我が家の未確認侵入者
最近、我が家では毎夜、不可思議なことが起きる、と私は思っている。それは決まって、家族がみんな寝静まった頃にやってくる。私の部屋は階段をのぼってすぐ、左手にあり、正面は兄の部屋なのだが、3時くらいになると、カチャッとドアが開く音がするのだ。人が出てくる気配がして、その足音はコツコツと階段を下って行く。キッチンの引き戸をカラカラと開け、またカラカラと閉めるまでがワンセットだ。毎夜その音を聞くが、二階の部屋に帰ってくる音を聞いたことは一度もない。一体、その音の犯人は、毎日、真夜中にキッチンで何をしているのか。まったくもって謎である。
私の日課は早朝、我が家のかわいいかわいいシベリアンハスキーのピローグ、通称ログたんと散歩に行くことだ。散歩といっても、家の周辺をてくてく歩くのではない。ジャージ姿で自転車に乗り、最低一時間、気の向くまま、ログたんと共に放浪する。刮目せよ!凛々しいログたんが、透き通るようなスカイブルーの目をキラキラさせて、てってけ走る姿を!
いけない、少し脱線してしまった。いや、ログたんは私の中では常に本線をひた走っているのだが、とにかく、なにが言いたいのかというと、暑さに弱いログたんと早朝に散歩に行く私は、家族の中で、一番早くに起きる。そして、部屋を出ると、毎朝それに遭遇する。そう、兄の部屋から、階段、そしてキッチンヘと向かう黒い足跡に。跡が付くとか、どれだけ汚い足で我が家の中を歩いているんだ。そいつのおかげで、今ではフローリングワイパーをマイルームに常備するようになった。夜中に不可解な音を聞くようになってから、私の日課に、足跡掃除が加わったのだ。ログたんとの散歩前に余計な手間を増やしてくれる奴に一言いってやりたい。足を拭けと。
しかし、私にそんな度胸はない。小心者と笑うなら笑え。普通なら、夜中に兄の部屋から出てくるのは兄だ。間違いない。だが、兄はとっくの昔に就職して、家を出ている。つまり、私の部屋の正面にある部屋は、今では立派な物置部屋と化しているのだ。そこから毎夜出てくる主に、ドアを開けて文句を言う勇気は私にはない。ないったらない。足の汚い幽霊がいるかは、わからないが、そんなものにすすんで遭遇したくはない。ということで、私はいままで沈黙を貫いている。
今朝、ログたんとの散歩から帰ってくると、母が朝食の用意をしながら、話しかけてきた。
「あんた、昨日、夜中にキッチンで何やってたの?まさか、お腹がすいて食べ物漁ってたんじゃないでしょうね。お母さんはあんたをそんな子に育てた覚えはないわよ」
「そんなふうに育った覚えもないってば。そんなことするくらいなら、寝ます。ただでさえ寝不足なんだから」
めずらしいこともあるものだ。一度眠りについたら、朝になるまで意地でも目を覚まさない母が、あの足音に気づいたらしい。だが、私のせいになってしまっているではないか。兄がいないのだから、そう思うのは当たり前なのだが、あいつのせいで、いらぬ容疑がかかってしまった。私は夜中に食べ物は漁らないぞ。よほど切羽詰まらなければ。
「じゃあ、何してたの?」
それは私が知りたい。ミルクたっぷりのカフェオレをグラスの半分ほどまで飲んで、母の質問から逃げるために、いや、まだベッドでタオルケットにくるまっている父を朝食へと呼ぶために、キッチンから廊下ヘ出た。
その日は土曜日だった。そう、カレンダー通り働く者にとって、日曜日という休みが後に控えていてくれる至福の曜日。ログたんの夕方の散歩まで、まだまだ時間がある昼下がりに、ほどよく散らかったマイルームのベッドに寝そべって、手近にあったファッション雑誌をめくっていると、スマホが鳴った。中学時代からの腐れ縁、もとい親友の由宇からだ。
「悠香、突然だが、我が家は最近、心霊現象に悩まされている!どうすればいい!?」
「とりあえず、お祓いに行こうか」
電話に出た相手に、もしもしさえ言わせず、第一声で、要件を言いきる由宇が私は嫌いではない。
「毎日、夕方5時くらいになると、奥の屋根裏に続く階段がある戸が開く音がして、階段のぼってく奴がいるんだけど。平日はお母さんが、休日はみんなで音聞いちゃって、気持ち悪いったら」
テンションの高い声がスマホから聞こえてくる。少し耳から離してみた。ちなみに、由宇の家は、昔ながらの平屋で、板張りの廊下の奥に屋根裏へとつづく階段がある。木戸を開けると階段があり、上りきったところにまた木戸があり、屋根裏へと繋がっている。普段は使われないので、開かずの階段となっているのだ。
「ちょっと、悠香聞いてる?」
おっと、あぶない。
「聞いてる、聞いてる」
