第1話 ささやかな嘘
本多志保(高校二年・おうし座AB型)
高校二年になりたての春、私は中学校の同窓会の集合場所へ向かって歩いていた。まだ少し肌寒いけれど、街を行く人の服装はもう明るい色に変わっている。
私の隣に酒井くんが歩いていた。酒井くんは高校の部活の仲間で、それから、つい三日前に私を好きだと言ってくれた人でもあった。
「集合場所って、どのへん?」
「うん、もう少し行ったところにふくろうの像があるから…そこ」
「そっか、じゃあ、俺はこのへんで帰ろうかな」
酒井くんは立ち止まった。私も立ち止まった。
冬頃から、私たちは部活の中でなんとなく特別な関係になり始めていた。私は、恋ってもっと劇的に始まるものだと思っていた。好きな人ができて、思いがけず相手も私のことを好きになってくれて、ある日突然、それがわかって…。
でも、はじめて目の前で生まれようとしている恋は、突然の出会いや劇的な告白ではなくて、静かに引き合うように並んで歩き、いつの間にか二人の世界を作ることから始まった。恋をしたという自覚よりも、特別な人なんだという不思議な空気の方が早かった。それは空気であって言葉ではなく、そのまま育ってやっと三日前に初めて言葉になった。彼の告白、でもそれはやっぱり劇的ではなくて、知っていることを確認するみたいに甘くやさしく私に染みわたった。けれど私は同じようには答えなかった。
もちろん、私自身、酒井くんのことを好きだった。多分。
多分というのは、私自身が中学の時の好きな人を忘れていなかったから…
初恋の人。北村耕平くん。
ちょっといたずら好きな子供みたいで、でも優等生で、掃除とか日直とかの当番を妙に一生懸命やっていた中学の同級生。女の子とあんまり話をするほうじゃなくて、どっちかというと地味で目立たないのに、私にはとても素敵に見えた。すごく幼い気持ちにすぎなかったけれど、私は本当に彼のことが好きで、中学三年のバレンタインデーにチョコレートをあげて、卒業式にボタンをもらって、ありがとうと書いた春の絵葉書を出した。彼は私のことを好きとか嫌いとか考えていなかったみたいで、結局それっきりだった。
北村くんのきちんとえりまで止めたガクランと真っ白なスニーカー、それからまっすぐで短い飾りっけのない髪型。屈託のない笑顔。そんな映像がいつまでも脳裏から消えない。高校で酒井くんとほのかな恋が始まろうとしても、なんだか北村くんの思い出が心に引っかかっていた。だから酒井くんがはっきりと私に好きだと言ってくれても、私は答えられなかった。
同窓会の連絡が来ていたから。
同窓会で北村くんに会って、それでも酒井くんを好きだと言えるかどうかわからない。北村くんでなく酒井くんが一番好きな人だと思えるのなら、私も好きだと言おう…。
だから、私はこう答えた。
「同窓会で昔好きだった人に会って、自分がどう思うかを確かめたい」
酒井くんは言った。
「昔のことはどうでもいいから、俺のことどう思ってるの?」
だから、好きだよと答えた。
「でも、一番好きかどうか、それだけがわからないの」
酒井くんは釈然としなかったみたいで、なぜか同窓会の待ち合わせ場所の近くまで私についてくると言いだした。
「迷惑ならやめるけど」
「迷惑じゃないけど、どうして?」
「思い出って本物より美化されてるから、嫌なんだ。そいつに会う直前まで俺のこと見ててよ」
私にはその気持ちはよくわからなかったけれど、酒井くんの真剣さが嬉しかった。私は酒井くんを好きだったし、彼もそれは重々知っていたはずで、私の過去への感傷だけが宙に浮いたようになっていた。
遠目に少しだけ同窓会の集合場所が見えていた。何人か、どうやらそれらしい人の姿も見えた。もしかしたら向こうからも私が見えるかもしれない。私と酒井くんは駅の柱の陰に隠れた。
「…じゃあ、俺は帰るね」
「うん…」
「別に、後をつけて同窓会をのぞこうとか思ってるわけじゃないし、ホントにここから素直に帰るよ。でも、本多さんはもう高校二年で、中学三年じゃないんだよ。思い出は思い出だよ。今日の夜、また電話するね」
酒井くんはまるで私に見せつけるみたいに堂々と改札を入っていき、まっすぐに階段を上っていった。ちょっと強がっているみたいに見えた。でも、遠くに見えるその背中がとても温かかった。私は酒井くんのスニーカーのかかとが上り階段の先に消えていくのを最後まで見送った。
私を好きになってくれた人は初めてだ。だから少し不安を感じている。私が彼を好きなんじゃなくて、好かれたことが嬉しいだけなんじゃないかって思うこともある。本当は、私は今も北村くんを好きなままで、そして…
