溢れでるもの
田中三郎はその時、鯖について考えていた。
スズキ目サバ科に属するあの鯖である。
年齢を誤魔化す時によく使うあの鯖である。
三郎が自己防衛をする時によく使う手法である。
電車のドアに寄りかかるようにして、ぼんやりと外景色を眺めていた。
鯖のことを考えながら。他のありとあらゆる思考が入り込む隙間もなく。そう意識して。
車両の中で立っているのは三郎だけで、他の乗客は
座席に座り、文庫本を読んだり、携帯をいじったりしていた。
延々と同じような田園風景が続き、辺り一面はひっそりと静まり返っていた。
田を耕す老人の姿を見つけようとするが、呪いに掛けられた不吉な街のように
人影はまったく見当たらなかった。
「ふー」
思わずため息が漏れる。その声の大きさにすぐ隣に座っていたOL風の女性が
こちらをちらりと見やる。
三郎は決まり悪くなって、素知らぬ顔をして何も気づかない振りをする。
車内にこもった生温い空気のせいで、三郎は背中にじんわりとした汗をかく。
中に着ているTシャツがべたっと背中に貼り付いているのが分かる。
白いTシャツは傍目からは首元しか見えないが、その部分はもうよれよれになっている。
今朝鏡の前に立ったとき気がついたが、そんなことはもうどうでも良いことのように思えた。
しめ鯖、塩焼き、鯖味噌。
刺身にしても食えるかな。
鯖のさしみなんて聞いたことないけど。
電車の心地よい揺れに身を任せながら、相変わらず、鯖に関する無駄知識で頭の中を一杯にする。子供の頃、百科事典で調べたことのある内容を、搾り出すようにして思い出し、頭の中で反芻させた後から、鯖の調理法についてシュミレーションしている。
「さば、さば・・」
思わずまた囁くような声が口元から漏れる。
先ほど振り向いた女性がまたも、三郎の独り言を聞いてしまったようで、
またこちらを見る。目には嫌悪の色が浮かび、露骨に三郎を睨んでいる。
三郎は肩をすくめ、また外の景色に目を移す。
相変わらず、町は死んだように眠っている。
おそらく、電車の走る音だけが、今この町に響き渡る唯一の雑音だろう。
あるいは、電車の音でさえ、この町には安らかなメロディーとなって響いているのかもしれない。そう思わせるだけ、目の前に開かれた景色は穏やかに見えた。
さば、サバ、鯖、SABA。
音とならないように細心の注意を払いながら、頭の中を鯖の大群で満たす。
群れの流れが決して途切れないように、絶え間なく。
「さば、さば、さば」
その時、電車が駅に到着し、二人組みの男女が乗り込んでくる。
老人と子供。おばあちゃんと孫。腰の曲がったおばあちゃんのしわくちゃの手を、
男の子が包み込むように優しく握っている。
男の子が、甲高いキーンとした声で何か叫んでいるのを(それはおそらくおばあちゃんにしか理解できないのだろうけど)おばあちゃんがうんうん、と満面の笑みで聞いてあげる。
それは一瞬の光景だった。
しかし三郎は、その光景に目を奪われ、そして言葉を逸した。
顔から表情が消えていくのが自分でも分かった。その代わりに、胸にこみ上げてくる温かいものを感じた。それは全身にじわじわと染み渡り、指先にまで温かく伝わった。
指先を越え、体全体を包み、オーラのように全身にまとわりつき、それでも広がることを止めず、空気の中に溶け込まれいく。
唇が震え、かさかさと音が鳴った。
しまった、と思ったが身体はもう言うことを聞かなかった。
身体が粟立ち、血の巡りが活発になるのを感じる。
血は足元から、内臓を通り逆流し、頭のてっぺんにまで容赦なく動き回る。
思考が完全に停止する。眠っていた町の風景は色を失い、モノクロとなって三郎の瞳に映る。
涙がこぼれる。
押さえ込めていた感情が全身に溢れ出す。
小さい頃から、いつも僕の味方であった人。
帰りの遅い両親に代わってずっと僕の側にいてくれた人。
万引きをして警察に捕まった時、僕の代わりに必死で謝ってくれた人。
僕を自分の宝物だと言ってくれた人。
そして、もう二度と話をすることはできない人。
感情はとめどなく溢れ出し、喉元から突き上げる悲しみが
声にならない嗚咽となって表れる。
「う、う、うう」
どんなに理性で誤魔化そうとしても、感情はそれを許してくれない。
理性を越え内側からとめどなくあふれ出してくる。
堤防を越えた津波のように、一度溢れ出した勢いは簡単には止まらない。
全身から力が抜け、その場にペタンとしゃがみこむ。
「あんたは、私の宝物じゃけー」
祖母の顔が脳裏に浮かぶ。
田舎を飛び出し、祖母の死に目にも会えなかった自分。
その深い愛情を時にうざったいものとして、嫌がっていた自分。
あの愛情をどうして素直に聞き入れることができなかったのか。
そして、今どうしてその悲しみをくだらない小細工で滅しようとしたのか。
三郎は倒れないように精一杯手すりを掴み、声を上げて泣き出した。
「おばあちゃん、おばあちゃーん」
そうはっきりと声に出して言った。
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