本当に気持ち悪いと思っているなら、そして本当に悩まされているなら、私なんかに電話をかけている場合ではないと思うのだが、心優しい私は、由宇の話をうんうん、と相槌を打ちながら聞く。そして、ひとしきり話して、電話を切った。似たような話を聞いたことがあるような気がした。心霊現象が流行っているのだろうか。
最初のころは、兄の部屋から出てくる奴に、いつ、私の部屋のドアを開けられてしまうのかと、タオルケットに顔を埋めて震えていたりもしたのだが、毎日決まった時間に決まったルートを通るあいつに、だんだん慣れてきていた。このごろはログたんと元気に散歩するためにも大事な睡眠を、夜起きることもなく、たっぷりととっている。なにやら、自分でも精神的に一回り大きく成長したのではないかと思う。
しかし今日は、寝る前にがぶ飲みした麦茶のせいか、トイレに行きたくなって目が覚めた。時計を確認すると、朝の4時だ。不可解なあいつは、結構、時間に正確で、いつも3時から遅くても3時半までには、階段を下りてゆく。これは、恐怖におびえていたころの私調べだ。そして今は4時。あいつはもう去った後だ、と意気揚々とトイレへと向かう。我が家のトイレは、一階なので、階段を下りる。用を足して、眠いながらも、すっきりとした気分でマイルームを目指す私は、ようするに油断していた。ほてほてと階段を上ろうとしたところで、階段から下りてきた固い何かとぶつかったのだ。
「うむっ」
「おっと、びっくりさせんなよ」
それはこっちのセリフだ、と思った瞬間に身体が硬直した。がっしりした腕に抱きとめられている。早朝4時、我が家の廊下で。それもトイレの帰りに。
「大丈夫か?」
大丈夫じゃない!誰だお前は!と叫んでいる。頭の中ではもう何度も。もう少しで叫び声が出せると思うんだ。
「おい、生きてるか?」
そう言って、ひょいと覗き込んできた男は、叫ぶ一瞬前の私の顔を見た瞬間、片手で素早く私の口を押さえたかと思うと、もう片方で私の腰を抱き、引きずるようにキッチンまで走ると、引き戸を開け、そこに私ごと飛び込み、ピシャッと閉めた。多分3秒もかかってないと思う。こうして私は、一番心休まる場所だと25年間信じていた我が家から、誘拐された。
男は、完全に戸を閉めたあと、私をがっちりホールドしていた腕を解いた。この得体の知れない男は、確実に我が家のキッチンに走りこんだと思ったのだが、私の目の前には、1人用のベッド、書き物をする机などが備え付けられた部屋が広がっている。私は叫ぶのも忘れて、呆然とした。
「え、どういうことよ」
「あそこで、叫ばれると困るからな。一緒に連れてきちまった」
着崩した軍服のようにも見えるジャケットを脱ぎ、ベッドにどっかりと座った男は、にやっと笑った。私は、ぼんやりと男の野性味のある顔を眺めていたが、ふいに男が履いている編み上げブーツが目に入った。
「そうか。お前が足跡の犯人か」
いつもより、低い声が出た。この時の私はどうかしていたに違いない。よりにもよって得体の知れない誘拐犯に向かって、よくもあんな暴挙に出たものだと自分でも思う。
「は?」
何を言われたのか意味がわからないといった表情を浮かべた相手に私はつかつかと歩み寄る。
「人様の家に汚い土足であがりこむな!誰が毎日毎日掃除してると思ってるんだ!」
座っている男を見下ろし、色素の薄い榛色の頭をすぱーんと勢いよく引っ叩いた。それもこれもこいつのおかげで一回り成長した精神力の賜物である、と私は断言する。
「で、どうして我が家の階段を毎日、夜中に歩いてたわけ?」
まだ、なにがなにやら全くわかっていないが、とりあえず、書き物机と共に備え付けられているイスを引っ張ってきて、男の前に足も腕も組んで座った。一応私たちが入ってきたと思われるドアを確認のために開けると、見知らぬ廊下に出たので、静かに閉じて戻ってきたのだ。男は、あきれたような雰囲気を出しながら、面白そうな顔をして、私の行動を見守っていた。
「夜中?俺がいつもあそこを通るのは、夕方の6時ごろだぞ。今日はわけあって、7時になったが」
なるほど、ここと我が家では時差があるのか。
「いや、そんなことはどうでもいい。私は何してんだって聞いてるの」
「あー、なんだその、職場への近道に使ってる」
男は榛色の髪をわしわしとかきむしると、ばつが悪そうにふいっと視線をそらした。
胡乱な目つきになった私に男が居心地悪そうにしながら説明した内容はこうだ。男は城で魔術師として働いているが、住んでいる官舎は城内でも端に位置し、なにしろ職場が遠い。せっかく魔術が使えるのだから、ぱぱっと職場に辿りつきたいのだが、いかんせん城内は魔術使用に関する規則が厳しくて、どうにもできない。そうだ、それなら、城外を通る近道をつくってしまえばいいじゃないか、と思い立ち今に至る。いや、今に至るじゃないよ。いかにも剣を振り回してますみたいな体格の男が、魔術師なのか、とかそもそも魔術師って何、とか。確実に城外どころか、世界外通ってますよね、近道というか、究極に遠回りじゃないのとか。もうどこからつっこんでいいのかわからない私は、とりあえずもう一度、男の頭をはったおしておいた。