酒井くんの消えた改札に背を向けて、集合場所へ歩き出した。
「志保ー!」
懐かしい声が耳に届いて、私は思わず駆けだしていた。
「ひさしぶりー」
「ひさしぶりー」
みんな綺麗になっていた。一年ちょっと会わなかっただけなのに、やっぱり中学生と高校生では違って見えた。制服じゃなくて、それぞれ自分らしい服を着ておしゃれをしているせいもあるかもしれない。私だって、一生懸命おしゃれをしてきたつもりだ。そしてそれは、多分、半分以上が北村くんのためだった。
ドキドキしながらそっと群れを見回すと、北村くんはまだ来ていなかった。
「あと、誰が来るの?」
思わず訊いていた。でも、女の子たちは誰も知らなかった。
「幹事が知ってるんじゃない?」
「幹事、誰?」
「倉本じゃないの? 学級委員だったから」
私は気後れして倉本くんに聞きに行くことができなかった。私は男の子とあまりしゃべらなくて、北村くんは女の子とあまりしゃべらなかった。思えば、本当に眺めているだけの恋だったんだなと思う。
でも、それからそう時間もたたないうちに、背後で「北村じゃん?」という男の子たちの声が聞こえた。心臓がまずズキンと大きく飛び上がり、それから早鐘を打ち始めた。
思い出は思い出だよ、と酒井くんは言った。でも、恋は、会えなくなっただけで消えるものじゃない。北村くんの顔を見た瞬間、私は中学の頃のままちっとも変わっていない自分に出会うのかもしれない。
「なんか、北村、すげえ変わったな~」
男の子の声が続いた。弾かれるように私は振り返った。
――あなたは誰?
私は彼を見つめて凍りついた。
北村耕平くんは、肩につきそうな長めの髪を軽く整髪料でまとめ、おしゃれなシャツを着て、少し派手なジャケットを羽織っていた。ちょっと大きめに開けた襟元には細いネックレスがかかっていて、鈍い色のせいかそんなに嫌味な感じはしなかった。多分、ちょっとおしゃれでカワイイ系の素敵な少年になっていた。だけど、そこには私の好きだった彼はいなかった。
――彼の、きちんとえりまで止めたガクランと真っ白なスニーカー、それからまっすぐで短い飾りっけのない髪型。屈託のない笑顔。私はあの頃、彼のそんななんでもないところが大好きだった。
変わらないでいてほしいなんて、願う権利はないのかもしれないけど…
私は同窓会の一角に座っていた。まわりには懐かしい笑顔があって、そして、私の知らない北村くんがすぐそこに座っていた。
「志保ー、アンタさー、カレシと一緒に来てたでしょー」
突然、向かい側から声をかけられてびっくりした。晶子だった。
「えっ…」
「私もちらっと見た見た、わざとらしーぞー」
隣に座っていた由美もひじでつついてきた。
彼氏じゃないよ。そう言おうとして、私は言葉を飲み込んだ。
すぐそこに北村くんがいる。多分、この会話は聞こえている。さりげなくしているけど、丁度友達との会話が途切れてお皿に箸を伸ばしている今は、耳がフリーになっている。どう思うんだろう。私に彼氏がいるって聞いたら、少しくらいガッカリしたりしないだろうか…。私のことを、好きではなかったといっても…。
「え、なに、志保彼氏いんの?」
「うそー、中学の時そういうの全然なかったじゃん」
「いつから付き合ってんの?」
矢つぎばやに言葉が浴びせられ、私は一瞬戸惑った。北村くんは、黙々と何かを口に運びながら、間違いなくこの会話を聞いていた。
変わらないでいてほしかった…。
私は、ささやかな復讐を試みることにした。
「え、うん、一応、彼氏…。…去年の春から、付き合ってる…」
去年の春。北村くんにありがとうの絵葉書を書いた頃。
バレンタインデーのお返しもなくて、卒業式でボタンはくれたけど困ったような顔で黙っていて、絵葉書にも返事はなくて…。
「高校入ってすぐ?」
「うわー、早いね~」
友達の冷やかしの中、私はほんの少しだけ泣きそうになった。本当はそうじゃない。去年の春どころか、今だって付き合っていない。でも、今夜、酒井くんから電話がきたら前に進めると思う。もうあの頃の北村くんはいないから。私一人の、ただの思い出でしかなかったから。
あの春の絵葉書を最後に私の恋は終わったことにする。だから去年の春…。
北村くんは黙ってジュースを飲んでいた。きっと聞こえていると思う。おしゃれなシャツを袖まくりして、さりげなくカッコいい腕時計が見える。きっと中学の時よりも、女性にとって魅力的な男性になった。
でも、私の好きだった人じゃない。
だから、サヨウナラのかわりにささやかな嘘。