ストレルカの宇宙
わたしにはストレルカという名前の友達がいる。
高校二年のクラス替えで初めて会ったとき、何十回も名前の意味を聞かれているはずの彼女は、面倒がるそぶりも見せずに説明してくれた。
ストレルカは、ベルカとともにソ連の宇宙船に乗せられ、地球のまわりを一周したあと、無事、地球に帰ってきた犬だそうだ。宇宙が大好きなストレルカの母親が、父親を無理やり説き伏せてその名前を付けたという。
「このメス犬が」
なんて台詞を見たのはどの映画の中だったかな。
世の中にはいろいろな考え方をする人がいるんだなあと、それなりに平凡な名前をもらったわたしは、妙に感心してしまった。
伊崎ストレルカ。
ストレルカでは長いので、伊崎さん、伊崎、いさちゃん、サキ、イサッキーなどと呼ばれてきたらしい。最後のはちょっとどうなんだろう……。
わたしはそんな名前呼びの歴史も知らずに、仲が良くなってからは「ストレルカ」と呼び捨てにしていた。
ある日、どうしてひとりだけストレルカと呼ぶのか聞かれたわたしは、慌てて謝った。彼女はストレルカという名前が嫌いなのかと思ったからだ。けれど彼女は、怒ってない、むしろうれしい、そう言った。
わたしがストレルカという名前を呼んだ理由は単純で、「レルカ」の響きがなんだか、かわいかったから。ただそれだけの――名前を呼んだだけのことがきっかけで、わたしとストレルカは、より仲良くなった。
わたしは誰かと特別仲良くなったことがなかった。グループでいるときは自然に話せるのだけれど、二人きりになるとうまく話せずに黙り込んでしまうことがほとんどだった。
それなのに、ストレルカとの付き合いは、高校を卒業して五年経った今でも続いている。名前をつけた彼女の母親のおかげかもしれない。
重力の外を飛んだ犬の名前をつけられたストレルカだったけれど、彼女の興味は空には向かなかった。重力に引っ張られ、しっかり地面を踏みしめて歩くことに向いた。
宇宙飛行士やNASAは無理でも、あわよくばJAXAへ、それも無理ならなんでもいいから宇宙や天体関係の職へ……そんなふうに思っていた彼女の母親は、登山ガイドになった娘に、ときどき無念さをぽつりと零すという。
そのストレルカは、秋晴れのさなかをひいひい言いながら登っているわたしとは対照的に、小粒の汗をときどき拭き取る程度の動きしか見せない。
「夜の山、一回、見てみたいな」
登山番組を一緒に見ていて、そんな呟きが口をついてしまったことをいまさら後悔しながら、きつい傾斜を登っていく。
「舞、大丈夫?」
「大丈夫!」
傾斜の終わりに、ストレルカが立っている。喉の奥が熱くて仕方ないけれど、虚勢を張って応える。
話を聞いていると、いつもストレルカが登っているのは、標高が千メートルとか、二千メートルとか、そのくらいの山が多い。
ストレルカはその山々の魅力だけを語る。だからなめていた。山を。
五百メートルしかない山が、こんなにきついなんて。
へろへろになりながらキャンプ場に辿り着くと、話に聞いていたよりはずいぶん、人が少なかった。
「まあ、平日だしね」
わたしは仕事の都合で、平日が休みになることが多い。それに有給休暇を一日足して、やってきた。
キャンプ場に入り、管理棟に行って手続きをしたあと、外に出た。小屋や常設されているテント、炊事場、ベンチの置かれた小休憩用の四阿、きれいに整備された池などがあった。
わたしは久しぶりにわくわくしてきて、あれは何、それは何と、大して気にもなっていない設備に関してあれこれ質問した。ストレルカは、山登り初心者のわたしが言うどんなくだらない質問にも、彼女の名前を聞いた時と同じように、面倒がらずに答えてくれる。わたしだったら、自分が知っていて当たり前のことを聞かれたら、そっけなくあしらうかもしれない。そのやりとりを無駄な時間だと思わず、新鮮に楽しめるところが、ストレルカのすごいところだ。ストレルカと一緒にいるようになってから、甘えすぎないよう、まず自分でよく考えてから他人に尋ねるくせがついた。
スニーカーで芝生を踏むと、まとわりついた草がさわさわと音を立てる。この感触はずいぶん味わっていなかった気がする。わたしたちは常設設置のテントを過ぎて、来場者が好きな場所にテントを設置できるフリースペースの端っこまで歩いた。
場所を決めたわたしたちは、芝生の上にリュックサックを降ろして、その場に座り込んだ。
「疲れた……もう無理」
思わず呟くと、ストレルカが小さく笑った。
「えー、そこまで? 元運動部でしょ」
「やっぱ体って動かさないとなまるんだね」
ストレルカは腰を下ろすことなく、てきぱきとテントの組み立てにかかった。
ああ、甘えないようにしようと思ってたのに、結局……。そう思ったけれど、足の痛みに負けた。背中まで芝生に預けて、寝転んだ。