「そういえば、我が家を通るのは、帰りだけだよね?行きはどうしてるの?」
「行きはお前のところとは違う近道を通っている」
なんですと?いや、確実に出勤の方が、近道を使いたいだろうから、使ってるだろうとは思いましたけど。どうして同じ道を使わないんだ。非効率的だろう。
「ちなみに、出勤は何時ごろ?」
なんだか嫌な予感がしたので、確認してみる。
「朝は8時ごろには出るな」
洗いざらい吐き出して、開き直ったのか、男はしれっとした表情で答えた。我が家の地域とここの時差はだいたい9時間だ。驚くことに、1日24時間というのは共通だった。腐れ縁と書いて親友と読む同志、由宇よ。確かあなたのおうちは、夕方5時ごろ心霊現象に見舞われるのでしたね。よかったですね、幽霊ではないですよ、あなたの家族を悩ましていたのは。犯人はこいつです、こいつ。
なぜか、一方通行の近道しかつくれない魔術師の男に朝も早くから誘拐された私は、話が済むとすぐに家に帰してくれるように頼んだ。こっちの時間で夜9時になろうとしているところだったので、早く帰らないと、ログたんの散歩に間に合わないからだ。私の家に帰るには、まず男の職場に行って、内側からその扉を開かなければならないらしい。めんどくさいなと思っていたら、男がおもむろに手を差し出してきた。
「俺に触れていないと近道は使えない。早く帰りたいんだろ?さっさと手を繋げ」
そう言うと男は、私の返事も待たずに、手を握った。突然ごつごつと骨ばった大きな手にぎゅっと握られたことに驚いていると、すでに古い板張りの階段にいた。うしろで木戸が閉まる。多分というか、絶対これは、由宇の家の屋根裏へ続く階段だ。だいぶん年代物なのか、そうっと上っているのに、一段ごとに、ぎぃっと板が軋む。断じて、私の体重が重いからではない、はずだ。そうして慎重に上りきり、本来、屋根裏へとつながる木戸を男が開けると、重厚な机がドンと置かれた少し広めの部屋に出た。机の上には、なにやら難しそうな分厚い本が積み重なっている。ここが男の職場だろう。そして一旦閉めた扉を内側からもう一度男が開くと、目の前にマイルームのドアがあった。
「おおっ、本当に帰ってきた」
誘拐されたときは、どうしようかと思いましたよ。無事の帰還に感動していると、男がふ、と笑い声をあげた。
「当たり前だ。俺が毎日使ってるんだからな」
何を偉そうに、と思った瞬間、男がブーツのまま我が家の廊下に立っていることに気づいた。さらに、自分が拐われてからずっと裸足だったことにも、いまだ男と手をつないだままであるということにも気がついた。確実に由宇の家の階段を上るときは、手をつないでおく必要はなかったということには、あえて気づかなかったことにしておく。
「とりあえず、あんたは靴を脱ごうか」
私は、腹の底から響くような声を静かに出して、つないでいた手を思いっきり、振り払った。
「ログたーん、私は無事に生還したよー!」
我が家を通るときには、必ずブーツを脱ぐということを、徹底的に教え込んで、男を見送ったあと、真っ黒になった足を拭いて、ジャージに着替えた私は、愛しのログたんのところへ急いで向かった。ふぁっさふぁっさと、しっぽを揺らして迎えてくれるログたんの首もとに抱きつきにいったら、ぺろぺろと顔を舐めて慰めてくれる。
「ああ、さすがはログたん!カッコいいだけじゃなくて、優しいなんて」
2時間弱の異世界誘拐から帰ってきた私は、思う存分、ログたんの毛を撫で付け、もふもふを堪能してから、散歩に繰り出した。
帰ってきたら、由宇からメールが来ていた。いつもは夕方に出る幽霊が、今日は何を思ったのか、朝から出たという。そして、足音が増えた。どうしよう!といったものだった。すまない、親友よ。それは、私だ。心のなかで謝罪しつつ、とりあえずもう一度お祓いをすすめておいた。
男は私にバレてからも、相変わらず壮大なスケールの近道を毎日実行している。私の家族は鈍感なのか、いまだ彼の存在には気づいていない。そして必然的に私のキッチンでの食材漁りの容疑もはれてはいない。嘆かわしいことだ。腹いせに少しびっくりさせてやろうと、ログたんをマイルームの前にスタンバイさせておいたら、夜中の3時に「おおうっ」という男の低い声が聞こえたので、笑った。
最近、私は、夜中の3時の訪れが、少し楽しみになってきている。