大人気ナイフ
「おい、何だよこれ。”なまくら”じゃないか!」
人気のない薄暗い路地のさらに奥の、最早お店なのかゴミ屋敷なのか見分けがつかない露店に乗り込んで、僕は大きな声を上げた。
「何かご不満でも?」
真昼間だというのに、まるでここだけ夜中みたいな暗さだ。破れた黄色いテントにぶら下がる、埃かぶったランタンが僕の目と鼻の先で揺れる。蛍火とも見分けがつかない弱々しく妖しげな光の奥に、鉤鼻を尖らせた中年の店主のニタニタした笑い顔がぼんやりと浮かび上がっていた。僕はその店主の薄汚い顔を睨みつけた。
「ご不満だらけだよ。何が”大人気ナイフ”だ。人参一つ切れやしないじゃないか」
僕は興奮気味にテントの下に無造作に並ぶ、商品棚の”大人気ナイフ”と書かれたコーナーを指差した。憤慨する僕に、店主はまるで堪える様子もなくいけしゃあしゃあと言ってのけた。
「へへ……お客様、それは”大人気”なナイフじゃなくて、”大人気ない”ナイフなんでさあ……」
「はあ?」
「何でもそのナイフは【呪い】のナイフでね……へへ……」
「呪……?」
そう言って店主は、土や泥で塗れた手で額の汗を拭うと、黄色い歯を剥き出しにして笑ってみせた。
□□□
切っても罪に問われない、【呪い】のナイフ。
だけど切れるものは限られていて、普通の野菜や肉などはどんなに刃を立てても切れやしない。その代わり切れるものと言えば……【呪い】が”大人気ない”と判断したものだという。
電車で困っている人にわざと席を譲らなかったり。
公共の場で大声で怒鳴ったり。
街中でタバコやゴミをポイ捨てしたり。
信号無視や、交通マナーの悪さだったり。
「普段は何にも切れやしませんけどね。そのナイフが切れると思ったら、どんなものでも切れますよ……へへへ」
僕は帰りの電車に揺られながら、店主の薄気味悪いニタニタ笑いを思い出していた。
勿論そんな眉唾ものの商品説明を、僕も鵜呑みにしたわけではなかった。大体説明を聞いても、呪いだか道徳なんだか知らないが、あまりにも切れるものが主観的すぎてよく分からない。第一そんなものを切って、罪に問われない保証もない。
僕はため息を漏らした。僕はただ、”なまくら”を摑まされた腹いせに店の奴に文句の一つでも言えればそれで良かったのに。電車が揺れるたびに、ズボンの右ポケットの中の、例のナイフの質感を僕は太ももで確かめた。
……何となくその場の雰囲気に流されて、結局持って帰ってしまった。こんな錆かかったナイフを持っていてもしょうがないから、こっそり帰り道の途中でゴミ箱を見つけて捨ててしまおう……そう思っていた、その矢先だった。
次の駅で乗り込んできたお婆さんが、優先席に座っていた若者の前で杖をついて立った。
「…………」
僕はその光景に吸い寄せられるように、じっとそのお婆さんを見つめていた。夕日に照らされていた車内が急に冷え冷えと静まり返った、ような気がした。
別にこんなこと、普段からよくある何気無い光景だ。僕は何も徳の高い人間でもないし、見ず知らずの人に説教を垂れるほどの度胸も偉さもないので、こういうことが「よくないな」と心の中で思っても見過ごすことの方が多かった。
「…………」
だけど今の僕には、例の”ナイフ”があった。電車がカーブに差し掛かって、大きく揺れた。お婆さんが態勢を崩して、前につんのめりそうになった。若者は音楽を聴いていて、スマホの液晶画面を覗き込んだままそれに気づく様子もない。それから、僕は、お婆さんから目が離せずにいて……。
□□□
切った。
初めて人を、切ってしまった。
布団に潜り込んで、僕はぼんやりと天井を見上げたまま、そのくせ何も見てはいなかった。何だか分からないけれど、体が震えていた。右手に残る肉を突き破っていく感触を忘れられずにいた。早鐘を打つ心臓の音を、久しぶりに聞いた。僕には心臓があったのだと思い出した。
崩れ落ちる若者。何が起こったのか、分からないと言った彼の表情。床に広がる真っ赤な血溜まり……何より僕が驚いたのは、周りの人達が何も言わないことだった。
僕が若者にナイフを突き立てても、誰も叫びもしなかった。警察を呼ばれたり、駅員さんに呼び止められることもなかった。普通に改札を出て、普通にバスに乗り、僕は放心したまま普通にいつも通り自宅に辿り着いた。帰り道の途中、真っ白なシャツにたっぷりと返り血を浴びた僕はとても目立っていたはずなのに、誰からも声をかけられることはなかった。
「…………」
僕はふと布団から飛び起きると、床に放り投げたズボンのポケットを弄って例の”ナイフ”を取り出した。錆びついた刃の表面を、まじまじと眺める。ナイフは何事もなかったかのように、どす黒い血でコーディングされたままじっと僕を見つめ返してきた。
「……!」
それから僕は出かけるたびに、その【呪い】のナイフを密かにポケットに忍ばせるようになった。
□□□
あれから僕の生活は一変した。僕は街で”大人気ない”ものを見かけるたびに、ナイフを振るった。あれほどインドアな性格だったのに、休日は専ら外に出かけることが多くなった。
出先で悪質なクレーマーを見かけては切り刻み、割り込む客を見かけては切り捨てた。いつも見慣れていた景色が、”ナイフ”が判断した正義と道徳の名の下に真っ赤に染まっていく。
何てったって、気分が良かった。まるでゲームみたいだ。僕は”正しい”ことをやっているに違いない。困っている人を助けているに違いない。”大人気ナイフ”様様だった。
どこかに”大人気ない”人はいないか。僕は意気揚々と目を光らせて、気分良く街から街を歩き回った。勿論右手には、”大人気ナイフ”をこれ見よがしに握りしめたまま。
もっと大きな獲物はいないだろうか。僕は街のど真ん中にできた大型スーパーに出向いた。案の定、二階建ての立体駐車場付きスーパーには街中からたくさんの人がたくさん集まって来ていた。僕は満面の笑みで、ナイフを握りしめたまま二階からエントランスを覗き込んだ。その時だった。
フロアで屯ろしていた人々がピタリと立ち止まり、まるで刃物のように鋭く冷たい目つきで一斉に僕を見上げた。
「?」
一体何が起こっているのか、僕にはわからなかった。思いの外静まり返っていたフロアで、誰かがポツリと呟いた。
「……人の後ろ指を指して歩くだなんて」
一瞬、僕は蛇に睨まれたカエルのように動けなくなった。対照に彼らは、その言葉が合図だったかのように、バッグやポケットから各々”何か”を取り出しながら僕の方目掛けて一斉に動き出した。
「彼……”大人気ない”わね」