視界には、空と、雲と、芝生と、テントを組み立てるストレルカしか存在しなかった。
わたしは思いっきり伸びをして、深呼吸した。
少し休んでから気合を入れて立ち上がり、ストレルカの作業を手伝った。
女二人がどうにか入れるくらいの小さなテントを設置し終えた後は、管理棟に併設された食堂で、遅い昼食をとった。名物だというとんこつラーメンは、少し味が濃かったけれど、スープを全部飲み干したストレルカにつられて、半分ほど飲んでしまった。
チャーシュー四枚の大盤振る舞いだったラーメンを食べ終えて、食後のコーヒーとおしゃべりを楽しんだ後、キャンプ場の周辺をぶらぶらと散策した。さまざまな虫や草花に詳しいストレルカの案内で歩く山は、新鮮な驚きに満ちていた。
「このくらい歩けば、あのチャーシュー、消化できたかな……」
すでに体の中へ入ってしまったもろもろを、お腹の上から撫でる。
日が暮れかかり、昼間は青く輝いていた芝生も、やや赤みがかって見えるようになってきた。
「あれは相当、手ごわいよ」
笑ったストレルカの鼻先をかすめて、赤いとんぼが、飛んでいく。
「あ。とんぼ。これ、アキアカネって言うんだっけ?」
「はい、そうです。せいかい!」
ストレルカはわたしのほうへ体を向け、十本の指を合わせて、いびつな丸を作って見せた。でこぼこして、じゃがいもみたいな丸だった。
なんだかストレルカといると、ほっとする。
夜ごはんは、ポットに入れてもってきたお湯を使って、レトルトパックに入っていた卵ぞうすいを食べた。
安いレトルト食品なのに、星空の下、芝生の上にビニールシートをしいて食べるだけで、どうしてこんなにおいしくなるんだろう。
わたしたちは片付け終わったあと、しばらくおしゃべりをやめて、風が揺らす木々の音、虫の音、晴れてよく見える月や星々を眺めて、ぼうっとした。
後ろ手を突き続けるのに疲れて体を起こすと、ごろんと仰向けになっていたストレルカも、体を起こした。
「星ってきれいだよね」
ストレルカが呟く。続けてまた、ひとりごと。
「うん。やっぱり、星ってきれいだ」
笑いながら、
「どうしたの、いきなり」
と訊くと、ストレルカはすぐには答えなかった。
ややあって、
「わたし、月とか星とかにはあまり興味をひかれないんだけど、夜の山にいると、お母さんがわたしにこの名前をつけた気持ちが、ちょっとだけわかる」
わたしはもう一度空を見上げて、頷いた。
「そうだね」
どこにどんな星があるかはまったくわからない。
そんなわたしでも、これだけ光を放つ星々が宇宙のあちこちにあるんだと考えると、楽しくなってくる。
ストレルカのお母さんがのめりこむ気持ちも、わかる。
「でも」
ストレルカは立ち上がった。そしてビニールシートから離れて、しゃがみこみながら、芝生に手を置いた。
「でもやっぱり、わたしはここがいいかな」
そしてまた立ち上がる。
「わたし、思うんだよね」
月明かりに照らされたストレルカは、わたしの顔色をうかがうように視線を向けてきた。
「わざわざ空を見上げなくたって、ここも、宇宙の一部なんだよ」
ふだんなら茶化してしまいたくなるような言葉も、この静けさの中では、じんわりと胸の奥に、しみ込んでくる。
今度は、すぐには頷かなかった。
ストレルカが言った言葉の意味をじゅうぶん吸いこんでから、目で、ストレルカに続きをうながした。
「この芝生も、このテントも、水も、酸素も、生きてるのも、死んでるのも、わたしも、舞も、みーんな、宇宙の一部。だからわたしは、宇宙が好きだよ。ストレルカって名前も、大好き」
「そっか。そうだよね。いまいるここも、繋がってるんだよね」
「うん。本当は、ぜんぶ、ひとつなんだよ、きっと」
ストレルカは言ったあと、照れたように早歩きで戻って来た。
そしてビニールシートの上に飛び込むと、着ていたダウンで頭まで覆い、丸くなった。
「なんか変なこと言った! 今の忘れて!」
まだ少し顔の赤いストレルカが、ダウンにうずめていた顔を出すまで待って、それからは二人で取り留めもないことをしゃべった。
秋の夜風がやや肌寒くなってきたところで、わたしたちはテントの中に入った。奥がわたしで、手前が、早起きのストレルカ。
寝袋にくるまり、なんともいえない温かさに身を預ける。
テントの中でもしばらくしゃべっていたが、やがてしゃべり疲れたストレルカが、先に眠ってしまったようだった。
「ストレルカ?」
名前を呼んでも、返事がない。
わたしは笑いながら、目を閉じた。
たぶん、この夜のことはずっと忘れないだろう。
ストレルカの小さな寝息が聞こえて来てからも、わたしはしばらく、テントの外から聞こえる風の音に、耳を澄ませていた。
――本当は、ぜんぶ、ひとつなんだよ、きっと。
(2015/11/7)