
「430円」
「かぁっ!」
可愛くないにもほどがある。
おかみさんの出した水を煽り、諦めてカウンターの向こうに声を張った。
「親父ぃ、親子丼おねがい!」
「あいよっ」
水に口をつけながら、しばらく親子丼を待つ。
この時間にも関わらず、店は隣の仏像みたな奴の麺をすする音と、やたらとうるさい換気扇の唸る音だけである。
いつもはもっと賑やかなのだが、それは恐らくいるはずの残り一人がそこにいないためだろう。
「スズムラちゃん、今日はいないの?」
問いかけるも、沈黙。
「そう言えば、今日はまだだね?」
隣に聞いたにも関わらず、答えが飛んできたのは厨房のおかみさんからだった。
「ほぅ」
珍しいこともあるもんだ、と隣の奴の顔を覗く。これとの付き合いも短くなくなってきた。なんとなく表情も読めなくもなくなってきた。
なんとなく、本当になんとなくなのだが、いつもより暗い。というより暗いような気がしなくもない。
「なんかあった?」
「……」
その問いを口に出すと、蕎麦を掬っていた割り箸が空中で停止した。
答えがなかなか返ってこないまま、箸先に寸でのところで掴まっていた麺がずるりと落下。
「あぁ……そう」
この固まり具合、何かあったのは確からしい。
鈴村恵
木崎翔真を「後輩の友人」と置いたが、その「後輩」の部分に当たるのが彼女である。
一言で言えば「いい子」。
優しくて気が利いて頭がよくて明るくて気さくで面倒見がよくて、
とにかく誰からも好かれる人間のお手本だ。
厳密にはそこまで単純に説明のつく手の人間ではないが
彼とは性格はまるで正反対。
それがどこでどういう巡り合わせがあったのか、この木崎翔真の「友人」である。
「怒らせたかもしれない」
突然、ぼそりと溢した。
「うんにゃ?」
俯いた目にはみるみる悲しみの色が滲み出し、瞬く間に崩れる仏頂面。
彼が感情を表だって見せる機会があるとすれば、彼女に関してのこと以外にない。すくなくとも、苅部恭華はそれ以外に彼の感情的な部分に触れたことがない。
「いや、怒らせるって、なにしたのまた?」
彼女はそう簡単に怒るような人間ではないことは知っている。まして彼のこととなると異様に甘くなるのが彼女だ。
「……昨日のこと、怒られた。」
「は?」
蕎麦のどんぶりを見下ろしながら、彼はぼそぼそと続ける。
「人のモノは盗るなって……五回目だって滅茶苦茶怒られた。」
どうやらあのあと、ゲーム内での件の収集癖をこっぴどく叱られたらしい。
「あ……あぁ、そう」
冗談のような話だが、それでも彼の表情は深刻そのものである。苦笑いをこらえるのにこちらも体力を使う。
「それ怒ってるっていうよりさ……」
「いつもここで食べるからその時謝ろうと思ったけど……遅くなるって、そのまま連絡が来てない。」
「私の話聞いてる?」
聞いていない気がする。
こうなると本人が出てくるまでは誰にも手がつけられないだろう。
「まぁ、そう深刻になるもんじゃないよ。ほら食べな食べな!」
いい加減見ていて辛くなるほどの有り様なので背中を叩いてやると、ちょうど上着のポケットにしまってあった携帯端末が震えた。
「ん?」
誰かからのショートメッセージである。
送り主は『スズムラちゃん』。
説明しがたいが、何やら嫌な感じがする。
念のため隣に背を向けつつ、文面に目を落とす。
そして、その"嫌な感じ"の的中に顔をしかめた。
「『今日は会えなくてごめん』って、キザキくんに会ったら代わりに謝っててもらえませんか?」
絵文字が添えられたその文を読み終え、苅部恭華はまた目頭を揉んだ。馬鹿に人のいい彼女のことだ。また誰かの面倒でも引き受けてしまったのだろう。
先週は入っていないサークルの打ち上げの幹事。先々週は属していないグループの課題資料の印刷。いや、それは先々先週だったか。ほかにも大小、もはや頭で覚えきれる範疇を凌駕するほどに彼女は人に任され、それを全うする。
「ううむ……」
確かに本人が直接告げるよりはましだろうが、これはあまりにも荷が重い。
「つーかなんで私がここにいるって知ってんだ……?」
言いかけたその時
ぱちん、と箸を置く音がした。
「お勘定?」
タオルで手をぬぐいながら、おかみさんが厨房から出てくる。
杖を手に立ち上がった木崎翔真が、早くも出口に向かっていた。
「え、ちょっと?」
苅部恭華が止める間もなく、彼は勘定を済ませて店を出てしまった。
「あちゃ……」
隠したつもりだったが、どうやら画面を見られていたようだ。
あれは、暫くこじれそうである。
「あい、親子丼」
空気の読めない親父の声に、彼女は肩をすくめた。
「もうちょい早く出せんもんですかね?」
「稲荷くん?」
親父の口から出たその名前に、苅部恭華は首を傾げた。
イナリ
木崎翔真がオンライン上で使用しているアバターネームだ。
それが何故、この店主の口から出たのかが理解できなかった。
そんなこととは知らないようすで、店主は続ける。
「稲荷くんさ。聞いてもだんまりだったから、まぁ、勝手につけたんさ。」
「助六カップルの稲荷の方。だから稲荷くん。」
続けるように答えたのは、皿の始末を終えたおかみさんだ。
「助六カップル?なんだそりゃ?」
おかみさん本人はなにやら言ってやったりな顔をしているが、はっきりいってこの上なくダサい。
「さっきあの子が食ってったろ?かけ蕎麦と、稲荷と海苔巻きのセット。」
「あぁ、確かに」
そう言えば、毎回あれを頼んでいるような気がしないでもない。
「元はスズムラちゃんの好物だったんだけど、あの子連れてくるようになってから、そっちまでそればっか頼むようになってね。」
「じゃあ海苔巻きはどこいったよ?」
訪ねると、店主は険しいような怪訝なような顔をする。
「あの子、あのセット頼むわりには海苔巻きは食べんからさ……干瓢が苦手とかで。それなのに毎回稲荷だけ食べて、海苔巻きはスズムラちゃんに譲るから。だから稲荷くん。」
「……」
なんとなく見えない話でもない。
鈴村恵と同じものをたのみ、その行動をなぞる。彼女の隣では、木崎翔真は常にそうだ。
まったくの正反対の環境に生きているにも関わらず、彼はそんなことを続けている。
それで彼女の一部にでもなったつもりなのだろうか。
あるいは
奇妙な偏食に、彼の歪さがまたひとつ垣間見えた気がした。
「"依存"ってやつかねえ……」
一人溢し、席を立った。
ここではこれ以上に暇は潰れそうにない。
「かあさん、お勘定~!」
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木崎翔真
身長170センチ
体重54キロ
血液型AB
写真家の父、衣装デザイナーの母、年の離れた作家の兄を持ち、高校進学まで某県の片隅の山地にある実家に住んでいたという、人並みならざる経歴を持つ。
外界と断絶された環境に長く身を置いたせいか、あるいは持って生まれた性か、対人関係に頓着がなくコミュニケーション能力にもただならぬ欠陥を抱える。
その表情には起伏がなく、また口を聞くことさえ希であるためその内面を察するのは至難である。
現在は実家を離れ、一人学生として生活している。
越してきてそろそろ一年経つか。
借りたアパートの一室までの階段を上り、右膝に手を着く。
疲労が鈍い痛みになって、じんじんと響く。
今日は、あまりいい気分にはなれそうにない。
あの人に会えなかった日はいつもそうだ。
まるで、世界から色が抜け落ちたような、どうしようもなく虚しい一日になる。
「……。」
帰ってきたが、することなど特にない。
壁際に杖を置き、机に座り、ぬるいミネラルウォーターで痛み止めを飲む。
学業に支障が出ない程度の必要な教材と、それ以外には大型のヘッドホンとゴーグルが一体化したような機材以外にはない寂しい空間だ。
フルダイブ型VRゲーム端末。
部屋にある唯一の娯楽品であるそれさえ、兄からほぼ一方的に譲られたものである。
木崎翔真はその機材の電源を入れ、それを頭に被る。
昔はよく、一人で山のなかを走り回っていた。
他にすることがなかったと言えばそれまでだが、それでも木々の合間を縫い、斜面を滑るあの感覚は、誰もいない世界で確かに生きている感覚を与えてくれた。
あの感覚を思い出すたびに、動かない脚が恨めしい。
兄がこれを譲ろうとしたのも、それを察したためだったのか。その辺りはもはや誰の知るところにもないし、彼もまた気にもとめない。
選択するアプリケーションは、昨晩もプレイしたガンシューティングゲーム『ソウルオブガンスリンガー オンライン』。
ジャンル内での評価は下の上程。登場するアイテムの種類は豊富だが、運営の管理の悪さやそれに伴うプレイヤー層の悪さが目立つB級作品である。
今手元にあるのはこのタイトルのみ。他の物をプレイしたことはない。
木崎翔真は空中に浮かんで見えるタイトル画面に触れる、その寸前で手を止めた。
《ver5.0.0》
視界を遮るように現れた表示に、木崎翔真は大きく瞬きをする。
アップデートの予告は、ここ最近受けていない。毎日ではないが頻繁に出入りしているので見逃すはずもない。
何かの間違いか
過ったその時、耳元を何かがくすぐった。
『来ないの?』
囁くような息づかい。
確かに、一瞬誰かが隣にいた気がした。
「……。」
《更新を開始しますか?》
目の前に現れる、「YES」と「NO」。
『いいよ、おいで?』
『みんな待ってるから』
ふと、突然目の前で何かが光った気がした。
何かが、空中に漂っている。
「……蝶」
赤い羽の、小さな蝶
誘われるように伸ばした手が、表示にしっかりと触れた。
《更新を開始します》
「……っ」
違和感は、全身で感じていた。
いつもとは違う、強引に引っ張られるような強い眠気。
ヘッドセットを外そうと手を伸ばすが、指先から瞬く間に感覚が消え失せ、視界を飲み込むように闇がせりあがってくる。
《コピー完了》
《ようこそ、箱庭へ》
意識は身体を抜け出し、奥へ奥へと落ちていく。
深い、闇の向こうへ